「その時から」
  

  
 
マタイ福音書4・12~17
「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。神の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」
 
 
 「そのときから、私の人生は」、という経験をお持ちの方は少なくないと思います。「そのときから、私の人生はおかしくなりました。」「そのときから、私の人生はすばらしくなりました。」私たちの側からは、それを「偶然」「運が悪い」「運が良かった」といった言葉で表現しても、神様の側では確かな原則を持っておられるのです。
 「神はこんなときに何をしているのだろう」と思いたくなる場合もあるでしょう。でも神のスケジュール表と私たちのスケジュール表は必ずしも一致しないということを忘れてはなりません。私たちが「遅い」と思うときも、私たちが「まだ早い」と思うときも、神は正確に救いの計画を実行しておられるのです。
 
旧約と新約
 20世紀から21世紀という大きな変わり目を経験した方も少なくないと思います。マタイ福音書3章から4章の間には「旧約」から「新約」というもっと大きな変わり目があります。洗礼者ヨハネが捕らえられ牢獄に投げ込まれたとき、「そのときから」ヨハネからイエス・キリストへと働きが移りました。時間的にはキリストが来られた新約の時代に生まれたヨハネは、内容的には旧約の時代に生きた預言者です。旧約はメシヤを待ち望む時代であり、準備の時代です。しかし今、準備が整って、旧約の幕が閉じられ新約の幕が開きました。ヨハネの仕事が終わるとき、「そのときから」イエスが仕事を開始されるのです。ヨハネの役割は、「主の道を整える」(3・3)準備の働きであると記されています。ヨハネは旧約最後の人物というだけでなく旧約全体の代表者として記されており、福音の伝達者はヨハネからイエスへと移り、時代は旧約から新約へと移っていくのです。
 
 歴史
 ヨハネが捕らえられたため、イエスはナザレを離れガリラヤ地方に移りました。ヨハネの働きを継承する者にも危険が及び、働きを始める前に捕らえられることを避けたのですが、神はそのようなマイナスの出事後の中にも働いておられました。ヨハネの主な職場は、ユダヤの荒れ野。都会の正反対のような場所です。服装もそれにふさわしく、ごわごわして固いらくだの毛衣。
しかし、準備の段階が終わり、いよいよメシヤ自身による宣教の働きが始まろうとしているとき、働きの場所は荒れ野から別の場所へと移されようとしていました。福音はこれからは広められていかなければならないからです。山に囲まれたユダヤの荒れ野は、どこにも行けない地。しかし、交通の要所であったガリラヤはどこにでも行ける地です。またガリラヤは豊かな地であり、新しい思想も比較的受け入れられやすい自由な地でもあったのです。
 この聖書の箇所からは離れますが、もう少し大きく歴史を見ることも有意義です。福音が公に宣言されようとしていた「そのとき」は、ローマ帝国が世界を支配していた時代であり、この中にも神の支配と深い知恵を見ることができるでしょう。ローマが当時の世界を支配する前、世界では多くの力が対立し争いが繰り返えされていたからです。そのようなときにイエスが宣教を開始されたなら、福音は一つの国あるいは小さな地域に閉じ込められ、決して広められることはなかったでしょう。しかし旧約の人々が待ち望んだメシアがお生まれになった頃、ローマの強力な支配が広大な範囲に及んでいたことはよく知られている通りです。「すべての道はローマに通じる」とも言われました。国境が取り去られたそのような時代に救い主の公生涯が始められたことは、神の知恵と言う他はないでしょう。
 
霊的に
 さて、メシアの公生涯はガリラヤの地で開始されたのですが、ガリラヤは比較的自由で比較的繁栄した地とはいえ、イスラエル全体から見れば軽視されていた地方であったことは、霊的な意味を知る上で重要です。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地」と紹介されている地方には多くの異邦人が住んでおり、「異邦人のガリラヤ」という決定的とも言える表現で最低の評価が下されています。この地方の住民は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」とさえ表現されているのです。ユダヤ人にとっては、ユダヤ人であるかそうでないか(異邦人)は決定的であるからです。主イエスも、彼らのそのようなプライドを利用して「異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5・47)と言っておられます。
 ガリラヤはプライドの高いエリートには不向きな地であったのです。「暗闇」は失望、落胆、心の暗さ。「住む」は、そのような状態が一時的ではなく継続していること。そのような状態から抜け出す道を見出せないことを表しています。「死」はどんな人をも支配する暴力的な悪の力。「陰」は光の少ない部分です。四年に一度、オリンピックの開催地が選ばれそのための戦いが繰り広げられます。神は福音が伝えられる最初の地として、メシアが公生涯を開始する場所として、首都エルサレムではなく異邦人のガリラヤの地を選ばれました。これは福音の広がりに関して霊的にもぴったりと一致しているのです。
 
 光と陰
 光と陰の関係をご存じだと思います。私たちは霊的な事柄になると、とんでもない誤解をすることをイエスはよく知っておられました。たとえば「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(マタイ9・12)と言われました。あまりにも当たり前のことです。しかし肉体の病気では決して間違わないことでも、霊的な病気になるととんでもない誤解をしてしまうのです。ほうきで陰を外に掃きだそうとする主婦はいないでしょう。陰をふろしきで包んでも、押し入れの中に押し込んでもむだでしょう。しかし霊的な事柄になると、とたんに私たちは分からなくなってしまい、とんでもない誤解をしてしまうのです。
 たとえば困難と直面するのを避けることによって、問題がなくなったかのように錯覚してしまいます。だれかの責任にすることによって、安心しようとします。自分の欠点を克服しようとするまじめな努力もあります。もっと収入があれば幸せになれると思います。音楽や娯楽や趣味によって暗い人生を明るくしようとします。もちろんそれぞれの努力は尊いのですが、根本的な解決にはならないことでは共通しています。誤解してはなりません。陰を追い出すことはできません。そうではなく、光が来るとき陰は自然になくなるのです。懐中電灯で照らしだされた部分は陰がなくなるでしょう。暗い部屋も電灯のスイッチを入れたとたんに陰が消滅します。光は陰よりも強いのであって、その逆ではありません。照らしたその部分だけ暗くなるような懐中電灯があるでしょうか。明るい部屋が暗くなるような電灯があるでしょうか。
光と陰は一緒にいることができないのです。光が来るとき、陰は去ります。朝が来るとき、夜は去ります。朝と夜は一緒にいることはできないからです。ですから、陰を覆ったり、陰を押し入れに入れたりするムダな努力は止めて、光に照らされることを考えるべきです。夜を去らせようとするのではなく、朝を待てばよいのです。太陽が昇るとき、月や星の栄光は場所を譲ります。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」のです。「そのときから」イエスは宣教を開始されたからです。旧約と新約の変わり目のときです。ヨハネからイエスへのバトン・タッチのときです。準備の段階からいよいよ本番の幕が開くときです。そして何よりも、「死の陰に住む者」が光を見て喜ぶときです。
 
 悔い改めと神の国
 主イエスは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言われました。天国と悔い改めは別々の事柄ではなく、二つはセットであるのです。らくだの毛衣をつけたヨハネは、厳格で気難しい男です。救い主はやさしく心の暖かいお方です。しかし、悔い改めはしかめ面をしたヨハネだけではなく、心のやさしい主イエスも求めておられるのです。王は王の道を整える者にまさっています。しかし、両者の「悔い改めよ」というメッセージは同じであるのです。
 福音宣教の最初のことばが、「悔い改めよ」であったことに大きな注意をはらうべきです。イエスの宣教がエリートの地ではなく見下げられた地からはじまったように、光と希望は悔い改める低い心からだけ始まるのです。宣教の最初のことばが「喜べ」ではなく、「悔い改めよ」であったことは重要です。人は罪人であることを前提としているからです。言い換えれば人はそのままでは喜べない罪人であり、輝かしい天国とは関係のない陰に住む住民であるのです。人は人生を明るくしようとしてあらゆる努力をします。しかし、部分的に明るく、一時的に明るくなっても、また暗い陰が覆ってしまいます。夜を明るくしようとする努力に似ているのです。不幸や悲しみの根本的な原因である罪が解決していないからです。
天国とは最高の幸福だけがある所です。それは死んでから後の将来のことでもあり、現在のことでもあります。多くの人が「不幸」と判定する事柄の中にも光を見出すことができるからです。天国の入口はピカピカと美しく光っているのではありません。悔い改めが天国の入り口であるからです。そして悔い改めの涙で洗われた目だけが、天の入り口を発見するのです。
 「悔い改めは律法の家系ではなく、福音の家系である」と英国の説教者スポルジョンは語っています。律法は罪を明らかにしますが、それだけでは悔い改めに導く力はありません。しかし律法が神の恵みと混合されたとき、それは最も甘い感情に変えられるのです。
 
 結論
 ローマ帝国が世界を支配し国境が取り去られた、「そのとき」救い主が誕生しました。ヨハネが捕らえられた、「そのときから」働きがヨハネからイエスに移りました。ヨハネが捕らえられ、見下げられていたガリラヤ地方にイエスは移って行かれました。「そのときから」福音宣教が開始されたのです。そして私たちの心が低くされ悔い改めるなら、「そのときから」私たちの心にも光がさし込み始めるのです。夜を朝に変えることができないように、暗闇を光に変えることはできません。闇を追い出したり闇を覆うこともできません。そのようなムダな努力はもう止めませんか。私たちができるのは、光を作り出すことではなく、光が差し込む条件を整えることです。朝が来たときに分かるように心の窓を開けておくのです。もし光が差し込むなら、私たちの心がどんなに罪に汚れているかがよくわかるでしょう。でも誤解して自分に失望しないでください。前よりも罪深くなったからではなく、光が差し込んだから罪がよく見えるようになったのです。「そのときから」神の愛と恵みがあなたの心に働き始めるのです。自分の罪を覆ったり、他の人のせいにして罪がないかのように装おうのではなく、光に照らされたとき闇は光になるのです。自分の罪を神の前に正直に認めて告白するなら、もうすでにあなたの心は少し明るくなっているはずです。そもそも光がなければ、恵みがなければ、罪を認めることなどできないからです。
 間違ったことをしたと思うなら、もうすでに重い心は軽くなっているはずです。あの人が悪いこの人が悪い、あれが悪いこれが悪い、と自己弁護や責任転化をしてがんばって苦しんでいた時と比べてみてください。次に、キリストの十字架を見上げてください。キリストはあなたの罪を全部背負って十字架にかかられたのです。この十字架を信じるとき、あなたの背中からあなたを苦しめていた罪の重荷がすっかりと降ろされているのに気が付かれるでしょう。
 ヨハネは旧約の律法を代表し、律法によって罪を裁きました。罪がもたらすものを厳しい言葉と態度によって示しました。言葉や態度だけでなく、らくだの毛衣というヨハネの服装、荒れ野というヨハネの住居も、罪のために喜びが取り去られているという同じメッセージを語っていたのです。しかし、今、ヨハネからイエスにバトンが渡されました。「そのときから」光が射し込み喜びが心に訪れるのです。