「神の霊に満たされることを目指す」
 

 
説教者:ローレンス•スパーリンク(キリスト改革派日本伝道会宣教師)
説教題:神の霊に満たされることを目指す
参照:ハイデルベルク信仰問答問 Q. & A. 53、65、アタナシウス信条
 
説教の中心的主張点:聖霊に満たされることは神にお願いすることによることであり、有意義な信仰の歩みを進める秘訣である。
 
聖書箇所:エフェソの信徒への手紙5章15−20節(新共同訳聖書、新約聖書358頁)
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
 
序説:キリスト教は唯一神教にこだわる宗教です。ユダヤ教もイスラム教もそうです。けれども同時に、クリスチャンは三位一体の教えを大切にしています。私たちにとって父なる神、子なる神、聖霊なる神をお一人の主として礼拝します。私たちにとってこれは多神教ではなく、唯一の神についての聖書の教えであると言うのです。ユダヤ教徒とイスラム教徒にとって、これをどうしても多神教であるとみなします。でも私たちクリスチャンにとって、聖書の中でご自身を唯一のまことの生ける神が唯一一人しかいないと言いながら、父、子、聖霊として存在し、いわゆる三位一体であると表します。この三位一体についてたったの被造物に過ぎない私たちに知り尽くすことも理解できることもありえません。理性にかなうかと言われれば、そうではないかもしれません。けれども、ご自身のことをこのように、「わたしはある」と自称してくださる主が聖書で表すので、理解しきれないままで、聖書のデータを確認して信仰を告白します。今日はペンテコステ記念礼拝の説教なので、特に聖霊についてお話ししますが、あらかじめ、以下の通り聖霊についてのニケア信条の文書を確認しましょう。
 
ニケア信条(一部)
我(われ)らは、生命(せいめい)の与(あた)え主(ぬし)にして、主(しゅ)なる聖霊(せいれい)を信(しん)ず。聖霊(せいれい)はみ父(ちち)と御子(みこ)とより出(い)で、み父(ちち)と御子(みこ)とともに礼拝(れいはい)され、あがめられ、預言者(よげんしゃ)を通(とお)して語(かた)りたもう。
 
では、説教の本論に入りましょう。
1、聖霊はどんなお方であるかについて、ずいぶん長い話ができるでしょう。今日は、三位一体論や聖霊の存在についての神学的な話ではなく、聖霊がどんなことをなさるかについて話を絞りたいと思います。それにしても、一部のお話しかできないでしょう。
 イ、私たちが聖書で初めて聖霊の活動に紹介されるのは、天地創造物語の始めの部分です。創世記1章2節にあります。私たちは普通、使徒信条にあるように、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と言い、父なる神が創造主であると考えます。でも同時に、神の独り子、キリストも全てのものをお造りになったと、ヨハネ伝1章3節とコロサイ書1章16節に書いてあります。けれども、創世記1章2節では聖霊が、形も何もない「水の面を動いていた。」とあります。(このように矛盾に見えるデータがあるからこそ、三位一体の真理が表れます。)さらに、聖霊は命を与えるお方であることがわかります。創造主が土の物質からなられた最初の人アダムの鼻にいのちの息を吹き込むと、人間が生きるものとなります。その「息」というのは「霊」という言葉です。ですから、ニケヤ信条で言うように、「聖霊は生命の与え主」であると告白します。
 ロ、聖霊のお働きについて次に確認したいことは、モーセと預言者の働きの中で聖霊が賜物と権力を与え、これらを通して語ってくださるお方でいらっしゃることです。神の霊が(聖霊が)モーセに力と権威と啓示を与え、彼をイスラエルの民の指導者と任命してくださいます。モーセがいよいよ天に召されようとするときに、モーセが従者のヨシュアに手を置いて、自分にある神の霊がヨシュアに入り、ヨシュアがモーセの後継者となる資格が与えられます。預言者エリヤが同じように後継者のエリシャを任命します。
 ハ、私たちは聖書を「神様の言葉である」と言います。なぜかと言いますと、聖書著者に与えられる聖霊の働きによって、彼らが語りまた書いたのは神の言葉となるのです。ですから、例えば、ヘブライ書3章7節や10章15節は詩編の言葉を引用するにあたり、「聖霊がこう言われた」とごく自然に記すのです。第二テモテ3章16節は聖書が全て神の霊の導きによって与えられているといいますし、第二ペテロ1章20−21節はこう言います。「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」
 二、イエス様の生涯においても聖霊がいろいろな場面で動いておられます。例えば、胎児のイエスがマリヤの胎内にできたことは聖霊の力ある業によっていると書いてあります。聖霊はさらにイエス様に力と資格を与え、メシアとして認証することにします。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになる時に、旧約聖書の預言者が予め語ったとおり、聖霊がその上に降り、神の霊が力強く、イエス様のうちに留まります。「キリスト」や「メシア」とう言葉はそれぞれ「油注がれたもの」、つまり、任命されたという意味ですが、イエス様はユダヤ人の大祭司のように油の注ぎ掛けではなく、公に、聖霊の注ぎ掛けをお受けになりました。
 
2、今日はペンテコステの日曜日です。これは本来、ユダヤ人の過越祭から50日を数えての大切な祭の日でした。作物の初穂を感謝しながら神様に奉納するお祝いです。これは同時に、イエス様の蘇りの日からも50日目です。復活された主イエスは40日間その弟子たちと共にいて、大切な教育をなしてから、天に昇られまして、さらに10日間が経過すると、使徒言行録の2章に書いてある出来事が突然起こります。弟子たちの上に聖霊が力強くお降りになって、彼らから 大喜びと賛美が湧き上がり、知っているはずのない他の国々の言葉で、イエス様の十字架の死と復活による救いの道を話し出します。「今こそ預言者が予告した救いの時だから、悔い改めて、イエス様を救い主として信じなさい」と大胆に語るのでした。
 イ、預言者たちが予言したことを確認しましょう。使徒ペテロはその日の説教でヨエル書2章から言葉を引用して、この日は預言者たちが予告したことを主張します。ヨエル書の他に幾つかの預言者が聖霊による洗礼を語っています。イザヤ書の44章にもあります。「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」最後の預言者と言われていた洗礼者ヨハネも、後から来られるお方(キリスト)は水によってではなく、聖霊によって洗礼を授けてくださると予告します。(マタイ伝3章11節、など)
 ロ、イエス様があらかじめ弟子たちに説明してくださったところを確認しよう。使徒言行録1章の8節では、イエス様が天に昇られる直前、地上の最後に語った言葉はこうです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」イエス様がまだ彼らと一緒にいた頃、彼らを教育して準備させる中で、ご自分の苦しみと復活の後で彼らから離れると言っておきます。けれども、ご自身に代わって別の慰め主を送ると言います。慰め主、弁護者、助け主とも言われる聖霊を送ることを約束してくださいます。その聖霊がなさることは何であるか、特にヨハネ伝14:25、15:26−27、16:7−14で詳しく教えてくださいます。(是非、そこをご自分で開いてご確認ください。)
 
 ハ、ペンテコステの事件の記事を読むと、イエス様のお言葉が実現していることがよくわかります。弟子たちは聖霊によって 与えられた使命を果たす力が与えられます。彼らは大胆にしかも喜びをもって福音を宣べ、迫害に耐え、救いの道を次から次へと伝えていきます。これを記録するのは使徒言行録ですが、ある人は、この書物を「使徒言行録」ではなく、「聖霊言行録」と名付けるべきではないかと言っています。その通りです。
 二、もう一度確認しましょう。ことが起こる以前から、預言者たちはこれらの出来事を予言しました。そしてユダヤ人にとって最も大切な預言者、主のしもべモーセの願いがここで叶いました。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」(民数記11章29節)。
 
3、では、いよいよ今日のお話の最も関心があるところになります。どうやって私たちも聖霊に満たされるか、満たしていただけるかについて学びましょう。
 イ、今まず、一つのことを明確にしたいです。全て、イエス•キリストを「主」と呼び、救い主として依り頼む者に、聖霊がすでに内住しておられます。イエス様が夜、訪ねに来たニコデモに指摘しました。「人が霊によって生まれ変わらなければ、神の国を見ることができない。」あなたに神を慕い、求める心がありますか。これは聖霊の業の結果です。聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたりすると、これを神の御言葉として憧れて心に受け止めることありますか。すでに霊による命が与えられていることを疑うべきではありません。喜び勇んで、悔い改めと信仰告白と受洗へ直ちに進みましょう!命の与え主である聖霊が、霊的に死んでいたものを生まれ交わされました。ハレルヤ!これらは全部、聖霊の内住しておられることによります。素晴らしいことです。でも、聖霊に満たされることはさらに優れたことです。
 ロ、エフェソ書5章の18節では、「聖霊に満たされなさい!」と言います。これはペンテコステの事件の繰り返しではありません。これによく注意しましょう。イエスさまが弟子たちに、「霊が降るまで待っていなさい」とおっしゃったのとは違います。「満たされなさい」とは、受け身系ではなく、命令形です。
 ハ、この箇所の分析をしましょう。私たちが今日読んでいる新共同訳聖書では元のギリシア語の文脈とニュアンスが違います。そこに、命令形の動詞が二つ、二つの文になっています。つまり、「歌いなさい」と「感謝しなさい」ですね。けれども、ギリシア語の命令形の動詞は実は一つしかありません。それは「満たされなさい」です。エフェソの手紙の一つの特徴は、文が非常に長いことと文法的に複雑ですぐれた文書であることです。この箇所のギリシア語文法から言えかえれば、「熱心に感謝して、主の大いなる恵みを歌い、聖霊で満たされなさい。」という風になります。(エフェソ5:18−19の直訳が参考に!)「むしろ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌い、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝して、霊に満たされなさい。」)残念なことに、コロナウィルスのおかげで一緒に集まって歌うことが当分許されません!けれども、心のうちに主を賛美する思いは常にあり、祈りによって神様に感謝をいくらでも言い表すことができます。これらに熱心に励むことだけして、聖霊に満たされる結果となります。難しいことではありません。いわゆる「神秘的」なトリックや、興奮する環境を作り、誰かに手を置いてもらったりすることによるのではありません。賛美と感謝、礼拝と祈り、これです。
 二、イエス様も教えてくださったではありませんか。「求めなさい。そうすれば与えられる。」これを心に留めましょう。ルカ伝11ー13節でイエス様がこうおっしゃいます。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
 
4、聖霊に満たされる結果はとてもめでたいことになります。本当に満たされているかどうか、どうしてわかるでしょうか。これは分かりにくいことではありません。
 イ、聖霊に満たされているあなたは より多くの「実」を結ぶようになります。聖霊の結ばせてくださる実というのは、ガラテア書5章22−23節に書いてあります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」聖霊が注がれることを予言した預言者によれば、その時に自然界において豊かな雨と、緑の茂みと、豊富な結実を語ります。まさに、命の花が咲きます。イエス様はこれこそ、私たちのうちに起こることを期待しています。ガラテア書5章22−23節を暗唱して、これらの実が私たちのうちに、私たちの間に徐々に結ばれるように励み、期待しましょう。
 ロ、聖霊に満たされている人にもう一つの現象があります。それは喜びと平安に満たされて、自信を持つ証人となります。イエス様がもう一人の助け主を送ってくださるのは、私たちに喜びと平安が宿るためです。そしてさらに、主が語った言葉をいつも覚えて思い出すように助けるためです。そしてまた、力を備えるためです。私たちが賛美を歌い、感謝を捧げることによって聖霊に満たされるのですが、何を感謝して どうして賛美するのでしょうか。それはイエス様の恩恵によって救いが与えられたことでなければ何でしょうか。こうして必然的にますます主の恵みを証しするものとなっていきます。
 ハ、そして最後に、神様の救いの福音を地の果てに至るまで宣べ伝えてまいります。上からの力を帯びるまではエルサレムで待っていなさいとイエス様は確かに命じました。けれども、聖霊が降るとずっとエルサレムに残っていなさいとは言いません!エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土に、そしてついに地の果てに至るまで私の証人の活躍に励みなさいとおっしゃいます。賛美して、感謝を捧げ、行きなさい!
 
結論:私たちはマタイ伝の最後にあるイエス様の大宣教命令をよく知っています。あの箇所の文法的形式は今日のエフェソの箇所にとても似ています。命令形の動詞が一つです。つまり、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて、わたしの命令を守るように教えて、すべての国民をわたしの弟子としなさい。」となっています。創造されたものに対する神様の恵み豊かなプランと目的がはっきりしています。今が救いの福音を宣べ伝える時です。グッドニュースをすべての人の耳に入れる時です。聖霊が内住し、満たしくれることにより、私たちの心の願いでもあります。また特に、私たちが置かれている、愛しているこの日本への願いでもあります。
 
神の国と真の神を信じ 礼拝することに非常に強い抵抗を持つ日本の救いのために、その霊的障害物をぶち壊して いのちの水が豊かに溢れるようになるために何が必要でしょうか。それは聖霊の新たな注ぎ掛けではないでしょうか。聖霊に満たされた主の民が愛に燃えて立ち上がることではないでしょうか。聖霊なる主が 賛美を歌い感謝を捧げる私たちを満たして、力づけて、動き出させてくださることではありませんか。ならば、これを熱心に願おうではないでしょうか。求めましょう。そうすれば与えられるに違いない。そうすれば聖霊のみ声に聞き従いましょう。悪魔の支配が終わり、神の国が力強く現れます。「水が海を覆うように/大地は主の栄光の知識で満たされる。」悪が滅ぼされ、キリストの栄光のみ国が世世限りなく実現するでしょう、この日本にも!      アーメン!
参考資料
 
エフェソ5:18b−20の文法による直訳文:
むしろ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌い、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝して、霊に満たされなさい。 
 
ハイデルベルク信仰問答問 Q. & A. 53、65:
53問:「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
 答え:第一に、この方が御父と御子と同様に永遠の神であられる、ということ、
    第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしとともにいてくださる、ということです。
 
65問:ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みに与らせるのだとすれば、そのような信仰がどこから来るのですか。
 答え:聖霊がわたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通して それを確かにしてくださるのです。