「見えないウィルスと見えない神」
 ⑦「不要不急」

 
 
マタイ福音書 16:26
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
 
コヘレトの言葉 12:1
青春の日々にこそ、お前の創造者に心を留めよ。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。
 
 
 コロナ後
 コロナ感染者数より、コロナ後の生活の変化を考える記事が目立つようになってきました。前回の説教では、コロナ後の具体的な生き方を考える前に、ローマ書8章から贖いの歴史の全貌を見ました。まず全体像を知ってから部分を考えることによって、「木を見て森を見ない」誤りを避けることができるからです。しかし全体像や原則を知るだけで満足しそこに留まることは、いきなり具体的なことに進むのと同じように危険であると思います。
 新型コロナウィルスの感染拡大によって、多くの人々の生活は激変しました。たとえばテレワーク、時差出勤、時短営業、マスク、ソーシャル・ディスタンス等など。何年も前から議論されていたにもかかわらず、目立った進展はほとんどありませんでした。しかしこの度は、あっという間にそのほとんどが実現してしまったものが少なくありません。そして多くの人々が家の中に閉じこもることを余儀なくされました。しかしそのような生活が終わる時が遅かれ早かれやってきます。そのときはもう前の世界とは違っている、とも言われます。どのように変わるのか、どのように対応するのか、等など考えなければならないことがこれから多く出てくるでしょう。
 たとえば「不要不急」という言葉や文字が、一日に何度も目から耳から入って来ない日はありません。コロナ後にはどう変わるのでしょうか。感染拡大中は我慢をしていたことが「不要不急」と分かって、コロナ後はそれをもう止めるのでしょうか。たしかにそういう事もあるでしょう、そういう人も出てくるでしょう。しかし可能になれば、大部分はまた元通りの生活に戻っていくようにも思えます。その人にとっては「不要」ではなく「必要」であり、ただ我慢をしていただけに過ぎなかったからです。自粛勧告中に営業をしていたパチンコ屋の名前を公表したとたんに、その店に大行列ができたというニュースもありました。どのような意味で「不要不急」という言葉を使うかによって、その内容はずいぶん違ったものになります。
 
 時間の使い方
 これを機会にホーム・ページの「時間の使い方」というメッセージを考えてみましょう。少し長いのですが、全文を引用します。そう言えば見えない時間も、見えないウィルスによって少し見えるようになったものの一つですね。これからは縦横高さの三次元ではなく、時間を加えた四次元の思考を磨かなければなりません。
 
 「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。仕事、付き合い、家事、育児、受験勉強、趣味、習い事など、心を亡くす程いそがしい日本人は少なくありません。いそがしく働いていると確かに充実感のようなものはあるかも知れません。でもそれが終わったらどうなるのか、少し立ち止まって、考えてみませんか。
  
 四種類の時間
 時間の使い方は、一度しかない人生の最大の問題です。事柄を「重要さ」と「緊急さ」から、4種類に分類することができますが、これを正しく選択することが何よりも重要であるのです。
 1.「緊急で重要なこと」
 2.「緊急でも重要でもないこと」
 3.「緊急ではないが重要なこと」
 4.「緊急で重要ではないこと」
 
「緊急で重要なこと」と「緊急でも重要でもないこと」に関してまちがいをする人はほとんどないでしょう。深刻なまちがいは「緊急ではないが重要なこと」と「緊急であるが重要ではないこと」の間でおこります。
 「いま何してる?」というメールの返信は、明日の朝では遅すぎるという意味で緊急です。でもおそらく重要であるとは言えないでしょう。そのようにして、青春の多くの時間は「緊急であるが重要でないこと」のために過ぎ去っていくのです。「緊急ではないが重要なこと」は、「緊急で重要ではないこと」のために後回しにされ、そのうちに忘れ去られてしまう運命にあります。
 少し話がややこしくなってきましたが、要するに時間の使い方のポイントは、「緊急ではないが重要なこと」を大切にすることにあるのです。
 
 慣性の法則
 理科の時間に習ったニュートンの「慣性の法則」によれば、動いている物体は運動を続けようとし、止まっている物体は止まっている状態を維持しようとします。電車が動くとき、電車が止まるとき、倒れそうになるのはそのためですね。
私たちの人生の中でも、慣性の法則が働いているように思えます。走っている人はなかなか止まることができず、そのまま同じ方向に走り続けようとします。一度立ち止まって考えることはなかなか難しいものです。
失敗、失恋、病気、定年退職のとき、立ち止まって考えるチャンスです。とくに忘れていた「緊急ではないが重要なこと」が何であったのかを考えるときです。謝るべき人に謝罪したか、書くべき手紙を先延ばしにしていないか、私たちは「何のために生きているのか」を考えるときではありませんか。存在しているだけなら、道端の石ころでも存在しています。生きているだけなら、牛や犬や道端の草でも生きています。働いているだけなら、アリやミツバチでも働いていますよ。
 
以上がホーム・ページからの引用です。
 
 
 証明
「例外は原則よりも興味深い。正常は何物をも証明せず、例外がいっさいを証明する」(カール・シュミット)という言葉があるそうですが、この度のパンデミックは例外の出来事です。ですからシュミットの言葉通り、これまで見えなかった様々な事柄を次々と証明していきました。感染拡大に対する各国の方策や姿勢、国のリーダーたちの姿勢が正しかったのかどうかも証明されていくでしょう。
日本の経済の回復のために、私が共感する記事がある日の新聞にありました。その一部分の要約を紹介しておきましょう。上のシュミットの引用もこの記事からの引用です。経済学者で法政大学の教授水野和夫氏によれば
 
ー「いま日本の総理大臣が決断すべきことは、マスク2枚の配布や一人10万円の給付ではなく、経団連に132兆円の減資を要請することである。本来は従業員に還元するべき利潤を不当に値切った金額が132兆円であるからだ。リーマンショック以来、企業は従業員の給料を抑え「万が一」のときのためという口実で利益をため込んできた。政府の大企業ファーストの経済政策で、株価も上昇し経営も持ち直した。トリクルダウン(上のグラスから下のグラスへとシャンパンが垂れ落ちる)で大企業の経営が回復すれば中小企業も回復し利益を生み出すようになるという触れ込みで。しかし、実際はそうならず企業間でも個人間でも格差が拡大しただけ。恩恵を受けた大企業は今、ため込んだ資金を社会に還元しなければならない。トヨタはトヨタの従業員に、ソニーはソニーの従業員に、というのではなく社会全体1億2569万人が対象である。ため込んだ利潤は社会全体のものであるからだ。20年かけて留保したので20年かけて還元しなければならない。」(要約)―
 
だいたいそのような内容です。このような次元で考える日本のリーダーは残念ながらほとんどありません。彼らのこれまでの経済政策や医療政策が正しかったのかどうかも証明されつつあります。日本のいまの経済をコロナのせいにしてはならない、アベノミクスのためだと言う別の経済学者もあります。日本のリーダーたちは「緊急ではないが重要なこと」の多くを着実にやってこなかったのです。オリンピック開催は今の日本に必要であったのでしょうか、それとも不要不急だったのでしょうか。いろいろなことの答えが出はじめているのです。
 
 不要不急
 個人的なレベルでも、いま様々な角度から私たちは試されています。政府や行政の言う「不要不急」は、あくまでもコロナ感染拡大予防に関することです。本当に「不要」なものは確かにこの機会に生活から削除するのがよいのですが、「不急」でも重要なことがあるのです。私の人生は以前にもお話ししたと思いますが、中学1年生の時に始めて聞いた、ベートーベンのシンフォニーの全曲を音楽室で聞かせてもらったときから大きく変わりました。私はもちろん音楽家になったわけではありませんが、それまで知らなかったこんなすごいものがこの世界にあったのだと、子供なりにそのとき分かり始めたのです。ある人にとってはそれは絵画や彫刻であったり小説や詩であったりスポーツや山登りであったりするでしょう。人間の魂の存在、その深い要求、そしてそれを満足させるものがある。そのような言葉ではないにしても、中学1年生なりに自分の知らないものに対する尊敬の思いが与えられ、そして本当に魂が求めている福音を聞く備えがなされていたのだと私は思っています。
「イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださった」と急に聞いても分らないのが普通です。それが伝道の中心であることは言うまでもないことです。そして確かにそれでも福音を信じる人も出てくるかも知れません。梅干しだけの日の丸弁当でも空腹を満たすことができるでしょう。飢えている人が死なないですむでしょう。しかしより多くの人は、福音の豊かさの網のどこかに引っ掛かり、最後には福音の核心にとらえられたのではないでしょうか。スープや前菜などから始まり、ボリュームのあるメインコース、後にはデザートやコーヒーというフルコースで、より豊かな福音の提供を考えるべきだと思います。
コロナ感染でコンサートもスポーツも演劇も扉が閉じられました。ウィルス拡大防止の視点からは「不急」とみなされたからでしょう。確かにそれは新型ウィルスという一つの視点からは間違っていないのですが、自粛で家に閉じこもり、「緊急ではないが重要なこと」を見つけた人も少なくないでしょう。「不要不急」は先ほどの「時間の重要さ」で言えば、「緊急でもないし重要でもない」のグループに入るのでしょうか。そうではないと思います。前述のようにこれが「不要」であることは分かりやすく間違うことはないからです。
 また出勤するようになれば「緊急」の仕事が山ほどあります。電話が鳴ればトイレに行ってからではなくすぐに取らなければ意味がありません。ラーメンはすぐにお客さんのテーブルに運ばなければなりません。10分後では2倍に増えてしまいます。それはみな「緊急で重要なこと」であるため間違うことはありません。
 しかし自宅では「緊急ではないが重要なこと」が多くなります。押し入れの中にいらないものがいっぱい」「引き出しの中がぐちゃぐちゃ」、でも今日やらなくても死ぬわけではなく何とかなります。夫婦関係が悪い、親子関係がうまくいっていない、それを1日や2日で何とかすることはできないでしょうが、時間をかけてでもやらなければならない重要なことであることは間違いがありません。しかし急には出来ないためにそのまま放っておかれるのが普通です。
 
 引きこもり
 多くの人が引きこもっているとき、引きこもりの専門家である精神科の斎藤環医師の「コロナ時間」(NHKハートネット)という言葉は説得力があります。
 
ー「今日は感染者が何人」「死者が何人」という一つの時計でみんなが一致団結して行動している。でもこれは医学的な時計に過ぎない。本当は人それぞれ様々な時計で生きている。テレビ会議も役に立つが限界がある。いまは出来ないが、本来は「三密」「体の接触」「体液の交換」(唾を飛ばして話し合う)ような状況の中で人間関係が形成されていく。コロナ後にそれが失われてはならない。(要約)ー
 
 教会の第一で唯一の使命はまさに「緊急で重要なこと」に属する「十字架の福音」を宣べ伝えることです。しかし多くの人々がそれは「緊急でも重要でもないこと」と感じている。そのギャップが伝道の困難さの原因の一つです。多くの人々が引きこもっているいま、「緊急で重要な」福音を提供するチャンスであるかもしれません。そしてその前に、クリスチャンが「福音」こそが自分にとって「不要不急」ではなく、「必要緊急」であることを再確認する。それがいま「緊急」に求められています。