「孤独のキリスト」

 
 
マルコ福音書14:27
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆、わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。』と書いてあるからだ。」
14:51~52
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
 
 
 孤独
キリストの苦しみをとくに考える一週間が受難週であり、今日はその最初の日です。キリストの十字架は、受難のクライマックスであることは言うまでもありませんが、十字架がキリストの受難のすべてではありません。今日はキリストの経験された孤独という視点から受難とその意味を考えましょう。 
天国と地獄は、信じる人と信じない人があるでしょう。聖書はその両方を教えています。しかしそれは、多くの人々がイメージをするような天国や地獄ではないでしょう。たとえば天国は、はすの花が咲いた池の縁でのんびりするところではありません。また地獄は赤鬼や青鬼が鉄棒を振り回しているところでもありません。地獄は聖書で、「泣きわめき歯ぎしりする」などとしばしば表現されています。苦しみがだれにも理解されない孤独が、「泣きわめき歯ぎしりする」地獄の特徴であるようです。苦しんでいても理解されるなら、その苦しみは何と軽くなるでしょうか。でもそこではどんなに「泣きわめいても」だれにも聞かれることなく、ただ「歯ぎしり」する他はありません。地獄の特徴は孤独、そして最も恐ろしいのは、それが永遠に続くことです。
 
天国と地獄
天国が地獄の反対の場所であるなら、その特徴は、「調和」、「ハーモニー」、「愛」、「友情」です。口から出た言葉が書留郵便のようにちゃんと心に届き、その人の心に平安をもたらすのです。人と人、神と人、人の言葉と人の言葉、神の言葉と人の言葉がそれぞれ調和しているところが天国です。
言い換えるなら地獄では、「不調和」が最大の特徴です。交わりが完全に拒否されています。言葉は両刃の剣のように人の心を刺し通すために用いられます。私が子供のころ、風呂場にいつも置いてあった父のかみそりの刃を恐れていたのを今でも覚えています。両側にするどい刃がつけられ、どちらにちょっと触れても手が切れるからです。そのようにどんな言葉も、人の心を傷つけるために用いられるなら、その人の心の状態は地上の地獄に近いと言わなければなりません。
 
最大の苦しみ
キリストにとって地上での最大の苦しみは何であったのでしょうか。肉体の苦しみは最高度のものであったことは言うまでもありません。フィリピンのある地域では、受難週に2000年前のキリストのように実際に若者が釘で十字架に付けられ、その苦しみを味わう行事が行なわれるそうです。苦しみと傷みのあまり、多くの若者が気を失うと言われています。
このような行事は間違っています。キリストの最大の苦しみは肉体の苦しみではなかったことが重要な理由の一つですが、最大の理由は後で考えます。私たちは、キリストの苦しみを知り尽くすことなどできるはずはありません。もしそうすることのできるただ一つの方法があるとすれば、それは地獄に住むことであるからです。
 
「打つ」
 イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と。彼らがつまずこととその理由は、ゼカリアがすでに、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と預言していました。「打つ」の主語は「わたし」、すなわち神であり、羊が散るのは神の行為でもあるのです。神がイエスを取り去り、その結果、羊は散るのです。
 ゼカリアはイエスを羊飼いとして、また、このお方を羊飼いとして受け入れなかった羊の群れがイスラエルであると言っています。日本政府が、「期待される人間像」という文書を発表したことがありました。もちろんそれは、政府にとって都合の良い人間像であったのですが、イスラエル民族はその逆のことを行いました。イスラエルは、良い羊飼いの理想像を自分で描く特権をもっていると思ったのです。
 
 「つまずく」
羊の群が散るのは神の行為であると同時に、弟子たちを含む羊の群の行為でもあるのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく」とイエスは言われました。ここでは、「つまずく」の主語は、神でなく弟子たちです。「つまずく」は預言者の言葉では、「散る」と言いかえられ、キリストがローマの兵士に逮捕されたとき、弟子たちが逃げ去ることを予言しています。彼らにはまだ選択がありました。なおも羊飼いについていくこともできたはずです。でも彼らは逃げ去ったのです。
 
「散る」
 弟子たちは四方八方に散っていったのではありません。彼らは、ある方向性を持っていました。地理的には東西南北様々な方角に散っていったかもしれませんが、心が向かっていた方角は一つです。キリストが引っ張っていかれるのとは正反対の方角に散っていったのです。いのししのように、いつでも前に向かって突進するのが良いのではありません。勝利するためには、「退却」が必要な場合もあるでしょう。しかし彼らの場合はそうではありませんでした。勝利ではなく、「敵」に目が注がれていたからです。自分たちも縛られるとの恐れに縛られていたからです。
 
 自由のために
いま世界中の多くの人々が自宅に閉じ込められ縛られていますが、キリストは縛られている弟子たちを恐れから解放しようとなさいました。彼らが自由に歩きまわれるために死なれました。縛られている者たちを解放するために、キリストご自身が縛られたからです。
しかしその前に逃亡の罪をとりなす必要があるのを御存知でした。兵士は軍隊から逃げると脱走兵とみなされます。まず弟子たちのこの罪が処理されなければなりませんでした。
イスラエル、キリストの弟子たち、そして私たちが本当に自由になるためには、その罪が処理されなければなりません。もちろん弟子たちの罪は逃亡だけではありません。様々な罪、あらゆる罪がとりなしを必要としています。それゆえキリストの受難は、あらゆる罪をカバーしなければなりませんでした。
逃亡の罪と、縛られる恐れからの解放がこの説教のテーマです。そのためにキリストは完全な孤独を経験しなければならなかったのです。モーセは二つに分けられた葦の海をイスラエルの民の大群衆と共に渡りました。しかしキリストは裁きの深い海を全く一人で渡らなければなりませんでした。海を渡ったモーセは、部分的にはキリストを指し示していました。しかしモーセとの違いは、完全な孤独です。
 
 神による孤独
キリストは二つの意味で孤独を経験しなければなりませんでした。まず第一は、神による孤独です。神は羊ではなく羊飼いを打たれたのです。キリストの受難に関係するすべての出来事は、成り行きで偶然起こったのではありません。確かに十字架は、ファリサイ派の人々、律法学者、祭司などイスラエルの宗教指導者のねたみと敵意によって引き起こされました。しかし同時に、ゼカリアが預言していたように、すべては神の行為でもあったのです。神が弟子たちを羊飼いから引き離したのです。
キリストはそのことを御存知でした。それゆえ、苦しみの道から逃げる多くの機会があったにもかかわらず、あえて十字架に向かわれたのです。敵である悪魔も味方である弟子たちも、十字架などやめなさいと提案をしました。しかしキリストは、逃亡ではなく縛られることを選びました。
 
弟子たちによる孤独 
弟子たちが逃げ去ったのが神の意思の結果だけであったなら、その苦しみには大きな慰めがあったことでしょう。神の子にとって、父なる神の御心を成し遂げることは喜びであるからです。しかし、神の子は人の子となられたことを忘れてはなりません。キリストは人間の肉体と人間の魂を持った純粋な人間でもあられました。
人間は本質的に交わりを求める生きものです。人の魂は理解してくれる者、同情してくれる者、経験や喜びを分かち合う者を必要としているのです。地上の生活を共にした12人の弟子たちは、主イエスを捨てて去っていきました。主イエスは神から使命を受けたメシアであるゆえに、このような場面を簡単に乗り越えることができた、などと考えてはなりません。イエスは最も繊細な感受性を持った人間の魂の持ち主であったからです。
敵からの悪意ある言葉や態度は、確かに人間イエスの心に快いものではなかったでしょう。しかし、愛する者が見捨てて逃げ去っていくことは、さらに深い傷をイエスの心に負わせました。
 
 一人の若者
 そのようなとき、一人の若者の姿が主イエスの目に入りました。「わらをもすがる」という表現が神の子にとってふさわしいかどうかは疑問ですが、若者の姿によって人間イエスの傷つけられた魂の中に、一筋の弱い光が指し込んだに違いがありません。ほとんどの弟子たちが逃げ去ったときに、なおもイエスについてくる若者があったのですから。
 この「若者」に関しては、マルコ福音書だけが記しており、ほとんど情報がなくミステリーです。「素肌に亜麻布をまとっていた」ことから、かれが裕福であったこと(亜麻布は高級品)、素肌にまとっていたことから、よほどいそいで家を出たことなどが分かる程度です。キリストはこの無名の青年の存在に気がつかれたのです。長血の女が群集の中で着物の縁に触れたときのように、剣やこん棒を持った男たちの足音や怒号の中で、主イエスの目はこの若者の上にとまりました。
裏切り者のユダに導かれた一行は、まず最初に、最後の晩餐がおこなわれた家に押しかけたのかも知れません。次にはゲツセマネの園を探し回ったに違いがありません。
 
さらに孤独へと
この若者がだれであるかについては様々な説があります。私の共感する説を一つだけご紹介しておきましょう。若者ははこの福音書の著者であるマルコ自身というものです。マルコだけがこの若者について書いています。そしてその名を伏せています。
しかしそれがだれであったのかはそれほど重要ではありません。この青年も結局は逃げ去ったこと、そしてそれを見た主イエスをいっそう孤独に追いやったことこそが重要なのですから。希望の芽は完全に摘み取られ一筋の弱い光りも消えました。
私は夜も明るい都会育ちで真っ暗な夜というものを知りませんでした。しかしウクライナの田舎の村で始めて真暗闇を経験しました。歩いている道の状態はもちろん、隣に歩いている人の顔も、自分の足も手も見えません。光の無いところではダイヤモンドも光ることはできません。キリストの純粋な心の中には一筋の光も入り込むことはありませんでした。闇が完全に支配しているかのような夜でした。
行動を共にした親しい者、説教に熱心に耳を傾けた者、食事を一緒にした者、結婚式の披露宴で同席であった者、そのすべてが去っていったのです。
 
 苦しみと喜び
キリストの苦難の性質は、キリストを信ずる者があずかる祝福に対応しています。キリストの地獄の苦しみは、私たちが天国に住むためです。キリストの悲しみは、私たちの喜びのためです。
この説教の最初に、フィリピンの受難週の行事について触れました。そして、そのような習慣は間違っていると言いました。その第一の理由を保留にしていましたので、ここで明らかにします。いやすでに明らかになっています。
 キリストがその肉体と魂で極限の苦しみを経験されたのは、私たちがそのような経験をすることがないためです。私たちの罪を背負われたため、キリストは私たちに代わって十字架にかかってくださったのです。キリストの十字架によって私たちは、罪の刑罰とその恐れから解放されました。それなのに、なぜ、再び、十字架を経験する必要があるのでしょうか。
 私たちのなすべきことは、「イエス様、私もあなたを捨てました」と告白することだけです。弟子の一人ヨハネは、キリストとその福音について「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触ったもの」(1ヨハネ1:1)と表現しています。彼自身がキリストを捨てた経験と罪意識を持っていたので、キリストによる救いの恵みがそれほどリアルに迫ってきたのでしょう。
 
解放
キリストの苦しみを私たちは知ることができません。キリストの孤独を私たちは経験することはできません。キリストの苦しみによって獲得された救いの喜び、そしてキリストの孤独によって回復された命の交わりを経験すれば良いのです。それがキリストの受難の目的ですから。