「見えないウィルスと見えない神」
 ④「自然法則による支配」

 
  
マタイ福音書4:8~11
 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退けサタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで悪魔は離れ去った。すると天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 
荒野での誘惑の場面と新型コロナウィルスの感染拡大は、とくに関係があるわけではありません。確かに聖書のすべての言葉は、すべてのクリスチャンに同じ程度に当てはまるわけではありません。ある聖書の箇所は牧師や教会役員に向けて、ある言葉は金持ちに、そして王、女性、にせ預言者など特定の対象に向けて語られているからです。しかしすべての聖書の言葉の根底には、そのときの直接の対象を超えて、すべての時代のすべてのクリスチャンに対する普遍的で一般的なメッセージがあるのも事実です。今回はこのテキストから、これまでのまとめに加えてまず周辺的なメッセージを考えてみましょう。
 
自然法則による支配
神の支配は通常は奇跡ではなく自然法則によるものです。キリストは悪魔の誘惑に対して、一貫して自然法則に逆らうことがありませんでした。石をパンに変えることもなく、神殿の屋根から飛び降りることもなく、魔法のような方法で世界の支配者になることもありませんでした。石は石のままであり、神殿の屋根の上から飛び降りると死ぬと考え、選挙も王位継承も武力も十字架もなしで地上の支配者になることを拒否しました。人となられた神の子は、人としては自然法則の下に来られ、キリストご自身も通常は自然法則と社会の権威の下で地上の生活を生きたのです。
その中でも最も重要なのは、人となられた神の子はローマ帝国の支配と権威の下に来られ、究極の冤罪ではあっても、人々のあざけりにも十字架から降りることなく、地上最高の権威であるローマの裁判の判決に服することを選ばれたことです。
クリスチャンは地上の国の市民であると同時に天の国の市民です。霊的には私たちの国籍は天にあり、地上では旅人であり寄留者であるとパウロは語っています。クリスチャンは天の法則と地上の法則の両方の下で生きているのです。天の法則だけで変人として神がかり的に生きてはいけません。
新型ウィルスの地球規模の感染拡大は、様々な説が入り乱れ解明できるかどうかは別として、何らかの科学的な根拠があり起こったはずです。全貌を解明することはできないでしょうが、大なり小なり少しずつ科学的な事実が解明されていくと思われます。神はそこに奇跡的な介入をなさることは通常はありません。つまりウィルス感染の発生は科学的であり、終息も科学的になされると考えるべきです。悪魔は神の子が超能力や奇跡を用いるようにけしかけました。しかしその手に乗ることはなく、自分のために奇跡を行うことはありませんでした。
クリスチャンは、神が自然法則を停止して奇跡を起こすことを願うべきではありません。そのような祈りはしばしば自己中心的であり、神を自分の目的を達成するための魔法の道具としてしまいます。ウィルスの世界的な感染は、自然法則に従って拡大しまた自然法則に従って終息するのです。ですからそれに逆らうように、大勢の人が教会に集まることは避けなければなりません。教会とクリスチャンは、感染拡大終息に協力することに関して、この世の組織やこの世の人に劣っていてはいけないのです。
多くの教会は様々な工夫をして礼拝を継続しています。家庭でそれぞれが礼拝、説教をライブ配信、牧師家族や役員など代表者だけの礼拝をライブ配信、等など。地域の感染状況や礼拝出席者の人数にもよるでしょうが、それでもいわゆる「三密」の通常の礼拝を強行するなら、神を礼拝しているのではなく「教会に集まる礼拝」を礼拝しているのかも知れません。そのような理由から、秩父教会ではそれぞれが家庭で礼拝するという選択をしましたので、ご協力とご理解をお願いします。
もちろん感染者とくに重傷者、感染で愛する者を失った家族、奮闘する医療関係者、感染の危険の中で働かなければならない様々な人々のために、私たちは熱心に祈らなければなりません。しかし多くの人にとって、今「しなければならないこと」は、何かを「しないこと」であるのです。
 
ウィルス
ウィルスという言葉は、コンピューターにも用いられます。もし世界中のコンピューターが正常に働かないようなウィルスに感染したらどうなるでしょう。おそらく世界経済はコロナウィルスよりも大きな影響と被害を受けることでしょう。アマゾンやグーグルなどいわゆるGAFAは最初に倒産する会社であることは間違いありません。ゴミ収集車は相変わらずゴミを集め、お百姓さんは相変わらずレタスやキュウリを作り、社会に貢献し続けることができるでしょう。しかしアマゾンやグーグルは、コンピューターが使い物にならなくなったとき、できることが何もなくなるのです。
 アマゾンやグーグルは手で触れることのできる製品を作っていません。マイクロソフトが作る物はマウスだけだと言われていましたが、今でもあまり変わっていません。あるのかないのかも、何を作っているのか作っていないのかも、良く分からないことをしている企業を人々はひれ伏して拝んでいるように思えます。30年前にはなかったものがいま突然無くなったなら、企業も利用者も、何もできなくなります。新幹線は止まる、飛行機は飛べない、銀行からお金を下ろせない、パニック。一般の人々も駅のプラットフォームや電車の中で、することがなくなってしまいます。実に多くの人々はバーチャルな(仮想の)世界とリアルな(実際の)世界の区別が分からなくなっています。「昔の映画は映画が現実の世界であるかのように思えるように作っていたが、今は逆になっている」とある学者が言っています。いまは現実の世界がバーチャルな世界になっているのです。世界は現実か仮想かわからないものに支配され、仮想の現実をひれ伏して拝んでいるのではないでしょうか。
 このような世界に、ほんの20~30年で変わってしまったのです。30年前にコンピューターを持っていた企業や個人はそう多くはありませんでした。コンピューターの能力も、現在のコンピューターやスマホやゲーム機に比べると、「月とすっぽん」「ポルシェとママチャリ」ぐらいの差があるのです。社会も人間もほんのわずかの間に、支配する者、支配の仕方、支配のされ方がすっかり変わってしまいました。まさにこれがデジタル革命です。新型コロナコンピューターウィスルが全世界を混乱のどん底に落とすかも知れません。
 
パンデミック
「パン」はギリシャ語で「すべて」「全」という意味で、英語では”all”。「デミック」は「デモス」(人々)の英語形。つまり世界中のすべての人々に及ぶという意味で、確かにいま世界はコロナウィルスによってそうなっています。
パンアメリカン(倒産)や全日空という航空会社もあります。それがアメリカや全日本の空だけでなく世界の空を飛ぶようになりました。「パン」はいまでは「グローバル」(地球規模で)という言葉に置き換えられています。すべてがグローバル化し乗り物は速くなり地球規模で人々が移動します。それが今回のコロナウィスルのパンデミックにつながったのは明らかです。中国人は昔からグローバルな国民で世界のどこにでも住んでいました。
さらにはデジタル化によっててわざわざ人が移動しなくても、瞬間に地球の裏側の人とコミュニケ―ションが可能になり、金銭のやり取りも自由自在です。本当に人が飛行機に乗ってそこに行ったかのような効果、財布からお金を出して支払ったのと同じ効果が瞬時にして可能になりました。さらには財布の中にも銀行にもお金がなくても、あるかのようにデパートで買い物ができてしまうのです。
このように高度にデジタル化し発展したシステムを持つようになった世界は、いま単細胞以下の最も原始的な小さなウィルスに混乱させられているのです。そういえばデジタル信号も目に見えません。しかしデジタルは人と人を近くしたのか遠くしたのかは分かりにくいのです。目の前や隣に実物の友達が座っているのに、そこにいない遠くの友達とスマホの画面で会話をしているのは不思議な光景です。
ネットの世界で有名なある架空の女性と、実際の結婚式場で何百万円をかけて結婚式を行い、友達も招待した、という記事がありました。これはあまりにも特殊な行為であるため新聞が取り上げたのでしょうが、もう少し穏やかで気が付かないレベルで、現実と仮想の区別があいまいになっていることに気づくのは難しいのです。愛や友情でさえもデジタル化されバーチャルなものになっていることの表れと考えるべきでしょう。いま人と人は体が触れ合う狭い家の中に閉じこもり、ストレス、夫婦のDV、親子のDV、兄弟ケンカ、などが問題になっています。これこそがこれまで見えなかった本当の家庭の現実であるのかも知れません。
ほんの20~30年の間にデジタルが作り出した仮想の世界を見せられ、その前にひれ伏す人類の一員として、私たちはいま立ち止まることが求められているのです。それがコウモリから来たと言われるコロナウィルスからのメッセージの一つではないでしょうか。少し立ち止まって、自分に問いかけてみてください。今まで当たり前にやっていたことは「不要不急」?それは現実か仮想か?私は誰?等など。自分の前に広がっていた世界を、いま別の視点から見る機会ではないでしょうか。
 
 まとめ
 説教の後半はこの箇所のメッセージの要点をおさらいしましょう。この個所の第一の目的は、主イエスはメシアとしての最初の試験に合格されたと発表することです。3章17節で天から与えられた認定書が、実地試験でも証明されたのです。メシアとして、第二のアダムとして、私たちはこのお方に信頼してよいのです。そして、私たちもこの方によって勝利できるというもう一つの結論を付け加えることができるでしょう。私たちのメシアは、私たちが誘惑に勝利できるためにも、悪魔の挑戦を受けられたのですから。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。
 
 誘惑がくることは罪ではない。
神の子も誘惑を受けられました。この点で悪魔にだまされないようにまず気をつけなければなりません。そうしないと、戦う前に負けてしまいます。心に起こってくる様々な汚れた思い、意地悪をした人に対する復讐心、仕事を投げ出してしまおうという怠け心、他の人の持ち物や才能に対するねたみ。あなたの誘惑が何であれ、心にそのような思いがムラムラとわいてくることはまだ罪ではありません。だまされてはいけません、その誘惑に負けることが罪なのです。ある英国の有名な説教者が言った通り、「鳥が頭の上高く飛ぶことは避けられない。しかし、鳥が頭の上に巣を作ることは避けられる。」
 
 悪魔と議論しない。
神の子も悪魔と議論するのではなく、ただ「、、、と書いてある」とだけ言って、悪魔を退けたではありませんか。私たちは私たちの主より強いと考えるべきではありません。悪魔は私やあなたよりはるかに年長者です。世のはじまる前からいたからです。新石器時代、ローマ時代、中世、産業革命、二つの世界大戦、を生き抜いてきた悪魔はあなたよりもはるかに経験は豊かです。最高の神学者と言われる悪魔は、神の言葉である聖書の知恵も比べ物になりません。悪魔は神の言葉に対する愛が欠けているだけなのです。
誘惑の声と議論を始めるなら、どこかで「それももっともだ」と言い始めるでしょう。罪は罪であると決めてかかって最後まで譲らないことです。「私の場合は特別の事情が」だとか「この場合は」とか言わないようにすべきです。「これぐらいは」とか「今回だけは」も特に危険です。
罪はみんな根がつながっているからです。小さな罪をそのままにしておけば大きな罪へと成長し増殖していくでしょう。一度サタンに頭を下げるなら、今度からはサタンがいちいち誘惑しなくとも、麻薬中毒患者のようにこちらから頭を下げにいくようになるのは時間の問題です。少しずつ罪をやめようと思ってはなりません。悔い改めたスリのたとえ話を聞いたことがあります。彼は言いました。「私は罪を悔い改めました。スリをやめようと思います。でも少しずつやめようと思います。昨日までは、一日20人のポケットから財布を盗んでいました。今日からは10人にして、その次は5人に減らしていきます」と。ピアノは一度に調律できないのは事実です。しかしそれはあくまでもピアノの調律の話であり、罪にあてはめてはなりません。「クリスチャンはただの一つも罪をおかしてはなりません」と言っているのではありません。そうだとするなら、私が最初の失格者です。申し上げたいのは、どんなものでも罪は罪と決めてかかることです。聖書には、「、、、と書いてある」とだけ言うのです。たとえ同じ罪を繰り返しても、その度に罪は罪であると認めるのです。
 
 悪魔の巧妙さを見破る。
 悪魔は聖書が支持していると思わせようとする名人であり、聖書の学習に熱心なクリスチャンは完全なのではありません。「正しそうに見える」のは、「正しい」ということと同じではありません。「私は正しい」という人間の弱点を、悪魔は大いに用いることを繰り返しておきます。ここでは、もう一つの悪魔の巧妙さを付け加えておきましょう。「悪魔はいない」という欺きです。悪魔はこの点に関しては、現代が歴史の中で最も成功していると言えるでしょう。現代は神も悪魔も信じない時代であるからです。キリスト教会の中でさえ、神と悪魔の存在を消し去ることに大きな成功をおさめているのですから。「そこで、悪魔は離れ去った」という最後の一行にも注目してください。前述のように、悪魔は後にペトロを用いて攻撃を再開しました。悪魔は消滅したのではなく、一時的に「離れ去った」だけです。ルカが「時が来るまでイエスを離れた」(4:13)と記している通りです。
 メシアを誘惑しようとした者は、メシアに従う者をも誘惑しようとするのは当然です。悪魔の攻撃は迅速であり最良のタイミングを逃しません。のんびりなんかしていません。イエスがメシアとして承認されると同時にただちに誘惑したのですから。悪魔は巧妙です。悪魔は大胆であつかましいのです。罪と格闘し徹夜で祈ってこの悪魔の誘惑に勝利しようとするなら、必ず敗北するでしょう。勝利はだれを頭とするかで決まると、悪魔の誘惑に関する最初の説教でお話したのを覚えておられるでしょうか。第一のアダムは最もやさしい状況の中で失敗しましたが、第二のアダムであるキリストは最も困難な状況の中で勝利されたのです。私たち自身はアダムやエバとあまり違いません。しかし、あらゆる誘惑に勝利された主イエス・キリストをメシアとすることによって、私たちも勝利できるのです。いや、すでにキリストにあって勝利しているのです。