「見えないウィルスと見えない神」
 ⑨「自粛」
 

 
 
 
ローマの信徒への手紙13:1
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
 
 
 ローマ書13章                 
 このシリーズ説教の5回目「差別・人権など」では、教会と国家の関係を扱うローマ書13章の最初の部分を少し考えました。パウロは生まれたばかりのローマの教会のクリスチャンに対して、国家とクリスチャンの関係の原則をここで教えているのです。新しく生まれたクリスチャンは国家からもこの世のどんな組織からも完全に解放され自由になった、と考える者がいたからです。そんなクリスチャンに対してパウロは、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と戒めています。「クリスチャンは」ではなく「人は」となっており、さらに「皆」が付いています。国民や市民というレベルでは、クリスチャンも他の人も共通する地上の義務があるからです。クリスチャンの国籍は天にあるからと言って、地上の国家に対する義務や責任を無視してよいわけではありません。
実はイエス様もこの問題を扱っておられます。ファリサイ派とヘロデ派が、ローマに税金を払うべきかどうかを質問したときの主イエスの答えは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)。天に国籍がある神の子たちも、地上の国家に対する義務(この場合は税金)は果たさなければならないという意味です。しかし国家は神から与えられた領域を超えるのが歴史の常であり、そのときは必ずしも国家に従う義務はないという意味が、主イエスのこの言葉にもパウロのローマ13章の言葉の裏側にも含まれていると考えるべきです。
たとえば日本の国家が個人の心の中や頭の中にまで手を突っ込んでくることが、歴史の中ではしばしば起こりました。そのために新しい憲法の20条では「信教の自由」が、そして同21条では「表現の自由」が規定されているのです。戦争中に国家が神道を国民に強制し特定の宗教を弾圧したことへの警告が、新憲法に組み込まれたのです。
一言で言えば、クリスチャンは天の国民であると同時に地の国民でもあり、両方の国への責任と義務を帯びているのです。そのバランスの中に真理があるため、クリスチャンは良く考えて行動することが求められます。さて今回はこの原則を、この度の新型コロナ感染の現在の状態に当てはめて考えてみましょう。
 
変な宣言
繰り返しになりますが、見えないウィルスによって見えるようになってきたことは多くあります。日本社会で特にはっきり見えてきたものが「自粛ムード」です。これはかなり日本的なもので、プラスとマイナスの両面があることを知らなければなりません。緊急事態宣言が出され、外出や移動の「自粛」を政府は国民に求めました。そしてその後、感染者数が安定し減少に転じ始めたとき、緊急事態宣言が解除されました。その後「東京アラート」なるものも発令され、これもまた解除されました。それぞれがそもそも何であるのかは非常に曖昧で分かりにくく、というより実はかなり変なことでもあるのです。内容はどちらも団体や個人や企業の活動の「自粛」であるのですが、「自粛」とは自分から進んである行いや態度を控えることであるはずです。つまり「自粛」ならば、それを宣言するのも解除をするのも自分であるのです。
ヨーロッパやアメリカでは、外出を控えることや営業を止めることは、州や国家からの命令でありそれに違反すると罰金が科せられる国もあります。しかし日本のやり方は基本的にはあくまでも「自粛」です。宣言もアラートも命令ではなく「自粛」のお願いです。そして多くの国民の多くは「自粛」した(している)のです。「自粛」しない人に「自粛」させる「自粛警察」という言葉も現れました。前述のように「自粛」は、自分が自分自身に宣言しまた自分で解除するものですから、他の人に「自粛」を強制する張り紙をしたり嫌がらせをするのはおかしいわけです。
確かに「自粛」のためにウィルスの感染拡大は抑制されているのは事実です。しかし、もう一方でこれが戦中の日本の国の秩序を保つ手段になったことを忘れてはなりません。いまコロナ・ウィルスを機に、また良い方にも悪い方にも利用される日本人の性質が見えるようになってきたのではないでしょうか。天と地の国民であるクリスチャンは、ここでもバランスのとれた判断と行動が求められているのです。
 
戦争中
 「ほしがりません勝つまでは」「月月火水木金金」「鬼畜米英」「お国のために」「天皇陛下バンザイ」等などのスローガンで、日本は戦争に突進していきました。そしていま日本の総理大臣は、内容は違っていても非常に似たことを言っているのではないしょうか。オリンピックが東京に決まってからは「国民一丸となって、オリンピックを成功させよう」と言っていました。私のようにオリンピックを日本で開催することに反対している人も少なくないはずです。IOCも最終的には東京を選びましたが、それまでは日本国内の盛り上がりが低いことで躊躇していました。それがいま「国民一丸となってウィルスに立ち向かおう」と変わりました。「一丸となる」のは非常に危険であるとある外国の記者が発言していました。そのような状態では誤りに気付かなくなってしまい、誤った方向に最後まで突進してしまう危険があるからだというのです。その記者の国は(オランダかフランス?)「一丸とならない」国民だそうで、その方が指導者が間違っていても修正が効くというのが理由です。
 戦争中に政府によって組織された「隣組」が「民間警察」になり、互いに監視するために国家によってうまく利用されました。そしてへたをすると助け合うどころか、国家を批判する者は「村八分」か「非国民」にされてしまいます。そしていまの「自粛警察」は正にこの「隣組」の精神に似ているのです。日本ではマイノリティーである教会もこの「民間警察」の標的になりやすいということは、約30年の牧師生活で私も経験してきたことです。教会に来て面と向かって語り合う方もありましたが、様々なやり方での攻撃のほとんどは匿名でなされてきました。
 
 コロナ後
 日本のリーダーたちは知恵からか偶然からか、いずれにしても結果的には「自粛」は効率の良いやり方であったのは確かなようです。感染拡大のときにできた「自粛」という習慣は、感染が終息した後はどうなるのでしょうか。
 私たちの脳はおなじみの方に進む、と言われます。「よく知っている悪魔はあまり知らない天使よりも良い」ということわざもあります。この緊急事態が終わっても、この期間に身に付いた習慣は大なり小なり残っていくはずです。その中には良い習慣と悪い習慣があるでしょう。それ自体はニュートラルであっても、悪いことに用いられたらとんでもないことになる習慣もあるでしょう。「自粛」はその一つです。
 実はコロナで初めてそうなったのではなく、その時々で異なる現れ方をする日本の歴史の一コマでもあるのです。戦後まもなく生まれた私は、戦争中の「自粛」や「隣組」のことは当然ながら経験していません。それどころか物心つくころには、戦時中は「鬼畜米英」で「一丸となった」日本国民の第一のあこがれの国は、手の平を返すようにそのアメリカになっていました。チョコレート、チューインガム、キャデラック、ニューヨーク、エンパイア・ステートビル、プラモデル、70ミリ映画「ベンハー」等など人々があこがれるものがみなそこにあったありました。手のひらを返したのではなく、もともと国家や天皇を崇拝するふりをしていたのです。
 私が青年と言われる年齢に達した頃、もはや日本は昔のような暗黒時代にもどることはないと固く信じていました。しかしある一つの出来事から、そのような確信は根底から崩れることになります。それは昭和天皇の死去の時です。死去は1989年1月ですが、前年の9月に吐血が報道されてからはいわゆる「自粛ムード」一色で世の中が塗りつぶされ、この度のコロナのように突然日本社会は変わってしまいました。NHKのニュースは天皇の吐血や下血の量、血圧などを毎回報告し、現在の下血量や血圧が画面のどこかで24時間実況中継されるようになりました。ニュースキャスターたちは次のニュースに切り替わるまで、暗く重たい顔を維持する努力をしていることが誰の目にも分かりました。
 街の様子も社会も急変しました。もちろん今ほどではありませんが、社会活動や経済活動は縮小しました。秋祭りやお祝いの会が自粛されていきました。祭りの中には恒例の神保町の「古本まつり」も自粛しました。名称が「古本セール」ならよかったのでしょうが。テレビのお笑い番組が中止されたり、少なくとも言葉や表現に注意深くなりました。野球の早慶戦の太鼓の応援も自粛されたそうです。その年優勝した西武ライオンズの優勝セールも中止。日本はほんの短い期間に突然変わることのできる国なのだ。これまでの確信はくずれ恐怖を覚えた年です。そして2011年の東日本大震災の後にも、これとは少し異なる自粛ムードが、日本全土を覆いつくしたことはまだ記憶に新しいところです。
 
 自粛の根拠
「全国一斉に休校」「人と人の接触を8割少なくとも7割。」その科学的な根拠の説明はありませんでした。おそらく言っている当人も分かっていなかったのでしょう。確かに人との接触をできるだけ減らせば感染のリスクは減るのは当然のことであり、クリスチャンもいわゆる「不要不急の外出」や「三密」を避けて「ステイホーム」に協力するべきです。でもそれがどうして「全国の学校」や「8割」なのかはよく分かりません。「東京アラート」の宣言と解除の基準は示されましたが、根拠はやはり説明がありません。続出する新しい言葉は確かに市民にも定着していきましたが、中身はあいまいでよく分らないままです。
 科学的な根拠を示し、みなが納得して自粛する、というのが順序です。初めての経験でありよくやってみないと分らないことが多いのが当然ですから、間違った時には「間違ったので訂正します」と言ってまた協力を求めるべきです。日本の感染の実態も分かっていません。実態がよく分らないのにこれからの方針を立てることはできないはずです。ここまでおおむね「当たり」といってよい結果が出ているようです。特に欧米に比べると公表された感染者数は圧倒的に少なく、重症化率や死亡率はさらに少ないのです。しかし繰り返しますが、PCR検査が世界最低レベルに少ない日本の感染者数の実態は今でも分からないのです。それを勘定に入れても、様々な失策にもかかわらず、100万人あたりの死者数は非常に少ないのはどうも確かであるようです。しかしアジアに限定するなら、死者の割合は日本は下から2番目に悪いのです。「日本モデル」などといばれる状態ではありません。東洋人の何かが幸いしているのではないか、と欧米では謎の研究を開始したようです。遺伝子の違い、過去の似たウィスルの感染で抗体ができた、握手やハグではなく身体接触なしの挨拶、靴を脱ぐ習慣、BCG、衛生意識、マスクの習慣、など様々な説が飛び交っています。
 
 民主主義
 説教は時事解説や政権批判ではありません。しかし繰り返しになりますが、クリスチャンも地上の国の市民です。そして市民として、一般の市民より劣っていてはいけません。そのためには社会の情勢に無関心であってはなりません。天の国民となることは地上の国民としての責任を放棄することではありません。山上の説教で主イエスは「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)と言われました。この場合、一ミリオン行けと強いるのは支配者であるローマ帝国です。たまたまそこにいたキレネ人シモンが主イエスの十字架を担がされたのは、ローマのこの規定によるものです。クリスチャンは普通の人の2倍はこの世の規定に忠実でなければなりません。クリスチャンはだらしがない、決まりを守らない、などと世の人々から言われてはならないのです。
 しかしもう一方でクリスチャンと教会は、国のリーダーたちが与えられた限界を越えてその権限を行使しようとするとき、それ見抜くことに2倍敏感でありそれを止めることに2倍の努力をしなければなりません。この説教の最初に「バランス」という言葉を使ったのもそのためです。 
 戦争中は「大本営発表」を盲目的に信じることが国民に求められました。最も近い国では恐怖政治によっていまでも実行されています。ある国語辞典で「大本営発表」は、「自らに都合の良い情報」「信用できない情報」などとなっています。今はNHKのニュースが大なり小なり「大本営発表」の役割をしているように感じます。おそらく上司の強力なチェックが入っているのでしょう。
国会では質問されると、後ろからまわってきたメモを大臣が棒読みします。そのメモを書いた人も別のメモから丸写ししたものです。そんな国会答弁を京都大学名誉教授の加藤尚武(倫理学)は「民主主義ごっこ」はもう止めましょう(毎日新聞)と言っています。宣言し解除する者自身もよく分っていない「非常事態宣言」や「東京アラート」。これからもいろいろな宣言やアラート(なじみのない英語を使うべきでない)が発表されることになると思いますので、そのときはよく考えてみる必要があります。愚かな指導者を選んだアメリカやブラジルは、いま大変なことになっています。