「心の貧しい人々」幸いな人①
  

  
マタイ福音書5:3~5
心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 
 
 山上の説教の前提
 人はみな幸福を願っています。そして、ここには合計八つの幸福の条件が記されています。これはイエス・キリストによる有名な山上の説教(山上の垂訓)の最初の部分です。しかし「心の貧しい人々は幸いである」から始まる聖書の幸福な人になる条件は、世間の常識とは大きくかけ離れています。精神科医は落ち込んでいる患者に「心の貧しい人は幸いです」などとは絶対に言わないでしょう。「セルフイメージ(自己評価)を高く持ちなさい」と勧めるのが普通です。
「悲しんでいる人々は、幸いである」はほとんど馬鹿げて聞こえるかもしれません。学歴、地位、名誉、権力、美しくなることなどに飢え渇く人々は少なくありません。しかし「私は義に飢え渇く」というような声はこれまで聞いたことがありません。
 この不可解なメッセージを理解するためには、まずいくつかの前提があることを理解しなければなりません。第一は、マタイ福音書5章から7章までの山上の説教全体は、世間一般に対してではなくキリストの弟子たちに語られたということです。狭い意味のキリストの12弟子だけでなくもっと広い意味の弟子、すなわちクリスチャンです。5章の始めには「弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」と記されているのはそのためです。4章の最後には、大勢の群衆が来てイエスに従った」と記されており、山上の説教の聴衆は基本的にはキリストに従おうとしてついてきた人々であったのです。前提の第二は、これは霊的なメッセージであり、お金や物など物質的な貧しさや豊かさのことではなく、心の霊的な状態のことであるという点です。
 
 心の貧しい人々
 「心の貧しい人々」とはどんな人なのでしょうか。まずどんな人でないかを考えます。前述のように「心」がついているので金銭的に貧しい人という意味ではありません。でも「心」の状態を表すからと言っても、引っ込み思案な人やいつも下を向いている性格の暗い人ではありません。腰が低くいつもペコペコしている人でもありません。ここに記された八つの幸いな性質はどれも生まれつきのものではなく、聖霊が作り出す全く新しい性質の描写であるのです。
 では「心の貧しい人々」とはどんな人なのでしょうか。ここで用いられている「貧しい」という言葉は、基本的には貧乏という意味なのですが、非常に強い言葉であり旅行ができない肉が食べられないというような程度ではなく、だれかに恵んでもらわなければ飢え死にするほどの極限の貧しさを表す言葉です。「心の」という言葉がついているため、心の財布には何も入っていない、心が乞食であると告白している人です。
 「心の貧しい人は」自分の内にはもともと良いものが宿っていないと思っています。つまりもし良いものがあるなら、それは神から与えられたものであるのです。ある新興宗教の教祖は、自分がキリストや釈迦やマホメットの代弁者であると宣言しています。しかし旧約の最も偉大な預言者であるイザヤは、「私は偉大な預言者」ではなく「わたしは汚れた唇の者」と言っています。役者は映画の主役に選ばれれば喜んでそれを引き受けるでしょう。しかしエジプトで奴隷になっていたイスラエルを救い出す役割を神から命じられたモーセは、「私こそ役割にふさわしい」ではなく「ああ主よ。どうぞ他の人を見つけてお遣わしください」と言ったのです。使徒パウロは「わたしは新約聖書の後半の大部分を書いたのだ」ではなく、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)と言っています。
 彼らは臆病者だったからではありません。怠け者だったからでもありません。そうでないことは、旧約聖書と新約聖書を読めば分かります。彼らがそのように言った理由は一つだけです。つまり彼らが心からそう思っていたからです。「わたしなんか」という人はいくらでもいるでしょう。しかしその人が本当にそう思っているとは限りません。心の中ではしばしば「わたしこそは」と思っているのです。「わたしなんかダメです」と言う人に「あなたなんかダメね」と言えばカンカンになって怒るに決まっています。日本の教会のクリスチャンは「先日説教をさせていただいたとき」など「させていただく」という表現をあまりにも多く使いすぎると思います。謙遜を演出しているように聞こえます。言葉の謙遜ではなく、神の愛の前に立つとき、私たちの魂は打ちのめされ、「心の貧しい人々」にされるのです。
 
 天の国
なぜ「心の貧しい人々は幸い」なのでしょう。「天の国はその人たちのものである」からです。空にならなければ満たされません。古いぶどう酒が入っている器に新しいブドウ酒を入れることはできません。自信満々の人の心の引き出しには、天の国の宝を入れるスペースは1センチも残されていません。
 ではどのようにして「心の貧しい者」になることができるのでしょうか。山にこもって瞑想をすることによってでしょうか。滝に打たれて修行をすることによってでしょうか。そのように自分の内側だけを見つめるとき、不思議なことにかえって高慢になるリスクが高くなります。それが修道院の誤りです。禁欲的な生活や苦しい修行を通して自分を発見したと思うかもしれません。インドの修行僧は、文字通り針のむしろに座って瞑想し、体にくしを突き刺し激しい痛みに耐え、山を歩き回るなど難行苦行に励みます。その結果どれだけ過酷な修行に耐えたかを誇るようになるのです。
 そのように自分を痛めつけ、その自分を見つめることによって「心の貧しい人」になるのではありません。そうではなく神と神の恵みを見ることによってだけ、人は「心の貧しい人」にされるのです。たとえば私の罪のために独り子を犠牲にしてくださった神の愛の前に立つことです。そのときそんな大きな神の愛に値しない小さな自分を発見するでしょう。自分ではなく神と神の愛を見ることが大切です。
 
 悲しんでいる人々
 世が避けようとしているものの一つに悲しみがあります。映画、ディズニーランド、夜の繁華街、パチンコ、等など、世の中の活動のほとんどは悲しみを避けるための努力と言っても過言ではありません。良い学校を出て少しでも高い給料の職業について蓄えを増やし、また保険もかけて万が一の悲しみの時に備えます。裏返して言うなら、世の中には悲しみが満ち溢れているということです。
 聖書はもちろん、娯楽や教育を否定しているわけではありません。山上の説教の八つの幸福の条件は、ばらばらに並んでいるのではなく論理的に進展があります。つまりここで言う悲しみは、心の貧しいことの結果です。心が貧しく、自分の心には良いものが宿っていないことを悲しんでいる。そしてそういう悲しみは幸いであるとイエス様は言われたのです。
 世の中の喜びを否定する必要はありませんが、聖書には順序が示されています。本当の幸福に至るためには、喜びから始めるのではなく悲しみから始めなければなりません。それが他の多くの宗教との違いです。テレビのコマーシャルは、これを買えば、これを飲めば、これを着れば幸福になると楽しい音楽付きで言っています。しかし聖書では、いきなり喜びから始めるのではなく、心の貧しさから始めそれに続くのが悲しみです。肯定の前に否定があり、その逆ではありません。
 キリストの生涯も同じ順序です。キリスト教国のクリスマスの時には、「メリークリスマス」「ハッピークリスマス」「クリスマスおめでとう」などと挨拶が交わされますが、それは私たちにとっておめでたいのであって、お生まれになったキリストにとっておめでたいからではありません。神の子キリストにとっては、神の子から人間の子への転落であり、悲しみと苦しみの生涯の始まりであったからです。また両親であるヨセフとマリアにとっておめでたいのでもありません。生まれる前から、十字架で悲惨な死を遂げることが決まっていたからです。
 
 慰め
 不思議なことにキリストが笑ったという表現は聖書には一か所もありません。キリストはラザロの墓で涙を流しました(ヨハネ11:35)。キリストはまた「わたしは死ぬばかりに悲しい」とゲツセマネで弟子たちに言われました。エルサレムに近づいたとき、「都が見えたとき、イエスは都のために泣いて、言われた」(ルカ19:42)と記されています。。それは主イエスの性格が暗かったからでも気難しいお方であったからでもありません。それは単に友人の死を痛む悲しみではなく、死が世界を支配し、人々が罪と死の支配に打ちのめされている様子をご覧になったからであり、首都エルサレムの住民は自分たちの罪に気づかずに毎日を過ごしていたからです。
 キリストは悲しみの根本的な原因である私たちの罪を背負われたのです。キリストは悲しみの原因である私たちの罪をゆるし、罪の支配から私たちを解放するために、人の子としてお生まれになったのです。預言者イザヤは「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(口語訳聖書、イザヤ53:3)。そしてそのことを知っている者、つまり心の貧しい者だけが救い主を待ち望み、そして本当の慰めを受け取るのです。
 
柔和な人々
繰り返しになりますが、八つの幸福には順序があります。つまり次の「柔和」という性質は、おとなしい、争いを好まないで妥協する、空気を読んで無難にふるまう、優柔不断、など生まれつきの性質のどれでもありません。心の貧しいことを知り、そのことを悲しむことから出てくる性質であるのです。
自分自身を知っていることから出てくる他の人に対する態度です。自分のみじめな姿を知らなければ他人に柔和になることはできません。自分の惨めな姿を悲しんでいなければ柔和になることはできません。柔和な人は自分を誇ることがありません。自慢しません。自慢するものがないと思っているからです。自分に神経質ではありません。自分の名誉に関心を持っていないからです。
これが生まれつきの性質でないということは、普通はその反対の生き方をしていると言うことです。つまり自分がどう思われているかに神経質で、自分にいつも感心があり、自分にある何かを自慢し誇ろうとしています。自分に関するうわさがきになって仕方がありません。分かってくれないと悲しくなってしまいます。
最初の二つの性質は自分自身のうちにとどまっていました。そして「柔和」から後の性質は他の人が関係してきます。つまり進展があるのです。自分で自分を低くするよりも、他の人が自分を低めることをゆるす方がワンランク難しいことです。「わたしなんか」と言うことができても「お前なんか」と言われると腹を立てるのはそのためです。
しかし「柔和な人々」は他の人の悪い評価を受け入れることができるのです。そのため自分を防御しようとしません。他人のうわさを気にしません。自分を憐れまない、分かってくれないことを悲しまない。そんな人が果たしているのかなと思うかも知れません。その時、「柔和な人」は「心の貧しい」こと、またそのことを「悲しんでいる」ことの結果であることを思い出さなければなりません。つまり、他人が言うより自分の状態は悪いと思っているのです。他の人は自分の心の中を全部知っているわけではないので、悪口も褒められたと考えることができるのです。
「柔和」という性質は、他の人に対する態度になって現れてくるのは当然です。たとえば自分に悪をなす物に復讐心を持たず忍耐することができます。人を裁くことせずゆるすことができます。ファリサイ派の人々や律法学者は人を裁くことに熱心な人々です。自分がやっていることが他の人はできていないと思っていたからです。たとえば彼らは「はっか、いのんど、ウイキョウの十分の一」を神殿にささげ、週に二度断食をするなど、自分の得意の分野で勝負をしようとしていたのです。主イエスはそのような彼らに「あなたたちはぶよ一匹さえも濾して除くが、らくだは飲み込んでいる」と言われました。
 
地を受け継ぐ
 「柔和な人々」が仕返しをしないのは臆病で腰抜けであるからではありません。自分の権利、主張、将来を神に委ねているのです。柔和な人はどうなるのでしょうか。損ばかりしているのでしょうか。そうではありません。「その人たちは地を受け継ぐ」と記されています。我が家のお隣りは家が何軒も建つ大きな土地の持ち主です。アパートも2棟持っています。もし亡くなったら土地やアパートはどうするんだろう、などと余計な心配をしています。
「柔和な人々」は「地を受け継ぐ」のです。すでに満ち足りているのです。何も持っていないようで、なんでも持っているのです。私に洗礼をさずけてくださった牧師は、私は他の人がうらやましくありません、「大阪城」は私の者と思っていると言っていました。万物は神が所有しておられます。そして私たちは神にあってすべてのものをすでに所有しているのです。
私たちは山で苦しい修行をしたり修道院に入って柔和な人になる訓練をするのではありません。神を見た結果です。神と神の愛の前に立つ貧しい自分を見るとき、柔和にされるのです。主イエス・キリストを見ることです。そのお方が私たちの内におられることを知ることです。そのお方の性質が私のうちに形作られることを感じる以上の喜びはありません。そのとき、他の人から悪く言われること、他の人に褒められること、そんなものはまことに小さなことに思えるでしょう。