「見えないウィルスと見えない神」
⑧「怒り・DV・虐待」
 

 
ヤコブの手紙3:3~5
馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。おなじように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
 
 
船室
見えないウィルスによって、見えるようになってきたとは多くあります。前回の説教では時間の使い方の中でも「緊急ではないが重要なこと」の重要さ考えたのですが、それがコロナによって見えるようになった人も、かえって見えなくなった人もあると思います。あなたにとっては見えるようになったものがいくつあるでしょうか。今回はパンデミックによって増加し見えるようになったマイナス面の一つとして、夫婦間の暴力や暴言、親から子への虐待、介護虐待など家庭内暴力(DV)を考えます。
牧師館と教会が一体構造のため、日本の多くの牧師の家庭は、夫婦が朝から晩まで同じ屋根の下で三食を共にするという生活様式には慣れていると思います。しかし一般のほとんどの家庭にとって、狭い日本の家に朝から晩まで、家族の全員がいる状態が続くのは異常でこれまで経験したことのないことです。それが夫婦間の暴力や暴言、子どもへの虐待などへとつながるリスクは依然よりも各段に高くなっているのは確かです。コロナ自粛のため仕事が減り「稼ぎが悪い」と言われた夫が怒って妻を倒し、妻は床に頭を打って死亡するというような悲惨な事件も起きました。
「男はプライドを食べて生きている。そして女はパンを食べて生きている」と言われるほど、男性にとってプライドは命でありすべてであり、プライドを傷つけられることは耐えられないことであるのです。「そんなつまらないプライドなんか捨ててしまいなさい」と妻は思うかもしれませんが、男と女はそのように造られているのです。事件それ自体は非常に特殊であっても、どの家庭でも、男と女の違いを知らないことから悲劇が始まる可能性が十分にあるのです。加えて子供たちも家の中にいるというような状況の中では、いらいらが積もってくるのがむしろ普通です。
一緒にいる時間の総計、スペースの少なさ、から生じるこのような衝突を、英語では「キャビン・フィーバー」と言うそうです。「キャビン」は「船室」、「フィーバー」は「熱」のことであり、ダイヤモンドプリンセス号船内の映像をテレビのニュースで何度も見て、それまで豪華客船など縁のなかった人々にもお馴染みの光景になったのではないでしょうか。あの狭い船室で何週間も何か月も閉じ込められるのは拷問のようなものです。さらに子供たちが話しかけてきてテレワークの仕事が邪魔されているように感じる、インベーダーがあまりにも多いのです。怒りが爆発するのは時間の問題。
 
特殊ではない
そこで今回は、怒りのコントロールというテーマで考えたいと思います。たぶん「成田離婚」をもじったのか、「コロナ離婚」という言葉さえ生まれました。いままで見えなかったものが、見えないコロナ・ウィルスによって見えるようになったものの一つです。しかし一時的な特殊な環境のために、離婚まで進んでしまうのはあまりにも残念なことです。そこまでいかなくても、関係の悪化をどこかで食い止めなければなりません。
具体的にどうしたらよいのかを考えなければなりませんが、その前に新聞やテレビのニュースになるような事件は、決して特殊ではないことを知らなければなりません。つまり自分とは関係がない例外の出来事なのだと考えるべきではありません。それはコロナ事情の家庭の問題限定ではなく、秋葉原の通り魔事件やアニメスタジオ放火事件でさえ同じであると私は思っています。
その他、我が子に冷たい水をかけて殺したしまった虐待など、テレビのワイドショーや週刊誌は、人々の関心のあるそのような特殊な事件を好んで取り上げ「ひどい親だ」などと批判するでしょう。起こった出来事の表現の程度は、確かに特殊であり異常であることは言うまでもありません。しかしその根底にある動機に関しては、自分と全く無関係とは断言できないのです。私もあなたも、ほとんど間違いなくそんなことは絶対にしないでしょう。しかし事件を起こした動機に関しては、大なり小なり私やあなたには完全にゼロと断言できるでしょうか。
男性が起こす事件の動機のほとんどは二つのうちのどちらか。金、そして先ほども触れたプライドを傷つけられたという怒りで説明ができると思います。そして今日の説教のテーマである、自宅という狭いキャビンで起こる争いも、怒りが主役であることがほとんどです。もちろん殺人にまで至ることはめったにないでしょうが、量や程度は大きく違っていても、質に関してはニュースになる事件とかなり共通しているのです。
これは私の個人的な説ではありません。主イエスは別の言い方で同じことを教えているからです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。、、、」(マタイ5:21~22)。つまり主イエスは、兄弟に腹を立てる者は、「人を殺してはならない」という律法に違反しているため殺人罪として裁かれる、と言われたのです。もちろん腹を立てることと殺人はすべてが同じことだというのではなく、同じ質の罪であり程度が違うだけであるという意味です。怒りは殺人の種であり、怒りが発展して殺人になるのです。
 
怒りという感情
 ヤコブ書は舌をコントロールすることの重要さを教えています。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。、、、御覧なさい。どんなに小さな火でも大きな森を燃やしてしまう。舌は火です」(ヤコブ3:2~6)。怒りはしばしば舌によって表現されます。ですからまず、日ごろから舌をコントロールする練習をしておくことが重要です。
でもどうしたらよいのでしょうか。第一のことは、怒りと憎しみを区別することです。怒りのすべてが罪なのではありません。クリスチャンとはいつでもニコニコして決して怒らない人ではありません。聖書を読むと神も怒ることが分かります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます」(ローマ1:18)。その他、ローマ2:5、9:22など。さらに怒りの表現である「裁き」という言葉が神に用いられている箇所は、ローマ書だけでも数えきれないほどあります。聖書によれば、神は怒り、神は裁くのです。しかしそれは正義の怒りであり、「義」という神の属性から出てくるのです。神の属性とはそれが無くなれば神ではなくなるような性質のことです。その他、聖、愛、慈しみ、忍耐なども神の属性です。
私たちも正義感から怒ることがあるでしょう。怒りは感情の一つであり、怒りという感情自体は神から与えられたものであり悪ではありません。しかし感情にすべてが支配されることには問題があります。とくに憎しみから来る怒りに、人格の全体が支配されることは罪であり必ず悪いことが起こります。クリスチャンの理性が、怒りなど他の全ての感情をコントロールしている状態が正常であるのです。クリスチャンはいつもニコニコと笑っている人ではありません。怒るべき時には、微笑むのではなく怒らなければなりません。感情自体が悪なのではなく、感情に支配されて判断し行動することが間違っているのです。
 
怒りをコントロールするには
英国の説教者ロイドジョーンズは、「愛とはその人が好きであるかのように行動することである」と説明しています。つまり「愛」は感情ではないということです。「好き」「嫌い」は感情であり、「好き」は「愛」と混同しやすいのです。感情は上がり下がりがあります。現れたり消えたりします。普通は「好き」「嫌い」という感情によって行動しやすいのですが、「好きであるかのように行動する」ことは、「愛」が「好き」「嫌い」という感情をコントロールしているからできるのです。
私たちは、怒りという感情をコントロールできるようにならなければなりません。アメリカの家庭の問題のカウンセラーであるゲーリー・チャップマンは、フォーカス・オン・ザ・ファミリーというアメリカのネット放送局で、怒りについて興味深いことを語っています。
 
クリスチャンにとって怒りは、ビジター(お客さん)であって住人ではない。怒りを埋めてしまうのではなく、怒りは一時的な感情であり遅かれ早かれ出ていく。怒りを私たちがコントロールしなければ、怒りがあなたをコントロールするようになるだろう。いつでも怒りを現わさないように努力するのは必ずしも正しくない。怒りを押さえつけるだけなら、それは苦々しい感情に変わって心の底に残り続けるであろう。怒りは感情であり一時的に滞在しまた去っていく。
自分の考える方法で相手がしない、自分の希望する速さで相手がしない、そのようなときにイライラして子供や妻や夫に怒りをぶつけてしまう。いずれにしても怒りをコントロールすれば、怒りはあなたをコントロールすることができなくなる。
でもそんなことができるのか。できる、いや、いつもやっているではないか。たとえば子供たちが言う事を聞かないで切れそうになっているとき、とつぜん電話が鳴る。すると「あーら、メアリー、元気?」などと普段と同じように話すことができる。10数える、100数える、などの昔からある方法もある程度は役に立つ。
しかしクリスチャンはもっと積極的な方法で解決することができる。まず謝ることから始まる。
そしてゆるすことが続く。謝罪とゆるしなしなしには結婚生活はうまくいかない。もちろんゆるせばすべて解決するわけではない。その時は話し合うことが重要。でも話し合えばすべてが解決するわけでもない。話し合いで合意すればそれで解決できるが、合意しなければ合意しなかったということを合意し、続きはまた明日。(以上、約30分の対談の要約)
 
 
 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままではいけません」(エフェソの信徒4:25~26)。聖書は怒ること自体が罪であるとは言っていません。しかし日が暮れるまで怒り続けていることは罪であるのです。怒りに支配されるのは、ゆるしと愛によって怒りを克服する努力をしていないからです。お客さんであった怒りは、やがて恨みとなり、その人の家の住人となって住み続けることになるでしょう。
 ニュースになるような驚くような事件も、どこかでとどまって考えることなく、そのような過程で突き進んでいった結末なのでしょう。クリスチャンは安心、と考えるべきではありません。どこかで立ち止まることがなければ、私たちの心も同じ過程で進んでしまうからです。
 
 神の性質
 私の学生時代は学生運動の真っ最中、活動家の学生が教室を占拠してまともに授業ができなかった時代です。まとめて「全学連」と言われていましたが、実は「革マル派」「中核派」など様々な派閥に分かれ互いに激しく争っていました。最も激しいのはむしろ、安保条約反対という同じ目標を掲げているグループ同士の争いであることに、いわゆるノンポリの私は不思議に思っていました。
 その理由は共通基盤が多いからであることが分かったのは後になってからです。同じ土俵に上がっている者同士が闘うのです。その意味では、家庭は共通の土俵です。夫婦、親子、嫁姑、全員がこの土俵に上がっているのです。これを悪魔が利用しないはずはありません。クリスチャンはまず、神の子であることを再確認することが重要です。人間の親子のどこかが似ているように、神の子として神の性質をいただいていることを認めるのです。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」ヤコブがこのように命じるのは、これが神の性質であり私たちは神の子であるからです。
 神は私たちの罪をゆるしてくださいました。そのためにご自分の独り子を十字架にかけて罰せられたのです。私たちも私たちに悪をなす者をゆるさなければなりません。いらいらさせる人を忍耐しなければなりません。私たちも必ずだれかをいらいらさせているのです。
傷つきやすい人は自分の心の傷ばかりを一日中ながめていてはなりません。世の中にはもっと傷ついている人が大勢いるからです。とくに今、世界中で愛する者を失った人々のことを思いやりましょう。自分の心の痛みより、他の人の心の痛みに動かされる心、それが神の愛です。神は罪に支配され罪の奴隷となっている私たちを憐れんでくださいました。そして独り子イエス・キリストを世に送ってくださったのです。我が子が北朝鮮に拉致された親の心はどんなに傷つき痛んだことでしょう。神はただ「かわいそうに」と天から私たちを憐れむのではなく、独り子を十字架につけて神ご自身が傷つく者となられました。私たちも悲しみの中にある人々と共に、傷つく者とならなければなりません。
 クリスチャンが結婚すれば、自動的にハッピーな家庭になるのではありません。いつも家族が、この十字架の愛の下に集まるとき、家庭は世界で最も安全で安心できる場所となるでしょう。神が私をそのままで受け入れてくださったように、自分の希望通りではない相手を互いにそのまま受け入れる所、それが家庭です。