「神の選択と人の選択」
  

  
マタイ福音書4・18~22
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
 
 宗教改革が教会の歴史の中で最大の出来事であることは、少なくとも我々プロテスタント教会にとって異論はないでしょう。しかし出来事の大きさに比べるなら、その始まりは小さな出来事であったことはあまり知られていません。免罪符に対して抗議する九十五箇条を、ウイッテンベルク城内の教会の門に掲示したのです。ルターはその時、その行動が、あのような大きな改革になることを全く予想もしていませんでした。そもそもカトリック教会を離れることなど毛頭考えていなかったのです。
  マタイ4章18~22節には、さらに大きな出来事のさらに小さな始まりが記されているのです。キリスト教のその後の歴史的な影響と世界的な広がりと比べるなら、その始まりは何ととるに足りないような出来事であったのでしょう。でも、良いことであれ悪いことであれ、どんな大きな出来事も実は小さな選択にかかっていると言うことができるのです。私たち自身の過去にも、「あの時、もしそうしていなかったら」、「あの時、もしそうしていたら」と思うような選択がだれにでも一つや二つは思い出されるのではないでしょうか。そして小さいと思えるあなたの今週の選択も、実はあなたの全人生を決定的にしているかも知れません。
 
 キリストは選択される
 すべての人はキリスト信者になることができます。しかし、すべての人がキリストの弟子になるわけではありません。自分に従う多くの者の中から、キリストは弟子を選ばれたのです。そのためにポスターをはり出して弟子を募集するのでも、抽選で公平に弟子を選んだのでもありません。キリストは御自分で好む者を選ばれたのです。ここでは特に、後に教会を建て上げる基礎となる12弟子の内の4人の召命が記されています。キリストは単に広い意味での弟子を集めるだけでなく、弟子を集める弟子をも集めるのです。狭い意味での弟子たち(後に一人が脱落しますが)がいなかったら、その後のキリスト教はなかったと言っても過言ではありません。キリストは烏合の衆を集めたのではありません。四つの福音書を読んで驚くのは、キリストの働きの主な部分は弟子の訓練であったことです。キリストは教会を立て上げるという大きな目的のため、リーダーを育てることにとくに力を入れたのです。
 
 キリストは低い者を選ばれた
 少し前に「キリストは自分の好む者を選ばれた」と言いました。しかしキリストは、身分の高い者、能力のすぐれている者、背が高くて美しい者に目をつけたのではありません。むしろ身分の低い者、能力のない者、見栄えのしない者ばかりを選ばれたのです。キリストは宣教を開始する地として、首都エルサレムではなく、首都圏の人々からは「異邦人のガリラヤ」とさげすまれていた地を選ばれました。死海は世界で最も低い地にある湖としてよく知られています。流れ出す川がなく、流れ込んだ水は蒸発するほかはなく、塩分がどんどん濃くなって命ある生き物がいっさい住めない死の海となったのです。死海に流れ込む水の大部分は、北のガリラヤ湖から来るのですが、驚いたことに流れ出す側のガリラヤ湖でさえ、その水位は地中海よりも212メートルも低いのです。世界を変える大宗教となったキリスト教は、そんな低い土地から、そして地理的な条件が象徴しているかのように、身分が低くとるに足らないような人々を集めることから始まったのです。
  
 キリストは可能性を見て選ぶ
 このときはじめて、イエスと弟子たちが、ばったりと出会ったと考える必要はありません。超自然的な能力で、将来大人物となる弟子を見分けて選んだのでもありません。他の福音書にはそれ以前の出会いが記されていますし、その中には洗礼者ヨハネの弟子であった者も含まれていました(ヨハネ1:40)。キリストは彼らとのしばらくの交わりの中で、彼らの可能性を見られたのだと思います。「いまどきの若い者は」、年寄りの最も有名なせりふです。しかしキリストは、今は貧弱な弟子たちの中に大きな将来性を見られたのです。今の弟子たちを見るかぎり、大したものは何も期待できなかったでしょう。今は単なる福音の聞き手であるかもしれない。しかし、将来は福音の偉大な語り手になることを期待しておられたのです。まだ学ぶことがたくさん残されている。救いはユダヤ人だけのものであるというあまりにも狭い心。幼稚、頑固、高慢、誤解、よくばり、臆病、短気。その他、彼らの欠点をいちいち数え出したらきりがありません。 パウロは「宝を土の器に納めています」(1コリント4:7)と言っています。神は外側の器だけではなく、まず安っぽい土の器の中に宝を入れてからその器を評価してくださるのです。使徒言行録に描かれている弟子の姿は、主イエスの選択が正しかったことを証明するのに十分な証拠が含まれています。
 
 弟子たちの選択
 この箇所には二種類の選択が記されています。キリストの選択と弟子たちの選択です。キリストが選ぶだけでは何も起こらなかったのです。キリストの選択と弟子たちの選択とが、一致し調和して、その後キリスト教が私たちの知っているような展開をしていくのです。弟子たちの選択は、「イエスに従った」という短い言葉に要約されています。ぺトロとアンデレの場合も、ヤコブとヨハネの場合も、文章は「従った」と結ばれています。その時だけの一時的な行為ではなく、彼らがその後も「従い続けた」ことは新約聖書に記録されている通りです。
  私がはじめて福音に接したのは高校一年生の時でした。私は聖書の話しに感動し、「キリストに従います」と画用紙に書き、それを自分の部屋の壁に押しピンでとめておいたのを覚えています。決心がゆらいで従う気持ちが消滅することをふせぐために、家族の見えるようにしておこうと思ったからです。聖書の時代は、キリストに従うことはもともと誰にでも見える形をとらなければなりませんでした。 「従う」とは「うしろを歩く」という意味です。主イエスが肉体をもって地上を歩かれたころ、生徒は文字どおり先生の後をくっついて歩いていました。それゆえ主イエスも、「わたしについてきなさい」と言われたのです。イエスが移動するとき、弟子たちも移動しなければならなかったからです。
 
 犠牲をはらって従った
  このような従い方につきものなのが「犠牲」です。二組の兄弟たちが「従った」ということは、犠牲をはらって従ったという意味です。移動していく先生に従うためには、ナベや釜をもっていくわけにいかないでしょう。他にも後においていく様々なものがありました。 聖書は、彼らが後に置いていったもの全部のリストを書くことはせず、そのことを代表するような二つのものだけを記しています。ペトロとアンデレの場合は「網を捨てて従った」、ヤコブとヨハネの場合は「舟と父親とを残して従った」のです。「網」と「舟」は職業、「父親」は人間関係をあらわしています。彼らは、二つの領域でそれぞれ最も重要と思われる二つのものを犠牲にして主イエスに従ったのです。マルコ福音書には、舟には他に複数の雇い人がいたことが記されており(1:16)、父を身捨てたのではなく救い主に従う方を優先したと読むべきでしょう。
  何であれ、これまで好んでしていたことを止めるのは易しいことではありません。もしそれが自分に利益をもたらすものであったり、自分にとって大切なことであればなおさらです。ある若者は目指す大学に入るために、遊ぶための多くの時間を犠牲にするでしょう。ある女性は美しくなるために、大好きな食べものをがまんするでしょう。価値あるものを手に入れるためには代価を払わなければならないという常識を、主イエスに従う時だけは当てはめないのでしょうか。そのように考えた何と多くの人が、貴重なチャンスをのがしていったことでしょうか。何も失わないでイエスに従うことができるという思想は、明らかにメシアから出たものではありません。主イエスは「わたしについてきなさい」と言われたのです。
 
 すぐに従った
  「犠牲はいらない」はサタンの声です。それだけではありません。「急がなくてもよい」はサタンのもう一つの代表的なキャッチフレーズです。「あとで」は、子供のころの私の口ぐせであったと両親から聞かされました。「あとで」もよい場合と、「あとで」は遅い場合があるのを間違ってはいけません。
時間を有効に使う人と、そうでない人とは何が違うのでしょうか。「重要性」と「緊急性」に関して物事には四つの組み合わせがあると聞きました。緊急で重要なこと、緊急で重要でないこと、緊急ではないが重要なこと、緊急でも重要でもないことの四つです。第一の緊急で重要なことに関しては、ほとんどの人がまちがいなく実行するでしょう。間違いやすいのが、第二と第三の優先順序です。多くの場合、緊急であるゆえに重要でもないことに大きな時間をさき、緊急ではないが重要なことをおこなう時間を失ってしまうのです。時間を有効に使う人は、緊急ではないが重要なことに最も大きな注意をはらうというのが、時間の有効な用い方の結論です。
 もし弟子たちが、私の子供のころのように「あとで」と言っていたらどうなったでしょうか。それまで時々イエス様と出会っていたようですから、「また今度会ったときにしよう」と思っても不思議はありません。周りの人は、そのようにすすめたのかも知れません。しかし、彼らは「すぐに」従ったと記されています。「太陽はまた上るでしょう」は単なる予想ではありませんが、「また機会があるでしょう」は予想にすぎません。太陽は明日も確かに上るのですが、息をしている私の上にまた上るかどうかははっきりとは分からないのです。聖書には、自分の都合で大切な決心を遅らせることへの警告がたくさんあります。「まず父を葬りに行かせてください」と言った律法学者(マタイ8:18~22)の話。王子の婚宴のたとえ話(22:1~14)、等など。主イエスが四人を召されたのは、一日の働きを終えた休憩時間ではなく、漁の真っ最中であったり、明日の漁に備えて網の手入れをしている忙しい時間であったのは偶然ではないでしょう。「網をうっている」「網を捨てて」「網の手入れをしている」など、聖書が何度も細かいことを記しているときは、何か重要な意味があると考えるべきです。網は、歴史と世界を変えるような重大な仕事の働き人としてふさわしいかどうかのテストの一つであったのです。イエスはガリラヤ湖畔のロマンチックな散歩にではなく、苦しみや悲しみの伴う弟子の道へと招いておられたのですから。
 
 価値ある選択をした
 使用済みのはがきや大人がビー玉を捨てるのは困難ではありません。しかし、大切なものをただちに捨てるのは容易ではありません。キリストはいつもそのような大選択を求められるのではありません。また、驚かすためにただ無意味に人を試すようなこともなさいません。より価値のある選択をせよ、と言っておられるだけなのです。ペトロとアンデレは「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉に従いました。ヤコブとヨハネの場合は、招きの言葉がありませんが、同じ言葉が省略されていたのだと思います。
 最初の弟子たちは、衝動的にむやみに従ったのではなく、より価値のある指導者と、より価値のある人生を選択したのです。彼らは事実、世界の歴史を変えるような大きな働きをしたのです。ガリラヤの漁師として人生を終えるのとは何という大きな違いでしょうか。どちらになるかは、「わたしについてきなさい」という言葉に、ついていくのかついていかないかの選択にかかっていたのです。彼らは多くの人々の魂をとらえ、多くの悲しむ魂を慰め励まし、人をとる漁師となりました。もちろん、この時点でそのような深い洞察があったと考えるのは困難です。彼らはただ、より質の高い生き方を選ぶ心の用意があったのだと思います。そのためには、これまでしていたこと、これまで大切だと思っていたことを犠牲にすることができたのです。そして、普通はそれが簡単ではないのです。
 
 結論
 弟子たちの選択は、単なる弟子たちの選択ではありません。キリストの恵み深い招きに対する、弟子たちの選択であるのです。二つの関係を合理的に説明するのは困難です。しかし、この二つが出会うときにすばらしいことが起こり、そうでないときは何も起こらないのです。ルターは初めから大きいことをしてやろうと思って、ウッテンベルク城内の教会の門に一枚の紙を掲示したのではありませんでした。神からの一つひとつの小さな招きと良心の声に、忠実に歩もうとしただけなのだと思います。
  何か大きな出来事によって人生が決まっていくかのように感じるかもしれません。確かにそれもあるでしょうが、より多くの場合、人生はむしろ小さく地味な出来事の連続です。その一つひとつにどのように対応し何を選択していくかが決定的に重要なのです。いまは主イエス・キリストの体は地上にありません。それでは「わたしについてきなさい」とはどういう意味になるのでしょうか。天におられるキリストに「従う」とは、どういう意味なの何でしょうか。もちろん、キリストのことばに従うことです。12弟子が主イエスのうしろをついていったように、他のことばの後ではなく、主イエスのことばの後をついていくことです。自分の都合や自分の考え、この世の考えや親の考えの後でもありません。それが私たちにとって、網、舟、父を捨ててキリストに従うことであるのです。主イエスが地上を去った後も、弟子たちが従っていたように。