「見えないウィルスと見えない神」
 ③「誘惑に勝利する」

 
  
マタイ福音書4:8~11
 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退けサタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 
世界を支配する欲望は、人類の歴史の中で途絶えたことはありません。ネブカドネツァル王は城の屋上から街を見下ろし、「何とバビロンは偉大か」(ダニエル4章)と誇らしげに言いました。ローマ帝国はヨーロッパやアフリカまで支配をした大帝国です。始皇帝、ナポレオン、ヒットラー、など世界支配に魅せられた男たち。
しかしバビロンの王のその言葉がまだ終わらないうちに、神は王に「おまえは牛のように草をくらう」と言われました。そして王は人間社会から追放されたのです。ナポレオンやヒットラーは最後まで輝いていたわけではありませんでした。アメリカは現代の経済的、軍事的なローマ帝国になるかもと思えた時があったのですが、いまや百獣の王ライオンから中国とケンカをする大きな猫となり、目に見えない最も小さな敵に世界で最も大きな被害を被っているのです。
 ウィルスは人間社会に攻撃をしかけているように見えていますが、イタリアのある小説家は「人がウィルスを人間社会に招き入れた」と書いています。そのときのウィルスはエボラです。地球温暖化により植物や果物が育ち、コウモリとゴリラなど様々な動物が接触するようになった。そしてサルを介して人間社会にウィルスが侵入した。これは多くあるウィルスの侵入の一つのルートに過ぎず、全貌はもはや解明できない。地球の裏側の一人の感染が、あっと言う間に自分もウィルスの感染者になっているかも知れない。
 触っても、息を吸っても、触った手で食べても、感染の原因になるかも知れない。呼吸や飲食など、正に生きるための普通の営みが死の原因になるかもしれない、という不安は正に恐怖です。核弾頭を積んだ弾道ミサイルを打ち落とすミサイルを開発したアメリカも、人間の口から発射される目に見えない飛沫の中にしかけられた、敵のミサイルは打ち落とすことはできないのです。
 エボラはあまりにも致死率が高いため、住みかにした体も死んでしまい共倒れになり感染は終息します。しかしコロナはほどほどの致死率で軽症者や無症状の感染者も多く、そこにこそ難しさがあるのです。知らない間に自分がウィルスをまき散らしているかも知れない。ウィルスの知恵の方がいまのところは優っているように見えます。
 「地球が滅びる」系のSF映画や小説は、宇宙人の攻撃や核戦争が破滅の原因になるものが多いのですが、この度は疫病もその原因になるかも知れない、と思った人は少なくないでしょう。世界を征服するのはだれなのか。いや何なのか。大量の核兵器を所有する大国の独裁者や世界経済を支配する巨大企業のCEOであれ、男たちの世界支配の野望はいま最も小さなライバルによって根底から揺るがされているのです。
 
分かりやすい
 全世界とその繁栄が手に入るという誘いは、普通の人である私たちにとっては大きすぎるかも知れません。私たちは、「世のすべての国々とその繁栄ぶり」を見せられなくとも心が捕らえられてしまうからです。そんなにふんぱつしなくても、普通の人を誘惑するには一億円の札束でもあれば十分なのです。牧師も地上の小さな教会に小帝国を建てようと誘惑されます。
 多くの誘惑は、目から入ります。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」(創世記3:6)と記されているように、人類最初の罪もまず目から心に入りました。妻から見ればどこが違うのか分からないような新車の写真を見たとたんに、今の車が色あせて見え車好きの夫は絶対に必要だと思うようになります。どうして必要なのか、その理由は後からくっつければ良いのです。いつの間にかすっかり心が支配されているからです。
 多くの誘惑は、世のことに関係してなされます。ヨハネは「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父からでないで、世から出る」(1ヨハネ2:16)、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3:2)と言っています。誘惑の材料は世に満ちています。神の子を誘惑するため、サタンの釣り針には「世のすべての国々」をエサに付けられたのです。分かりやすい誘惑です。
 
 分かりにくい
 このように第三の誘惑は、スケールを縮小すれば私たちにもおなじみで分かりやすいのです。しかし次の瞬間、第三の誘惑は「分かりやすいのか、分かりにくいのか」分からなくなってしまいます。誘惑が私たちではなく神の子に対してなされたからです。なぜこの誘惑が最後にとっておかれたのでしょうか。入試でも英語の検定試験でも、テストはだんだんと難しくなるのが普通です。でも悪魔の誘惑は第三次試験が最もやさしいように見えるのです。第一次試験は極限の渇きと空腹の中で食物を用いてしかけられました。第二次試験は、巧妙なしかけがなされ聖書さえも支持しているかのように装っていました。しかし、最終試験はそんな装いは全くなされない、丸裸の誘惑であるのです。私たちにとっては誘惑であっても、神の子にとっては悪魔礼拝というけがらわしい看板を露骨に掲げているではありませんか。レベルの低い露骨な誘惑が最後にとっておかれたのはなぜでしょうか。
 
 申命記6:13
 私たちはいつものように、主イエスの引用した聖書の言葉から答えを得なければなりません。第三の誘惑の本質はどこにあるのでしょうか。旧約聖書からの引用の前に、先行する二つの誘惑の時にはなかったイエス御自身の短い言葉が参考になります。「退け、サタン」という短い言葉と、申命記6章3節の引用は同じ効果を目指していると考えることができるからです。
「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国の神々の後に従ってはならない。」申命記6章3節は、偶像礼拝の禁止という文脈に置かれていることがすぐに分かります。驚くべきことにサタンを礼拝せよという誘惑に対して、偶像礼拝を禁止する言葉が引用されているのはなぜでしょうか。偶像礼拝はサタン礼拝という深刻な罪に関連しているからです。木や石で作られた偶像それ自体は物質の木や石であり神ではありません。しかし、その背後でサタンがあやつっているという重大な事実を見逃してはなりません。
 世界には文字通り悪魔を礼拝する宗教があります。悪魔を神として礼拝をささげるのです。しかし、そのようなあからさまな悪魔礼拝だけが悪魔礼拝なのではありません。このあたりから、やはり悪魔の巧妙さが見え隠れするではありませんか。第三の誘惑は世界支配を示すことによって始められました。主イエスはヨルダン川で少し前に、全世界の救い主としての承認を天から受けたばかりです。キリストはそもそも、全世界を支配する者として召されているのです。従って全世界を自分のものとし、全世界を支配しようという思い自体はキリストにとっては正当なものでした。問題はその手段です。「もしひれ伏してわたしを拝むなら」という条件が世界の支配についているのです。「ひれ伏して拝む」をイスラム教の礼拝のように、文字通りに理解する必用はありません。悪魔にひれ伏して礼拝するとは、神の方法ではなく悪魔の方法で世界を手に入れるという意味であるからです。
 後に主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と弟子たちに教えました。間違ってはいけません。富そのものではなく、「富に仕える」ことが否定されているのです。富に仕えることは、神を王座から引きずり下ろし、富を神とすることであるからです。悪魔が、富と神に仕えることが可能であるかのように思わせる名人であることは、私たちのまわりを少し見ればすぐに明らかになります。初詣で人々は何を祈るでしょうか。「神様、私の病気をなおしてください」「神様、私の商売が繁盛しますように」「神様、私が大学に合格できますように」「結婚できますように」等々。
そして初詣の参拝者だけではなく、クリスチャンもそのように祈っているかもしれません。いまとくに新型コロナウィルス感染拡大が終息に向かうよう、クリスチャンも教会も祈っていることでしょう。もちろん、そのような祈りは当然であり、私たちはその祈りを否定する必要はありません。いやむしろ子供が父親のするように、神の子であるクリスチャンは、天の父に心の中にある様々な願いを告げるべきです。問題は、そのときどちらに仕えているのか、何が目的で、何が最も大切なのかという問です。神に仕えることなのか、目的のものを手に入れることなのか。もし後者であるなら、もはや神は神ではありません。むしろ、神を自分の目的を果たすための手段や道具としているのです。富と神に仕えることはできません。いつわりの宗教は、神ではなく人間の思いによって支配されています。礼拝の対象ではなく、その宗教で何が手に入るかを考えているのです。クリスチャンも神から祝福を期待します。前述のようにそれは悪いことではありません。しかし祝福は真の神を礼拝する必然的な結果であり、そのために神を礼拝するのではありません。「ただ」主に仕えることが求められているのです。
 
 退け、サタン
 主イエスの誘惑にもどりましょう。イエスはメシアとして、世の救い主として、世界を治める者として天からの公の承認を受けたばかりです。悪魔はこの目的こそが重要なのであり、そのために自分にひれ伏して世界を手に入れたらどうだ、ともちかけたのです。「もっと現実的になったらどうだ、目的は手段を正当化するではないか。」もっと現代的な言葉ではこのように翻訳できるでしょう。目的が優先するとき、それは神礼拝ではなく悪魔にひれ伏す行為であるのです。
 「退け、サタン。」他の二つの誘惑の時にはなかった、主イエスご自身の言葉ですが、申命記の言葉と内容がぴったりと対応しています。神の後ろに引き下がれと言われたのです。「ただ主に仕えよ」と全く同じ意味です。「ただ」という小さな言葉がポイントです。何であれ神より前に置かれるなら、「退け、サタン」と言わなければなりません。十字架を弟子たちに予告したとき、キリストはペトロに対しても同じように言われました。ペトロが「先生、死なないでください」と言ったからです。イエス様のことを思って言ったのに、何と冷たい言葉なんだろうと感じたことはないでしょうか。それはぺトロを通しての悪魔の働きかけであったからです。たとえ人間イエスに対する愛であっても、神の目的の後に退かなければならない。それが、あのきびしい言葉であり、第三の誘惑もペトロを通しての誘惑も、十字架なしで目的を達成しようとする誘いであったのです。第三の誘惑も、前の二つの誘惑に勝るとも劣らない強力な誘惑であったと言わなければなりません。
 
 欲望
 神が戦争やテロや伝染病を始めることはありません。しかしそれも神の支配の中にあることを知らなければなりません。神がうっかりしている間に、戦争やテロや伝染病が始まってしまったのではありません。悪魔や人間の罪やウィルスの感染力に神が敗北したためでもありません。なぜかは全部を知ることは許されていません。前回の説教でも触れましたが、最終的には「神はそれを許容された」というところまでしか私たちは行くことができないのです。なぜ悲劇的な戦争や災害や疫病が起こるのを神が許容されるのかは分かりません。しかし私たちは何も分からないのではありません。そこから学ばなければならないのです。しかし歴史の現実はしばしばその反対であり、そのため戦争が繰り返されてきました。それが「歴史は繰り返す」という言葉の意味です。
 新型ウィルス感染拡大が終息すれば、医学の視点から医師たちは多くを学ぶことでしょう。クルーズ船の対応、自宅待機、PCR検査に関連して、それでよかったのかどうかを医師も政治家も検証しなければなりません。
 さらに時代の流れというもっと大きな視点から、少し立ち止まって考えなければならないという警告でもあると思います。「欲望の資本主義」という3回シリーズがNHKで放映されました。マルク・ガブリエルという若いドイツの哲学者が、近代国家の問題を語りかけるという内容です。その中で彼は、「テクノロジーの発展の結果、人は欲望の奴隷になった」と言います。ソ連の崩壊、ベルリンの壁の崩壊の後、人々はこれからは自由と民主主義が大きく進展すると思っていました。しかし、資本主義の暴走、環境の破壊、合理主義のため、そうならなかった。たとえば、SNSに自由意志と民主主義を乗っ取られたと言うのです。確かに駅のプラットホームや電車の中で、みんなが何をしているかをみれば一目瞭然です。また近代アメリカは怪獣のようなあのトランプ大統領を生み出しました。プラットホームといえば、場を提供するだけで何も作らないプラットフォーマーと言われるアマゾンの大怪獣が世界のビジネスを荒らしまわっています。暴力団のいわゆる「しょば代」のようなやり方で、巨大な利益を中小の企業からも吸血鬼のように吸い上げているのです。無くてもよいビジネスであるのですが、もはや世界の企業はそれに頼って販売することから抜け出せなくなってしまっているのが現状です。アメリカは核兵器どころか自分を守るはずの鉄砲さえ制御できなくなり、いまはウィルスの制御に手こずっているのです。
 アメリカに代表される近代国家が押し付けた正義や価値観で世界が動いています。それは欲望を刺激し、刺激された欲望はさらに大きくなり、心は満たされることを知りません。そして世界はバベルの時代に戻ったかのように神をも支配できると思い始めたのです。
 若い哲学者は「なぜ若者はニューヨークの5番街や渋谷に集まるのか。それは楽しいふりをするためです」と言います。いま「不要不急」という言葉が1日に何回も聞こえてきます。渋谷も銀座も、すし屋もファミリーレストランも、かかり付けの個人病院もがらがらです。これまでの生活の中で不要不急が何と多くあったか、ということを考えるときではないでしょうか。
 どうしても買わなければならない、どうしても行かなければならない、どうしてもしなければならない、オリンピックを勝ち取らなければならない、と思っていたことが本当にそうだったのかが問われています。
 欲望は目的を正当化する強い傾向があります。それは悪魔にひれ伏すことであると言うと、ピンと来ないほどかけ離れて聞こえるかも知れません。私たちの祈りも、自分の目的のものを手に入れる手段にしているかもしれません。