「見えないウィルスと見えない神」
①「石をパンに変える」
 

 
 マタイ福音書4:1~11
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。
 
 
 見えないテロリストの攻撃に世界中が怯えています。ほんの2~3週間で、世界の国々の様子はまったく変わってしまいました。最強の国アメリカも例外ではありません。いやむしろ最強の国が最小の敵によって最悪の国になっているのです。
見えないウィルスは、これまで見えなかったものを次々と見えるようにしていきました。ウィンドーズ95の出現で、「私にも使える」と思い始めた見えないデジタルは、たった四半世紀の間に驚異的な進化を遂げました。そしていま、AI、5G、電子マネーなどによって加速度的にさらなる前進を遂げようとしているかのようです。
 このデジタル革命は、ローマ帝国の崩壊、宗教改革、二つの世界大戦、ソビエト連邦の崩壊、など世界史の超重大事件にも相当する出来事であると私は思っています。私たちはそのような歴史の重大局面の一員としていま生きているのです。グローバル化はこのデジタル革命がもたらしたものの一つです。ネットによって世界の情報やマネーが瞬間的に一つにつながります。地球の裏側の情報は、1秒もしないうちに地球の反対側に伝わります。そして新型のウィルスも、見えないデジタル信号のように「あっ」という間に世界を駆け巡ったのです。明治時代はもちろん50年前にもありえなかったことです。
 新型コロナウィルスは、これまで栄光の名称でしかなかった「グローバル時代」の欠陥と弱点を暴き出しました。江戸時代の日本のように、世界の国々はいま国境を封鎖し鎖国をしています。グローバル化は世界を一つにつなげたのではなく、「〇〇ファースト」の精神を強化し世界の国々を一つにつなげたのでもなく、世界をばらばらにし自己中心にしたのではないでしょうか。いや実はそうであるのが見えるようになり正体を現しただけ、と言うべきでしょう。デジタル革命は未来を近くに持ってきたのか、それとも現在を過去に引き戻したのか、非常に分かりにくいのです。
 資本主義は人々の欲望を刺激し、欲望はますます大きくなっていきました。新型は1年後には旧型になり、もっと新しくもっと進化したものが欲しくなります。人間の欲望は限りなく巨大化していきます。しかし経済的にどんなに豊かになっても、近代技術がどんなに発展しても、人は満足することを知りません。欲望を満足させるための発明は、かえって様々な問題を引き起こし、人々の心はもっと不安に、もっと不満足になっているのです。見えない放射能、地球温暖化、プラスチックのマイクロチップスによる海洋汚染、そして新型ウィルスの世界的な拡大の恐怖と不安。見えないもの、見えにくいもの、が人類に襲いかかろうとしています。クリスチャンはこのような時代をどのように生きればよいのでしょうか。今日の聖書のテキストから考えてみましょう。
 
 代表者
 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」「40」という数字と「荒野」という場所は暗示的です。イスラエルは40年間シナイの砂漠をさまよい、そこで試みを受け無数の失敗と罪を重ねたからです。主イエスは、同じような荒野で40日40夜、悪魔から試みを受け悪魔の誘惑を退け勝利しました。イスラエルの失敗は、コピーをしたように私たちの失敗や罪と重なっていないでしょうか。さらには、アダムとエバまでさかのぼって考えるべきです。第一のアダムが失った永遠の命を、第二のアダムであるキリストが回復してくださったのですから。
 勝利か敗北かは、だれを頭(かしら)とするかで決まります。多くの敵を倒した兵士も、大将が敗北すればその戦いには負けたことになるのです。反対にどんな弱くても、勝った方の大将に属している兵士は戦いに勝ったのです。クリスチャンとはキリストを頭として選択した者であるため、罪深く弱い私たちも人生の全体に勝利しました。そこがクリスチャンの出発点です。キリストは頭として、代表者として、荒野で40日間、試みを受け勝利されたのです。
 エデンの園でのアダムの受けたテストと、荒野での第二のアダムの受けたテストは、全く異なった状況のもとでなされました。アダムは最高の環境で誘惑され、主イエスは最悪の環境で誘惑を受けました。楽園ではすべてのものが神の愛を表していましたが、砂漠では神に見捨てられた命のない砂と石に囲まれていました。花も小川もすべてがアダムをあたたかく見守り、日中の焼け付く太陽と夜の凍える寒さなど、すべてがイエスを攻撃しているように見えました。アダムは最も易しい状況の中で失敗し、イエスは最も困難な状況の中で誘惑に勝利されたのです。
 
 第一の誘惑
 チキン・ラーメンを発明した日清食品の創立者が、「空腹は人間の苦しみの中で最高の苦しみだと思う」と書いていました。ラーメン屋さんの言葉だけに説得力があります。食欲は人間の三大欲望の一つとも言われます。食物を絶たれることは、命を失うことに通じています。いま世界が新型コロナウィルスで混乱しているのも命がかかわっているからです。
 悪魔は食欲を利用して、肉体を取った神の子を誘惑しようとして言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。これが誘惑になり得るということは、二つの真理が前提となっています。イエスは空腹を感じる本当の人になられたということ。しかし同時に、石をパンに変える能力をもった神の子であること。「石をパンに変えてみよ」という悪魔の言葉が、もし私たちに語られたとすれば、それは誘惑ではなく単なる冗談にすぎません。私たちは石をパンに変えることなど不可能であるからです。
 第一の誘惑の本質は何であったのでしょうか。幸い、三つの誘惑にはそれぞれの誘惑に対応する撃退の言葉も記されていますので、それを手がかりに誘惑の本質をさぐることができます。悪魔の最初の誘惑に対する主イエスの言葉は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」後ほどこの言葉の意味を詳しく考えますが、申命記からの引用である主イエスの反撃の言葉は、神と神の言葉に対する信頼を語っていることは明白です。
つまり悪魔は、主イエスの神に対する信頼をゆるがせようとしたのであり、ここに第一の誘惑の本質があります。霊がイエスを導き出した場所である砂と石ばかりの荒野は、パンに代表される食物が通常の方法では手に入らない場所です。40日の断食は人間の命の限界であり、生命の危険に直面している状態です。荒野にはスーパーマーケットもレストランもありません。そのような状況で、神の愛と神の守りに信頼することが求められていたのです。悪魔の目的は、このような困難な状況を利用してイエスの神への信頼を他にそらせてしまうことにありました。しかし神は、悪魔の策略をも用いて、主イエスを神へのより高い信頼へと導く機会とされました。それが「霊に導かれ」た理由です。悪魔の計画も最終的には神の計画のために用いられたのです。
 
 申命記8:3の誤解
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」前半は聖書の最も有名な言葉の一つですが、誤って理解されることが最も多いの言葉でもあるのです。たとえば「霊の食物こそ尊いのであって、肉体の食物は重要ではない」というように霊の必要と肉の必要を対立的に考えることです。このような誤解に対しては、「だけ」という小さな言葉が大切です。パンの必要性ではなく、「パンだけ」というようなパンの絶対性を否定しているのです。パンさえあれば生きられる、パンがなければ死ぬ、というような考え方が問題なのです。もちろんパンは様々なものに置き換えて考えなければなりません。
 もう一つの誤解は、クリスチャンの間でもっと一般的です。「パンが肉体を保ち肉体が成長するために必用であるように、霊の食物である聖書のみ言葉は、私たちの魂を養うのに不可欠である」という解釈です。もちろん、そのこと自体は全く正しいのですが、この個所のメッセージではありません。天からのパンであるマナは否定されていません。神はマナを天から与えてイスラエルを養われました。ポイントはマナがイスラエルを養ったのではなく、マナを与えた神が養ったことです。荒野のイスラエルは今日の私たちのように聖書をもっていませんでした。そのイスラエルに対して、「聖書を読むことは肉体の栄養よりもっと大切だ」と語られるはずはありません。
 
 申命記8:3の意味
 それでは、主イエスによる申命記8章3節を引用した本当の目的は何でしょうか。40年間、毎日着ている着物や履物がすり切れないのは、まさにおどろくべき奇跡であり神がイスラエルを守られたからです。そしてマナも全く同様であり、前述のようにマナがイスラエルを養ったのではなく、マナを与えた神が養ったのです。「光あれ」と神が言われたとき光が出てきました。「地は草を芽生えさせよ」と神が言われたとき、地には草が芽生え種と実をつけました。それが神の口から出る言葉の特徴であり、人間の言葉との違いです。人間の言葉は裏切ることがあるのですが、神が言われるとそのようになるのです。
 神が死ぬと言われたとき、私やあなたは死にます。病気になったから、高齢になったから死ぬ、というのは表面的な理由にすぎません。根底にある死の本当の理由は、「主は与え、主は奪う」(ヨブ1:21)からです。人間の命はパンにつながっているように見えるかもしれません。でも最終的には神にだけつながっているのです。荒野のイスラエルはこの真理を悟るためには、非常にシンプルで最も分かりやすい環境に置かれていました。神の口から、「マナを降らす」という言葉が出てこなければ、彼らは死ぬほかはなかったからです。
しかしやがて入ろうとしていた約束の地カナンは、荒野とは対称的に豊かな地でありこの真理を忘れる危険がありました。そして私たちの豊かな時代は、さらに忘れやすいのです。物も食料もあふれ、神とのつながりを見出すのは極めて困難です。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉を、現代の私たちはさらにはっきりと意識して毎日を生きなければなりません。コロナウィルスの世界的な感染拡大は、豊かな時代に生きる人類と私たちに対する警告です。買いだめをしておけば安心と思ってはなりません。
 
  代表者としての誘惑
  悪魔の誘惑の本質は神への信頼からそらせることにありました。従ってその誘惑を退けるための申命記の言葉は「神に信頼して生きなければならない」という意味であるはずです。悪魔はイエスに、「神から独立して行動したらどうだ」ともちかけていたのです。「このままでは死んでしまうぞ。そうしたら、せっかくの働きもできなくなってしまうぞ」と。エバに対する誘惑にも同じ毒がし込まれていました。「神の言葉に従って生きるなんてつまらない。自分の判断で生きたらどうだ」と神からの独立を勧め、そしてエバは失敗をしました。神からの独立は、恐れが付きまとった生活であったのです。
 主イエスは個人的にではなく、契約の頭(代表者、メシア)として試みを受けていました。悪魔の誘惑は、公認のメシア資格に対する真っ向からの挑戦であり、職務からの転落を目指していたのです。最初の代表者アダムは、(一本の木以外は)どれでも食べられる木に囲まれながら失敗しました。第二のアダムは、どれも食べられない石に囲まれながら勝利し、もう一人の代表者として勝利しその職務に公につかれました。
 
 結論
 メシアとしての資格を剥奪しようとした、悪魔の最初の試みは失敗に終わりました。私たちの救い主は勝利されたのです。最後に私たちもこのお方によって誘惑に勝利する方法を学んでおきましょう。悪魔と議論をしてはいけません。主イエスでさえ、ただ「、、、と書いてある」とだけ言われたように。
 「神の口から出る一つ一つの言葉」とは、聖書の言葉のことではなく、「光あれ」と言われたときのような神の言葉であり、神の言葉による支配のことです。「人は病気で死ぬのではなく寿命で死ぬんだよ」(「大往生」永六輔、岩波新書)。これは著者が東京の下町で、あるお年寄りから聞いた言葉です。私たちはこれを「人は神の支配によって死ぬ」と言い換えることができます。悪魔の誘惑の目的は、主イエスの神に対する信頼を揺るがせることでした。
 私たちはキリストと共に、罪と死に勝利しました。ここがすべての出発点です。高慢、ねたみ、不親切、意地悪、うわさ、陰口などの汚れた思いが心にちらつくとき、どうしたら良いのでしょうか。どれも強敵です。そしていま目に見えないウィルスの感染拡大による世界的な不安。
闇をほうきではき出そうとしてもムダです。光が来るとき闇が追い出されるのです。愛が来るとき、復讐心、不親切、ねたみ、高慢、自己中心を追い出してしまうのです。そして信頼が不安を追い出します。希望的観測によってではなく、目に見えない神に対する信頼だけが、私たちの心から不安を締め出すのです。クリスチャンとはキリストと共に罪の支配に死に、キリストと共に勝利して復活した者のことです。悪魔は「それでもあなたはクリスチャンか」と耳元でささやくかもしれません。そのとき「私は確かに罪深く弱い、しかし私の代表者は罪に勝利された。そしてキリストに属する私も勝利したのだ」と言って悪魔と悪魔のつくった臆病の霊と不安を追い出しましょう。