「見えないウィルスと見えない神」
 ⑥「生みの苦しみ」

 
ローマの信徒8:18~25
現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。(中略)つまり被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
 
 
 コロナ後の生き方が少しずつ話題になり始めています。確かにコロナ・パンデミック以降、人々の生活は急変しました。休業、休校、倒産、減収、テレワーク、ズーム会議、これまでなかったような生活を多くの人々が経験しています。逆に医療関係者などかえって忙しくなった人々もあります。かえって繁盛している商売も少数ながらあります。
 そのような中で世界でも日本でも、コロナ後の生活を考える新聞やネットの記事が多くなっているように感じます。医療、経済、働き方改革、教育、など様々な視点からコロナ後の方針や生き方が議論されるのことは必要です。
 
 歴史
そのような動きの中で教会もコロナ後の礼拝や伝道を、聖書の視点から考え始めるときが来ています。しかしそうするにあたって、いきなりコロナ後の具体的な方策を考えるのではなく、現状をどのように理解するのかという難しい質問から始めるのが重要であると思います。陸上競技でも高いハードルを跳び越すときほど、まず十分に後ろに下がらなければならないように、私たちも少し離れた距離から、歴史の全体像を聖書から見ることが求められます。いま社会も私たちもパニック状態であり、冷静さと客観性を失っているからです。
 新型コロナウィルスの感染者数は、世界で500万人に近づき死者は30万人を越えています。医療のうめき、経済のうめき、重症患者のうめき、愛する者を失った人々のうめき、いま世界中がうめき苦しんでいるのです。愛の神がいるのに、「どうしてこんなことが起こるの」と誰かに聞かれたらどのように答えたらよいのでしょうか。その問は私たちの内側からも発せられているのではないでしょうか。
 確かにそのように感じるような状況ですが、世界はいまが特別なのではありません。1918年のスペインかぜでは当時の世界人口の約三分の一にあたる5億人が死亡、日本だけも約40万人が死亡と推測されています。起源はイギリスの軍隊、アメリカの軍隊、中国など様々ですが、第一次世界大戦のさ中であったため、各国は報道をひかえ、スペインが感染の拡大を最初に公にしたために「スペインかぜ」という名称になったようです。これによって戦争終結が早められたとも言われています。しかし終戦後のドイツへの巨額の賠償金要求決議のため、もっと大きな悲劇となった第二次世界大戦に火をつけたのです。
 2000年も前に書かれた新約聖書には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっている」と記されています。そしてそれが事実であることは、前述のようにその後の歴史の中に残された無数の足跡を見れば明らかです。もう一つ付け加えるなら、14世紀のヨーロッパで起きたペストの大流行でしょう。当時の世界人口4億5000万人の実に4分の1弱1億人が死亡したと推計されています。その他、地震、台風、水害などの自然災害、戦争、内乱、テロなどの紛争。そして今回のようなウィルスの世界的な感染。
 
 取るに足らない
 パウロのローマ書8章のメッセージから、当時の国家や社会からの教会やクリスチャンへの激しい迫害が背景にあったと考えられます。そのため、当時は圧倒的マイノリティーであった教会への、励ましの言葉がここに記されているのです。パウロのメッセージは「一丸となって頑張りなさい」「すぐに良くなるからもうしばらくの辛抱」「試練や苦しみによってクリスチャンは訓練を受け成長する」、どれでもありません。
 パウロの励ましの方法は、無視や逃避、希望的観測、良い方に理解する、などどれでもありません。この世の多くの宗教はこれを信じると悪いことが来ない、などと言って布教をするでしょう。ある人はアルコールや覚せい剤や麻薬で現実の苦しみから一時的に逃避するでしょう。
 しかしパウロの方法は、「比べると、取るに足らない」つまり比べることです。「取るに足らない」は価値、値段、重さなどを比べる時に用いられる言葉です。当時の重さを測る普通の道具は、てんびん測りです。竿の中心を支点として、両側に皿がぶら下がっており、片方の皿に測る品物そして反対側の皿にはおもりが少しずつ加えられていき、釣り合って竿が水平になったとき、あらかじめ重さが記されている重りを合計すればその品物の重さが分かるのです。
 片側の皿に乗せる「試練、迫害、苦しみ」の重さは割引することなくそのままです。信じれば無くなる、良い方に理解しましょう、とは言っていません。しかしてんびん皿のもう一方に重りを乗せると、先ほどの重さはもう無いかのようにもう一方に大きく傾いてしまうと言うのです。
 
 罪の結果
 パウロは今の苦しみ、悲しみ、失望から被造物はうめいていると言っています。でも山や海がうめくのでしょうか。もちろん山や海、木や花がのどから声を出してうめくわけではありません。パウロの詩的な表現であり、たとえば嵐の時のかみなりや地震の地響きや大風の恐ろしい音などを表現しているのでしょう。美しい花も例外ではありません。花小金井教会の牧師室が私の主な働き場所であったときは、四季時期に変わる景色を窓から楽しんでいました。遊歩道の見事な桜、その後はハナミズキ、つつじ、あじさい、と続き、秋になると桜の枝から葉も落ち幹と枝だけの死んだような姿になります。しかし死んでしまったかのように見える木々や草花は、春になればまた美しい花を咲かせ、私たちの目と心を楽しませてくれるのです。
 この繰り返しをパウロは「生みの苦しみ」に例えているのだと思います。男性には少し分りにくいのですが、出産が近づいたとき痛みが始まりしばらくするとおさまる、それを繰り返しながらだんだんと痛みが強くなり出産に至るのです。
 パウロは何が言いたいのでしょうか。実はパウロはここで壮大な神学的なテーマを扱っているのです。聖書全体を見渡すような大きな視点から語っていることを見逃してはなりません。被造物の頭(かしら)として創造された人が罪をおかして堕落したとき、人類だけではなく全被造物が罪の影響を受けたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記1:28)と記されているように、人類は全被造物の代表または頭(かしら)として任命されたからです。代表者が堕落したとき、代表者によって代表される全被造物も影響を受けたのです。人類は歴史の中で苦しみ悲しみ、うめき声をあげてきました。そして人類だけでなく、大自然も共にうめいているかのように見えるのです。救いは単なる個人の魂の救いではなく、全被造物の救いでなければなりません。これが聖書の壮大な贖いのドラマであるのです。
 飽きることのない巨大化した人の欲望が自然を破壊し、いま自然が牙をむいて人類に襲いかかっているように見えます。台風は巨大化しています。地球全体の平均気温が1度上がるととんでもないことが起こります。1度や2度ぐらいと感じるかもしれませんが、たとえ1度の上昇でも北極や南極の氷が融け、東京0メートル地帯は水没し、蒸発する海水の量は膨大なものとなり大水害や土石流が各地で多発するようになります。台風の巨大化など、これまで経験したことのないような自然災害は、すでに日本でも世界でも始まっているのです。自然からの人類への非常事態宣言ではないでしょうか。
 
 壮大な贖いのドラマ
 しかし間違ってはいけません。3章の中心的なテーマは人の堕落や罪とその結果ではなく、実はクリスチャンがこよなく愛するヨハネ3章16節と同じメッセージであり、救いの約束と希望であるのです。被造物は人と共に堕落しました。王様が負けたとき、家来はみな負けになるのと同じです。だから、被造物も人と世界が完全に贖われるのを待っているかのように見えるのです。
 「生みの苦しみ」は女性的で詩的な表現ですが、実は非常に神学的な表現であることも見逃してはなりません。満開の桜も1週間もすれば散り始めます。しかしまた来年は美しい花を咲かせます。その繰り返し、まさに陣痛に似ています。そしてついにかわいい赤ちゃんが「オギャー。」
 「生みの苦しみ」は最大限の痛みを表す言葉であると同時に、希望を含んだ言葉であることも見逃してはなりません。出産のための激しい痛み苦しみの後には、かわいい赤ちゃんの誕生が待っているからです。様々な事情で子供のない家庭もあるのですが、「生みの苦しみがあるので子供なんかもういらない」というような言葉を、これまでお母さんから一度も聞いたことがありません。赤ちゃんが生まれた瞬間に、苦しみなどなかったかのように喜びが勝利するからです。
 被造物は「虚無に服している」とは、「役に立たない」「本来の目的からはずれている」という意味です。包丁はたとえば台所で大根やニンジンを刻み、おいしい料理を作るための道具です。しかし、それがコンビニ強盗や殺人のために用いられるなら、本来の目的からはずれてしまいます。包丁にとってはなんと残念なことでしょう。いま自然は人類の便利さや限りない欲望を満たすために破壊されつつあります。新型コロナウィルス感染も、地球温暖化による動物たちの食料となる植物分布状況の変化が影響しているのではないか、そのため人と動物の接触の機会が増えているというのです。それはともかくとして、自然は神が創造されたときの目的とは違う目的のために用いられていることは確かです。そのため海や山、大地と空、風や雨が、つまり全被造物が叫びうめいているかのように聞こえないでしょうか。コロナウィルスのパンデミックは、動物と植物の世界への人間による侵略と破壊に対する逆襲であるのかもしれません。
 
 約束
被造物の「うめき」が先になってしまいましたが、その前には希望が語られているのです。その「うめき」は「生みの苦しみ」であり、新しい生命の誕生が待っているのです。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」
 人類の先祖が罪を犯した後、すぐに贖いの約束がなされました。神はへびに言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)。ヘビは人のかかとを砕き被害を与えるでしょうが、それは致命傷ではありません。しかしキリストは蛇の頭を砕き、それは致命傷となります。キリストにある者は、すでに勝利し、自分に仕える者から神に仕える者とされました。包丁が本来の目的のために用いられるのです。
 もちろんクリスチャンになればすぐに立派になって、すべての問題が解決するのではありません。教会からもトラブルが完全になくなるわけではありません。しかし新しい命が与えられました。道から時々それることはあっても、正しい方向に進み始めました。今はまだ苦労も悲しみも失望もあります。詩編130は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」という言葉で始まっています。しかし詩編の真ん中では「わたしの魂は主を待ち望みます、見張りが朝を待つにもまして」、そして最後に「主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる」との確信をもって著者はこの詩編を閉じています。
 いまはまだ人も被造物も魂の深いところからうめき苦しまなければなりません。しかし主イエス・キリストを救い主として信じるクリスチャンにとっては、それは「生みの苦しみ」であるのです。その後には、完全な贖いが待っているからです。聖書は病気も戦争も災害もない世界を約束しているわけではありません。聖書が約束しているのは罪からの完全な解放です。まだそれは完全に見えているわけではありませが、完全な贖いはすでに私たちのものであるのです。御言葉を信じる信仰の目によって、それを見なければなりません。
 
 見えないウィルスによっていま世界中が脅かされています。具体的になぜそのような苦しみを経験しなければならないのかは分かりません。しかし私たちは全体を知っているのです。新聞やテレビやインターネットでは、これからどうなるのか、どうするべきか、など多くの意見が飛び交っています。それも参考にするべきでしょう。しかしその前に、歴史の全体像、贖いの歴史の全体像を知らなければなりません。世界はそのことを知りません。
 私たちはすでに、完全な贖い。罪からの解放をいただいているのです。政府はいま、10万円とかマスク2枚とかを国民に配布しています。しかしほとんどすべての国民は不安の中にあるのが現実です。私たちもその点では同じであるかも知れません。周りの人々と同様、私たちも地上の国の国民であるからです。しかし私たちはもう一つの視点を持っているのです。最も重要なもの、完全な贖い、罪の奴隷からの解放、はすでにいただいているのです。
しかし残る罪や自分や他の人のわがままとの戦いになおも疲れているかもしれません。しかしそこからが肝心です。「見えないものを望む」ようにパウロは命じているからです。雨の日には高い山の頂上は見えなくなってしまします。しかし高い山に登るなら雲の上は晴れていることが分かるでしょう。私たちはまず頭を雲の上に出し天上の真理を見ましょう。しかし山はしっかりと地面の上に立って動くことがありません。足が地についていないふわふわした信仰、頭だけの信仰では困難に耐えることができません。足は地の上にしっかりと立ち、頭を雲の上に出す山を見習う時です。