「嫁と姑の心構え」

 
 母と川
 嫁姑の問題は永遠・不滅です。どんなに科学技術や医学が進歩しても、これだけはまったく進歩しているようには見えません。例外はほとんどありません。なぜそうなのか、それでもこのやっかいな問題に光をあて少しでも解決に近づかなければなりません。
 アメリカの結婚カウンセラーのアニー・チャップマンは、ある講演の中で母の生涯を偉大な川にたとえています。母は大河のようであり、船がそこを行き交い、流域の広大な地域に水を供給し、豊かな作物を実らせ、大地に恵みをもたらします。しかしそれは川が氾濫するまでのことであり、一旦氾濫すると、家屋に被害をもたらし、田畑を水浸しにし、せっかく実った作物をだいなしにしてしまう、というのです。(Focus on the Family インターネットラジオ放送局、テキサス)。
 前半は、子育て、家事などをとおして母親が家庭に実に豊かな実りをもたらす様子をダイナミックに描いています。そして後半は、姑と呼ばれるようになった母親が息子夫婦の家庭を混乱させ、ときにはその夫婦関係や親子関係にも深刻なひびが入る様子をたとえています。
 家庭と子供のために計り知れない犠牲を払ってきた、これまでの涙ぐましい努力がすべて水の泡となっていく過程をみごとに描いています。何と残念で悲しいことではありませんか。どうしてこのような残念なことが、いつまでもいつまでも繰り返されなければならないのでしょうか。どうしたら少しでも解決に向かうことができるのでしょうか。
 解決に向かうためにはまず、なぜそうなるのかという構造を知ることが決定的に重要です。もしその理由を理解し受け入れることができるなら、おそらくそれだけで問題の半分は解決したようなものであるからです。
 嫁姑とは、「息子の母親と息子の妻」との関係です。そこに問題が集中しているのです。「息子の父親と息子の妻」が問題にされることはあまり聞いたことがありません。「娘の母親と娘の夫」、「娘の父親と娘の夫」の場合も同様です。話が少しややこしくなってきましたが、もちろんそのような関係の中にも問題や衝突を経験している方もあるでしょう。しかしその場合は個々の問題で、一つ一つの内容と原因と解決は違っているはずです。しかし嫁姑の問題は、普遍的な人類の問題であり、ほとんどすべての場合に、共通の内容と共通の原因があり、ここに果てしない難しさと同時に共通の解決の希望もあるのです。
 
第一の原因
核家族化がすすんだ現代日本社会では、原因は三つではなく一つか二つであるかも知れません。しかしまず、日本型伝統的嫁姑問題の三つの共通点を考えてみましょう。争いの原因としては、最後のものが最も強力です。
第一は女と女の対決です。これは「娘の父親と娘の夫」の場合もある程度言えるのでしょうが、これだけでは混乱や対決までには至らない場合がほとんどでしょう。もちろんすべての女性が、お互いに敵意をもっているという意味ではなく、二人の女性が息子の結婚によって同じ土俵にあがったときに始めて、あの独特の女と女の戦いが始まるのです。
二人は勝ったり負けたりですが、姑は女性としては全体として負けていることを、心の奥底では無意識のうちに知っているのです。姑は女が古いと書くだけあって、人生のベテランであり処世術や家事に長けているのは当然です。その点ではほとんど勝利しているのですが、どんな姑も女性にとって最も重要と考えられている点では嫁に完全に負けていることを知っています。若さではかないません。どんなに努力をしても、この点に関しては今後も勝ち目はありません。
戦後しばらくして日本を訪れたあるアメリカ人の女性記者は、「日本とは、二十五才以上の女性を男性が女性と考えていない国である」などと、結婚すると急にぬかみそくさくなってしまう女性の印象をそのように報告しました。女性が結婚後も美しさを保っているいまは、だいぶ事情が違うでしょうが、いずれにしても負けている方がこれを認めるのはおもしろいことではありません。そこで自分が勝っていると思われる部分で勝負をいどみ、少しでも勝ち星を増やそうとするのです。そのようにして姑が嫁をいじめるのが伝統的嫁姑問題であるのですが、健康や経済など何らかの事情の変化で力関係が逆転するとき、反対のことが起こる可能性もあります。
 
第二の原因
 第二のものは、主婦の座の奪い合いです。伝統的な家(いえ)制度では結婚は単に一人の男と一人の女性の結びつきではありませんでした。今でも結婚式場には、「○○家、○○家結婚式場」と書かれた看板が出るように、結婚は第一には家と家の関係であり、一人の女性が何々家の「嫁」となったのです。
 彼女は一人の男性の妻である前に、○○家の「嫁」となったのです。その場合、家の「あととり」である長男夫婦は両親と共に生活することになり、従って一つの家に主婦が二人いることになります。そして一つの家の一つの主婦の座をめぐって、激しい戦いが繰り広げられことになります。味噌汁の味付け、タクアンの切り方、洗濯物の干し方など、戦いの材料は永遠・無限です。もちろん家事や家のしきたりや、家のやり方に関しては姑が超ベテランであり、圧倒的に有利な立場に立つのは当然です。そこであの姑の嫁いびりが始まることになります。このような状況は近年、核家族化によって急激に変化していることは言うまでもありません。
 嫁の育った家庭の流儀は、夫の家庭の流儀とは異なっており、嫁は新しい家庭では異分子であるのです。そして姑は息子がこれまでの流儀を捨て、嫁の流儀をいとも簡単に受け入れていく様子に我慢がなりません、とある結婚カウンセラーは指摘しています。
 前述のように、日本は「家(いえ)」が単位であり「家庭」がありませんでした。つまり「家庭」「ファミリー」という概念はもともと日本にはほとんど無かったのです。そして家制度をはじめ、古い日本の様々な概念が急速に崩れていく一方で、それに代わる「家庭」「ファミリー」の概念が日本で育つのはあまりにも遅れているのです。それに対して西洋キリスト教社会では、アダムとエバという夫婦から始まる家庭が最初から社会の最小単位になってきました。そのためキリスト教離れがすすんでいる西洋社会では、家庭の崩壊も急速にすすんでいるのです。
 
 第三の原因
 第三の原因は、第一と同様に普遍的なものです。しかし第一のものよりは、はるかに激しい対立をもたらす圧倒的に強力なエネルギーです。二人の女性が一人の男性を愛するときにおこる、いわゆる三角関係です。これは三つの中で最も激しく強力であることを知らなければなりません。従って、そのような思いに勝利するためには、様々な角度から考えることから始めなければなりません。
 恋人にふられたとき、「あの人さえ幸せになってくれれば」とのいじらしい言葉のほとんど百パーセントがうそです。実は、負け惜しみであったり、敗北した自分を慰める言葉にすぎません。
 母親と成人した息子の関係は、親子関係であり男女の関係とも言えるのです。自分の夫に実現しなかった成功を、今度は息子の中に見ているかも知れません。そして自分の息子とその愛を、いとも簡単にさらっていった嫁に対する負け惜しみや自己憐憫がはじまります。「本当は私との関係の方が重要なんだわ」と思いたいのです。
 
 互いに理解する
 原因を分析したその次は、どうしたらこのような問題を解決できるのかを考えなければなりません。第一は、互いに相手を理解するように努力することです。嫁は今や自分の夫となった男性の母親の、長年の苦労や忍耐や愛を理解し評価しなければなりません。そしてその次に、自分はその愛をたったの三ヶ月か半年で奪ってしまった、厚かましい女であることを認めなければなりません。
 さらにその次には、一人のあわれな男性が間に入って苦しんでいることを、二人の女性たちは理解しなければなりません。こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てばこちらが立たず、で永遠に苦しまなければならないのです。しかも解決は男性の手の内にはありません。女性たちが賢明にならなければ解決はありません。そして解決のために最も大きな役割を果たすことができるのが姑であるのです。しかし同時に、それが最も難しいのも実績のある歴史的現実です。
 
 父母を離れて
 姑はまず、息子に関する三角関係では嫁に負けている、と心に決めなければなりません。それが嫁姑問題解決の始まりであり終わりです。眠りから覚めたアダムが、エバを見た瞬間に何と叫んだかを覚えておられるでしょうか。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これこそ女(原文のヘブライ語では「イシャー」)と呼ぼう。まさに男(同「イシュ」)から取られたものだから」(創世記2・23)。親子の関係が夫婦の関係に席をゆずるときが必ず来ます。結婚を制定された神ご自身が、このように宣言されたからです。「こういうわけで、男は父母を離れて女を結ばれ、二人は一体となる。」母と子は地上で最も親密な関係です。しかし、いつまでもそうであるべきではありません。それはある時期までに限定されなければならないのです。
 息子(イシュ)の前に女(イシャー)が現れる時までです。そのとき我が子も女性を見て、「ついに、これこそ」などと言うはずです。不公平であることを認めます。母親はそこまで行くのにどんなに多くの苦労をしてきたことでしょう。寒く眠たい夜におっぱいをあげるのに起きたのは、何百回でしょうか、何千回でしょうか。オムツを変えるのもたぶん同じぐらいでしょう。朝早くから起きて弁当をつくりました。青い野菜、黄色い野菜、白い野菜の栄養やいろどりを考えて、バランスよく弁当に入れて幼稚園や学校に送り出しました。
 しかし息子の心が女に奪われるのは、それに比べるならほんの一瞬です。これまで何もしたわけでもない女が、すべてを一瞬にしてさらっていくのです。「真夏の夜の夢」というシェークスピアの喜劇には、目が覚めた時最初に見たものと恋に陥るという魔法の目薬が登場します。最初に見たのはロバの頭をした魔物でした。母親にとってロバのように見えても、息子はロバ嫁にしっかりと心を奪われてしまったのです。確かに恋とはそういうものですね。シェークスピアの天才に驚嘆。ちなみにパパパパーン、、、というあの結婚行進曲は、メンデルスゾーンがこの劇のために作曲した音楽の一部です。
 さて姑の側がこれを認めるのは地上で最も困難な仕事の一つです。だからこの問題とその悲劇は、これまで永遠に続いてきたのです。これに勝利する方法はすでに申し上げました。つまり母親の息子に対する責任は期間限定であると姑が認めることです。「息子が独立するまで育て上げたことに誇りを持つ」と、より積極的に言い換えても同じです。息子が母親の愛と庇護から脱出できなければそれこそ最大の悲劇ではないですか。男は母の愛なしには、母の引力から脱出できません。そして母が息子に最後に与える愛は、その妻に対する敗北宣言であるのです。何とつらい役割でしょうか。
 もちろんこのような困難な作業をするためには、姑の夫の助けと愛が必要です。夫の理解と愛がなければますます困難になってしまいます。しかしそれでもやはりやらなければならないでしょう。息子の幸福のために、「あの人さえ幸福になってくれれば」と心から言うのです。
 
 人格として愛する
 母親と息子の愛は、最初に指摘したように自然的なものであり、言い換えるなら、その分だけ人格的な愛ではありません。自然の愛が強ければ強いほど、人格的な要素は減少します。もちろん自然の愛は自然であり悪ではありません。しかしそれが次の段階に進むための妨げになることも知らなければなりません。息子と嫁は新しい家庭を築こうとしています。親から分離して個人的にも家庭としても別の人格になろうとしているのです。たとえ真心から出た親切な行為であろうが、それは別の人格と家庭にとって有益であるかどうかは分かりません。しばしばそのような親切はおせっかいであり、ありがた迷惑であるかも知れないのです。
 母親は今度は、別の人格として息子を愛するという、これまでには無かった新しい人間関係に入るべき時が来たことを悟らなければなりません。