「見えないウィルスと見えない神」
 ②「神をテストする誘惑」

 
  
 マタイ福音書4:1~11
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 
 
 見えないウィルスは見えないものを、次々と見えるようにしていきました。現代は現実と仮想(バーチャル)の区別がますます難しくなっている時代です。見えているものが本当なのか、見えていないところに真の姿があるのか。新型ウィルスの感染者の実態もよく分っていません。元気いっぱいの人が実は感染者であることもあります。ニュースで発表される日本の感染者の数字は、実際はその10倍であるかもしれないと考える専門家もあります。それどころか米スタンフォード大学の研究チームがカルフォルニアのある町で市民を無差別に検査をしたところ、陽性(抗体がある)の割合は5パーセントに近かったという報告もあります。つまりその町の感染者は発表されている数の50倍から85倍だろうと研究チームは言うのです。目に見えない時間は、少しずつ仮想を暴いて目に見える実は恐ろしい現実に近づいていきます。
 見えないものこそが最も恐ろしいことを、世界中の多くの人がいま実感しています。日本の総理大臣はオリンピックを東京に勝ち取るため、「放射能はアンダーコントロール(制御されている)」と格好よく英語で胸を張って宣言しました。しかし放射能は今でも制御できず、汚染水を水で薄めて海に流そうか、細かい霧にして空気中に放出しようかと相談しているのです。
また一方で、見えないものは時間の経過とともに忘れられていくのが歴史の現実です。1918年から1920年に世界で大流行(パンデミック)したスペイン風邪は、ネット検索すれば日本だけでも約2380万人が感染し388.727人が死亡したということが分かります。それにもかかわらず、日本史に記憶の痕跡が無いのはなぜだろうか、と東大教授の佐藤陽子さんは問いかけ、山河や街の様子を変えないからだろうと書いていました。たしかに戦争は街を無残にも破壊し、焼野原に変わった東京や広島の写真や映像は、多くの人が目にし記憶に焼き付いていきます。しかし戦争のような大量の犠牲者を出したスペイン風邪も、ほとんど忘れ去られていたのです。
 聖書は目に見えない霊的な真理、見えにくい現実、見たくない人間の罪の現実を扱う書物です。この機会に、見えない神の前に生きている、私たちの霊的な現実に注目をしたいと思います。聖書は見えない神の存在と見えない悪魔の存在を前提として書かれています。引き続き救い主イエスに対する悪魔の誘惑を考えましょう。今回は二番目の誘惑です。
 
 第二の誘惑
 悪魔の最初の誘惑は、イエスが神への信頼を放棄することを目指していました。「何とかしなければこのままでは死んでしまうぞ」と思わせて石をパンに変えるように誘ったのです。主イエスは、神を信頼せよと教える申命記から引用して、悪魔の最初の誘惑をきっぱりと退けました。
第二の誘惑は第一の誘惑と密接につながっています。主イエスは悪魔の最初の誘惑に敗北することなく、神への信頼を貫き通しました。悪魔の巧妙さは、その神への信頼を逆手に取って用いたことに表れています。酔っ払いをおしるこで、女子高生を焼酎で誘惑しようとしても成功しません。神の子がもっとも敏感なのは、父なる神への信頼。狡猾な悪魔がそれを次の誘惑の手段として用いようとしたのは、むしろ当然であるのです。
 悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせて言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」あまりにも目立つ行為であるため、現実の世界ではなく、主イエスの心の中で起こっていたという解釈もありますが、心の中で神殿の上から飛び降りたり支えられたりするというのは少し間が抜けている感じがします。一歩踏み出せば神の保護を試せるという緊張した挑戦であり、やはりそのまま解釈するのが自然です。
それはともかくとして、なぜこれが誘惑になるのかという問はもっと重要です。神殿から飛び降りることは、むしろ神を堅く信頼しているからこそ可能になる行為なのではないでしょうか。クリスチャンもそのように考え、何か勇敢な計画を立てるときがないでしょうか。今度は悪魔も聖書(詩編91:11 )を引用してきました。聖書も私の提案を指示しているのですよ、と言わんばかりです。
 
 申命記6:16
 悪魔による詩編の引用は、厳密ではありません。詩編の最後の部分は「あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」となっているからです。「どこにおいても」という単語が悪魔の引用では完全に省略されているのは確かです。そこに落とし穴があるのでしょうか。いや、私たちはやはり、最初の方法によって悪魔の第二の誘惑も解釈することから始めるべきです。最初の方法とは、誘惑を退けるための主イエスの言葉を手がかりとすることです。つまりいつでも文脈をまず重視しなければならないのです。「あなたの神である主を試してはならない」は、申命記の引用であり、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」と申命記6章16節に記されています。
 マサでの出来事は、出エジプト記17章1~7節にあります。マサとは、「飲み水を与えよ」とイスラエルがモーセに不平を言った場所です。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」という激しい言葉をモーセにぶつけました。神は意外にもモーセに、ナイル川を打った杖で石を打つように命じました。そして、モーセがその通りにすると岩から水が出ました。イスラエルは神を信頼して忍耐して待つべきでした。しかし彼らの不信仰の罪を覚えさせるため、神はあえて彼らの要求に応じて水を出されたのです。その場所は、彼らが忘れないようにマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけられました。さて、マサでの出来事はこのように結ばれています。「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」イスラエルのマサでの出来事は、「果たして、主は我々の間におられるのか」という言葉に要約されています。神の存在の否定というよりは、「我々の間に」という言葉が示しているように、「神は我々の中にいて我々を約束の地に導くことができるのだろうか」という、神の能力と神の愛に対する疑いであったのです。
 
 主を試す罪
 神はカナンに導く能力があるのかどうかをマサで試したように、神殿から飛び降りる行為も父なる神の能力を試す不信頼から出たものである。これが主イエスの結論であり、申命記を引用した理由に他なりません。信頼を装った不信頼、神の能力をテストするという功名で大胆不敵な行為であるのです。それどころか、むしろ、イスラエルのマサでの不信仰よりもひどい不信仰であると言わなければなりません。水のない状態は、イスラエルが作り出したのではありません。しかし、神殿から飛び降りるなら、主を試すための状況をもわざわざ作り出しているからです。自分から危険な状態に飛び込んで、主の助けを期待するのが信仰であると錯覚してはなりません。それは神に奇跡を強制することであり、神を操作しようとするマサ以上の神への挑戦であるのです。
 
 現代のクリスチャンのマサ
 たぶん、それほど過激な表現ではないでしょう。もっとおだやかなし方によって、現代の神の民も同じ誤りをおかす可能性があります。どんな不安な状況の中でも神の愛と守りを信じて静かに待つことができるでしょうか。それとも神があなたを愛しておられるという聖書の言葉だけでは満足できずに、自分の希望するような神の愛の印をほしがるでしょうか。いまそのことが試されているのです。
「一刻も早くウィルスの感染が終息しますように」とクリスチャンの多くも祈っていることでしょう。あまりにも自然な祈りである一方で、神をテストする危険が同席しているかも知れません。神は起こってくるすべてを支配しておられます。では神はウィルスをコントロールすることができなかったのでしょうか。いまは人間にとっても神にとっても、アンダーコントロールではないのでしょうか。
この問いに関しては、私たち人間は完全な答えを得ることができません。神が戦争やテロやウィルス感染を始めることはありません。それは人間の罪や自然法則によるのです。しかし神が戦争やテロやウィルス感染を防ぐことができなかったから、そのような悲劇が起こってしまったと考えるなら間違っています。多くの場合なぜかは分かりません。神がうっかりしている間に感染が始まってしまったのでもありません。それも神のアンダーコントロールなのです。神はそのような悲劇が起こることを許容された、というところまでしか私たちは行くことができません。戦争や災害も同じです。なぜ悲劇を許容されたのかは、ある程度の推測はできますが完全な答えは与えられません。
このような事態にも会堂に集まり礼拝を守っている教会があります。神が守ってくださるという信仰からでているのかどうかは分かりません。教会とクリスチャンは常識によって判断しなければならないことも多いのです。常識は全体としては神の一般恩恵の一部です。常識で教会はこの世より劣った行動をしてはなりません。
明らかなマサの反逆だけでなく、信仰深い飾り付けをしたマサの変形にも注意を払わなければなりません。信仰深い祈りも、現状の中には神の愛と神の守りを十分には感じていないことから出てくることがあります。様々な信仰深い言葉や行動によって、「ここには十分に水がない」と神に抗議をしているのかも知れません。自分の与えられた場所と状況の中で、しなければならない最善を尽くしながら、忍耐をして神を待つことが求められているのです。
 
 悪魔の巧妙さ
 悪魔は、角を生やしキバを出し、真っ黒でいやらしい姿をしているのではありません。悪魔は世界で最高の詐欺師です。詐欺師が最も神経を使うのは、詐欺師に見えないことです。麻薬中毒者を誘惑するには薬を見せれば十分です。罪を恐れない者を誘惑する場合、ただ罪深く汚れたものを見せるだけで成功するでしょう。しかし、まじめな信仰者を誘惑するためには、悪魔は手の込んだ巧妙な手口を用いなければなりません。悪いものを良いものに見せかけ、良いものを悪用することが、悪魔の常套手段です。
 教会が扱う問題は、ほとんどすべてがまじめな事柄に違いがありません。しかし、それでも教会が混乱したり争ったりして力をなくしてしまうのはなぜなのでしょうか。第一の理由は、悪魔の存在を真剣に信じていないからです。クリスチャンが教会を建てるとき、悪魔も隣に悪魔の教会を建てていると言われます。半分は冗談で半分は本当の話だと思います。第二の理由は、すでに述べてきたように、悪魔の巧妙さとその手段を見破ることができないためです。
 神の働きの最前線である教会に、悪魔は最も大きな力を注ぐ、といつも考えるべきです。しかし教会だけではなく、神の造られたあらゆる良いものを破壊しようとして、悪魔は夜も昼も努力を惜しまないのです。肉や魚をそのまま放っておけば腐るのは、当たり前のことではありません。目に見えない腐敗菌が無数にいて活発に働いている、という科学的な理由があるから腐るのです。人間関係も肉や魚と同じように腐ってだめになりやすいのも、目に見えない悪魔が一生懸命に働いているからだと考えるべきです。何も努力をしないで放っておけば、人間関係は良くなるのではなく普通は悪くなっていくのがその証拠です。「この人が世界で一番好き」と言ってわざわざ選んだはずの夫婦関係も例外ではありません。
 
 結論
 悪魔の誘惑を退けるポイントは二つです。第一は繰り返しになりますが、その巧妙さを見破ること。見せかけに惑わされることなく、その根底にあるあざむきを見抜かなければなりません。悪魔は聖書の言葉さえも支持しているかのよう思わせる最高度のテクニックの持ち主です。第二は、前回の説教ですでに考えました。イエス様と同じようにすることです。悪魔と議論を始めるのではなく、「と書いてある」とだけ言うのです。見せかけがどんなであろうとも、見ぬいた罪は罪であると決めてかかって譲らないことです。「この場合は、、、」とか「私の場合は、、、」と言ってはなりません。
私たちは自分を弁護するような声には、すぐに賛成してしまいます。「私はまちがっているかも知れない」とまず考えてみる習慣は、悪魔の天敵であり悪魔の誘惑を撃退する最良の武器です。言い換えれば悪魔が最も効果的に利用できるのが「私は正しい」という思いです。「聖書も私の考えを支持している」と思わせる。その錯覚を用いて、社会も家庭も、教会も混乱させるのにみごとに成功するのです。
 私たちの代表者、第二のアダムはメシアとして承認を受けました。悪魔はこの承認に対してただちに攻撃を開始しました。しかし私たちの代表者は悪魔の誘惑にも勝利されたのです。そしてこのお方を代表者とする者は、共に勝利することができるのです。自分を正当化しようとする虚しい努力を止め、罪を罪と定めることができるなら、もうすでに罪に対する勝利が始まっているのですから。