「見えないウィルスと見えない神」
 ⑤「差別・人権など」

 
  
 マタイ4:8
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
 
 レビ記13:14
重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならない。
 
ローマの信徒への手紙13:1
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
 
 
差別
「コロナ差別」という言葉ができるぐらい、感染者に対する差別があちこちで起きています。感染者の家に石を投げられガラスが割れた、家に落書きされた、「コロナ」と呼ばれた、等など感染者や元感染者に対する様々な差別が報告されています。ヨーロッパではアジア人というだけで差別を受けることもめずらしくないようです。中国人、日本人、ベトナム人などの区別が難しいからです。
このような問題を考えるにあたって、少し遠回りになるかも知れませんが、まず聖書に記されている差別を扱っておく必要があると思います。そうでないと聖書も伝染病の感染者をひどく差別しているではないかと言われてしまう可能性があるからです。
伝染病に対する差別の歴史は人類の歴史と同じ長さがあり、旧約聖書にも記されています。レビ記13章には「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならない」(45)と記されています。「伝染病感染者であることを自分の口で宣伝せよ」、究極の差別です。その次にはさらに、彼らは人々とともに住むことがゆるされないと書かれています。新共同訳聖書は「重い皮膚病」、口語訳聖書は「らい病」と翻訳し、新改訳聖書は「ツァラ―ト」と言語のまま。これが現代のハンセン病(以前はらい病が一般的な言葉)と同じであるかどうかについては議論があり医学的にも確定していません。
それはともかくとして驚くべきことは、神の律法である聖書がここで言う「重い皮膚病」の患者を「差別はいけない」ではなくむしろ積極的に差別していることです。それを議論するのがこの説教の目的ではありませんので、ここでは結論だけを記しておきます。レビ記全体もそうですが、とくにこの箇所は「きよめ」という宗教的な「汚れ」や「きよさ」を扱っているのです。レビ記11章には汚れた動物ときよい動物のリストがありますが、ユダヤ人はビーフはよいがポークは食べてはいけない理由がこれで分かります。しかしなぜそうなのかは分かりません。
これは宗教的な「きよめ」や「汚れ」という文脈の中で書かれた旧約律法であり、実際にポークが宗教的に汚れているわけではありません。確かにビーフよりもポークの方が細菌や寄生虫が多いのは科学的な事実で、旧約律法は宗教と衛生の両方の視点を兼ねていたのかも知れません。前置きが長くなりましたが、それが何であれ、その皮膚病にかかると最終的な段階では非常に恐ろしい風貌になるため、罪の汚れや悲惨さを示すのに分かりやすかったのです。キリストが、その皮膚病を患っている患者に向かって、「治った」ではなく「きよめられた」と言われたのは、そのためです。
 
私もあなたも?
伝染病に対する差別に関して、ハンセン病は日本の歴史の中では最も代表的な実例です。ハンセン病は、1943年に開発されたプロミンという薬によって完治する病気になっていました。それにもかかわらず、らい予防法による隔離政策が実に1996年まで続けられたのです。はなはだしい時代錯誤と非科学的な法律が廃止されたのは、始めはそれでも廃止に反対していた小泉首相のときです。私は約7年間毎月、瀬戸内海の島にあるハンセン病療養所の教会の礼拝説教を月1回担当していましたが、島に行く二隻の船は患者用と職員用が前と後に仕切られていました(その時点ではどちらに乗ってもよくなっていた)。感染力が圧倒的に弱いハンセン病には、そんな間仕切りも隔離政策も医学的には全く根拠のないことです。前任の牧師から引き継いだ働きであったのですが、療養所が開設された最初の頃は「アルコールの消毒プール」が桟橋にあり、その上を歩いて島に出入りしていたと聞いています。もちろん医学的にはそんな必要は全く無かったのです。
相模原の障害者施設で19人の障害者が殺害され犯人の死刑が確定したことは、まだ私たちの記憶に新しいところです。「なんてひどいことを」「ヒットラーのナチスと同じだ」「頭がおかしい」などの声が聞こえてきたのですが、私は決して特殊な事件ではないと最初から思っていました。「秋葉原の通り魔事件」「アメリカの銃乱射」「アニメスタジオ放火」「カリタス学園事件」「神戸須磨区での小学生の殺傷事件」(犯人14歳)など、今では「そういうのもあったな」と思い出す異常で凶悪な事件も例外ではありません。「障害者なんかいらない」「社会にとって損失である」、というような思いはゼロ、と断言することのできる人があるのでしょうか。大なり小なり何らかの差別の思いが誰にでもあるのではないでしょうか。その極端な表現が相模原などの事件であるのです。「障害者」という言葉は、「高齢者」、「認知症」、「らい病」、「自閉症」、「エイズ」「知的障害」「精神障害」「難聴」そして「コロナ感染者」などと言い換えられられるかもしれません。
自分が持っていない障害を持つ人に、気づかないうちに差別の気持ちを持っているかもしれません。いま自宅待機のために夫の妻に対するDV、子供に対するDVが深刻な問題になっています。でも妻や子供を愛していてもDVは起こり得るものです。そして私自身は例外だとは絶対に言えないと思います。差別というテーマからは少し離れますが、いま合わせて考える必要があります。
 
国家による監視と基本的人権
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)とパウロは命じています。その理由は「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」「コロナウィルス特措法」が問題を指摘されながら国会で可決しました。首相が緊急事態を宣言すると、都道府県知事を通じて住民に外出自粛を要請したり、学校や興行施設などに使用制限や催し物中止の自粛を指示できる。臨時の医療施設を開設するため、土地や建物を所有者の同意なしに使うことも可能。など、私権をそこなう危険性があることが指摘されています。日本国憲法の中核は、「平和主義(戦争放棄)」、「主権在民」、「基本的人権」の三つの原則です。コロナ特措法はその基本的人権に抵触するのではないかという疑問が残ります。でも世界の現実はアメリカやヨーロッパの先進国でも、外出禁止、営業の自粛、などの要請が出され、違反すると厳しい罰則が科される国もあります。
まずこれは、非常に難しい問題だと認めることから始めなければなりません。右側にしろ左側にしろ、単純な思考はどちらも非常に危険です。すぐに思い浮かべるのは戦争の時代の国家によるはなはだしい人権侵害です。国家は敵と戦って勝利することのためには個人の命さえも犠牲にすることを命じたのです。たとえば有名な神風特攻隊です。片道の燃料だけを積んで、敵の戦艦に体当たりをすることを若者に命じました。鹿児島県にはお茶の産地でもある知覧に「特攻記念館」があり、漫画家の長谷川町子さんがそこを訪問したときのことが新聞の小さなコラムに掲載されていました。記念館からの帰りのタクシーの中でのことです。長谷川町子さんがプンプン怒っているのに気付いた運転手は、「普通ははみんな泣きながら帰るのですけど」と聞いたそうです。長谷川さんはこんなことを、まだ二十歳前後の有望な若者に命じる国家がゆるせなかったのです。
トランプ大統領は今のアメリカを戦争状態と言いましたが、これは完全に間違ったたとえです。戦争の場合の敵は他の国家でありその国の人間です。しかしいまの敵は人間でも国家でもなくウィルスであるからです。人はいまウィルスという敵と戦っているのであって、どんな人とも戦っているのではありません。
コロナウィルス感染拡大に関して、もし教会やクリスチャンの信仰や確信から出る行動が、他の人を傷つけ他の人の命を奪うことにつながる可能性が少しでもあるなら、何か大きな間違いをしていると言わなければなりません。同じ理由からいま多くの教会が、集まって礼拝することを自粛しているのです。私たちは第一には、国家に命令されため礼拝を休止しているのではなく、隣人を愛せよと命じるキリストの言葉に従っているのです。
 
真理はバランスの中に
しかし同時に、地上の権威である国家の緊急事態宣言にも従っているのです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)とパウロは命じているからです。パウロはその理由として「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と説明しています。
これは「何でも国家の命令に従うのがよい」という意味ではありません。「権威者はいたずらに剣を帯びているいるのではなく、神に仕える者として、悪を行なう者に怒りをもって報いるのです」(13:4)と記されているように、国家が与えられた権威を行使している限りにおいてであり、国家はしばしばその限界を越えるのが歴史の常です。
たとえば国家は個人の心の中まで支配をして、戦時には教会にも神社礼拝を強制しました。これは明らかな違反であることが分かるのですが、今回のような、相撲や野球、パチンコやコンサート、レストランやデパート、などのいわゆる自粛要請はやりすぎなのでしょうか。教会はやはり集まって礼拝を続けるべきなのでしょうか。諸外国では国家の要請に違反した者にかなり大きな罰則を科しているケースも少なくありません。
前述のようにいずれの選択をするにしても、あまり単純になるべきではありません。真理はいつでも緊張関係とバランスの中にあるというのが原則であり、聖書を解釈する場合も同じです。まずその宣言や命令が何のためであるのかが問われなければなりません。それがベストの方法であるかはまだ分かりませんが、他の人と自分自身の命と健康を守るために宣言は出されているのです。特攻命令は国家やその指導者たちの利益(戦争に勝つ)のため個人の生命を投げ出す命令であったのとは根本的に異なっています。宣言には欠陥があるかも知れませんが、そのような宣言には従うのが原則です。
しかし政府はそのような宣言や命令を出すにあたって、科学的な根拠を示したり様々な角度から説明をしなければなりません。日本の場合はそれがあまりにも不十分であると言わなければなりません。最も重要で最も曖昧なのは、感染者数の実態です。野党や医療専門家からこれまでずっと指摘されてきたのは、PCR検査の圧倒的な少なさです。そのため実際の感染者が、毎日報道される新たな感染者の数の何倍ぐらいなのか、大まかな検討をつけることすらできないのが実態です。それより多いのは当然であるのですが、5倍なのか10倍なのか50倍なのかも不明です。感染者を受け入れるベッド数から逆算しPCR検査の数を調整していたという指摘がありますが、もしそうなら、政府のやり方は人の命の軽視です。熱があっても4日間は自宅で様子を見ろという勧告に従った男性が死亡したことにより、政府はやっと方向転換を始めたのです。何でも言いなり、考えない、怒らない、好きなように行動する、どれもどこかが間違っていると思います。行き過ぎがあれば抗議をしつつ自粛をするべきです。真理は緊張関係とバランスの中にあるからです。非常識な行動は間違っています。教会は常識において一般社会より劣っていてはならないのです。
 
見せかけの「繁栄ぶり」
 「今年の流行語」の有力候補がもうすでに出尽くしたという感じです。「パンデミック」「アビガン」「免疫」「PCR検査」「抗体検査」「8割少なくとも7割」「医療崩壊」「水際作戦」「緊急事態宣言」「ソーシャルディスタンス」「アベノマスク」「ダイヤモンドプリンセス」「無症状」「防護服」「人工呼吸器」「3密」「テレワーク」「グローバル」「ステイ・ホーム」「自粛」「不要不急」。すでに四か月で今年の流行語は「オーバーシュート。」「あっ」もう一つ、これも追加。もちろんすべてが「新型コロナウィルス」関係です。
この度の新型コロナウィルスの世界的感染拡大(パンデミック)をめぐって、悪魔が高い山から主イエスに見せた世界は「世のすべての国々とその繁栄ぶり」とあるように、見せかけの繁栄した世界であったようです。世界はいつの時代も苦悩と悲しみで満ち、高い山の上からはそれが見えないだけです。そのように現実の一部分しか見せないのが悪魔のいつもの手口です。
いま人々はそのことに大なり小なり気づきはじめています。いま見えているものがすべてではないと。これまでの繁栄も、ほんの2~3カ月の内に壊れてしまう可能性がある、と。いま「コロナ後」の世界が論じられ始めています。人々と社会ははこれまで異なる生き方を始めるかもしれません。しかし感染が終息して数年後に経済が回復するならこの苦い経験もまた忘れ去られていくのかもしれません。いま世界も日本もコロナで大騒ぎをしていますが、それを経験した人はもういないとはいえ、1908年のスペイン風邪では、日本だけで約38万人が死亡したことを知っている人は少ないのです。
医学、建築、経済、災害、道徳、など様々な視点から、多くの教訓と目に見える対応マニュアルを残していかなければなりません。大津波の時は単に「高い所へ」と抽象的な言葉ではなく、「何メートル以上」と具体的に記さなければならなかったのです。感染が発覚した時のダイヤモンドプリンセスの対応、武漢や東京の対応、などを責任者は隠し事や言い訳をしないで、次のために正確に検証して記録を残していかなければなりません。そして私たちの心には、「この世の繁栄ぶり」は見せかけであることを心に刻まなければなりません。感染拡大は不幸な出来事ですが、いま信仰の目でそれを見抜いて考えるチャンスでもあるのです。トンネンルを抜けたときどんな世界を見るか。人によって違うでしょう。「世界は見せかけと違う」と気づく人は大勢ではなくとも少しでも多くなると予想されます。コロナ後は伝道のチャンスでもあり、そろそろその方策を考え始めるときです。