「義に飢え渇く人々とは」幸いな人②
  

  
マタイ福音書5:6
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 
 
 人間の罪のために様々な問題が起こってきます。そのときに間違って、問題は罪の現れである行為と考えてしまいます。他の人の悪い行為であれ、自分自身の悪い行為であれ、行為は心にある罪の現れであって罪そのものとは区別する必要があります。行為は心の状態の現れであるのです。
 中国が香港の人々の頭や心の中にまで入り込む法律を定めたのは、そのことを知っているからです。しかしそれは香港市民の思想や心の現れを力と恐怖によって抑え込もうとする、中国政府の恐怖の現れでもあるのです。これはエホバの証人などのカルト宗教のやり方と似ています。
 殺人は心の中の怒りから生まれる行為です。銀行強盗はそれ自体が目的ではなく、銀行の金庫にある金が目的です。つまり持っているもので満足しない心が見える形で現れた行為であるのです。性犯罪は再犯が多くそれを防ぐのが難しいと言われますが、犯罪行為と心の中にある罪の思いが直接結びついているからです。つまり銀行強盗の場合とは違って、その行為そのものが目的であり、何であれ他の人の心を変えるのはそもそも難しいのです。
 罪と罪の結果を混同しやすいということは、人間にとってその逆、つまり正しい生き方を考える場合も同じです。そこに気づくのはもっと難しいことです。正しい行為は正しい心から出てくるのであって、行為だけを見て判断することはできません。しかし他の人の心のすべては見えませんから、何をしたか何をしないか、という外側に現れた行為によってだけ判断をする強い傾向があるのです。
 主イエス・キリストによれば、正しい心とは義に飢え渇いている心であるというのです。「義に飢え渇いている」ことこそが最も重要なのですが、一般社会ではそんなことにはまったく関心がないのが普通です。聖書はいつも心が出発点です。
 
 倫理的な順序
 では「義に飢え渇く人々」とはどんな人々なのでしょうか。それを理解するために最も重要なのは、「義に飢え渇く人々」はこれまでの三つと論理的に密接につながっているということです。心の貧しいことを悲しみ、心が柔和にされた人だけが義に飢え渇く人になるのです。そしてそのような人は自分の心の状態にいつも痛みを感じているのです。
 痛みは健康にとっては非常に重要な働きをしています。もし痛みがなければ、小学校を卒業する前に体は90歳の老人のようになっているかも知れません。痛みや熱は体への警告です。痛み止めを飲めば一時的に痛みはなくなり熱は下がるでしょうが、その原因がなくなったわけではありません。かえってその間に病気が進行し、手遅れになっているかも知れません。
 「幸福に飢え渇く人々は幸いである」とは書かれていません。むしろ幸福はそのような人々の前を通り過ぎて行くでしょう。願っていたものを手に入れ、ほんの少しの間は幸福になったと感じるかもしれません。しかしそのような幸福感はパレードが目の前を通過している間だけであるのです。しかし「幸いな人々」にとって幸福は獲得するべき目的ではなく、心が貧しいことを悲しむことの結果に過ぎません。
 
 義とは①
 では義に飢え渇くとはどういう意味なのでしょうか。義とは罪と罪の力から解放されたいという願いです。罪は私たちを神から引き離してしまうからです。でも「義」とは何でしょうか。クリスチャンであれば、すぐにだれでも考えるのがキリストの十字架によって与えられる義です。パウロがローマ3章21~31節で語っている、宗教改革の最大のテーマ「信仰による義」です。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:21)。義とは神の前で「無罪」と宣告され、「正しい人」と認められることです。人間の前に正しいと認められる人はあるでしょう。人間はその人の過去やその人の内側にあるすべてを知っているわけではないからです。しかし、全能の神の前に隠しとおせる罪は一つもありません。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)とパウロも断言しています。罪を一つもおかさないことによって、あるいは、立派な行いをたくさんすることによって、神の前に義とされる者は「一人もいない」のです。
パウロは、人間に関するこのような悲観的な結論の後に、義のもう一つの可能性を語り始めます。それが「信仰義認」であり、それこそがローマ書と聖書の最大のテーマです。キリストが十字架で私たちに代わって罪の罰を受けてくださったゆえに、私たちの罪がすべてゆるされるのです。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためでした」(3:25)。
ただ罰が免除されるだけではなく、神を愛し人を愛するというキリストの正しい行いによって獲得された義が、あたかも私たちの義であるかのようにみなされるのです。この世は「そんなに自分のことを悪く考えるもんじゃない」といってあなたを慰めてくれるかもしれません。それは聖書の方法ではありません。聖書は徹頭徹尾、自分のありのままの姿を見つめなさいと言います。「心の貧しい者」であることを知りなさいと言います。そのような自分の状態を「悲しむ人」になることを求めます。そしてそのような人こそが幸いであると言うのです。そこが幸いの出発点であるからです。「天の国はその人たちのもの」であり、「その人たちは慰められる」のです。「義に飢え渇く」ことは「心貧しいこと」「悲しんでいること」の当然で必然的な結果であるのです。
 
 義とは②
 さて義にはもう一つの重要な意味があります。教理的には「聖化」と言われます。パウロは「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)と言っています。福音が力であるのは、罪が力であるからです。
 罪が力であり実体であるため、罪があると何か悪い結果を歴史の中に残していきます。罪は何かモヤモヤとした単なる概念や迷いのように考えてはなりません。罪は力ですからちゃんと仕事をするのです。小さな池に石を投げ入れると波が起こり、波紋はやがて池全体に広がるでしょう。石は概念や煩悩ではなく本当に存在する実態であるからです。包丁で手を切ると血が流れます。そして口から出るナイフのようなするどい言葉は人の心に深い傷をつけます。この傷は目には見えませんが本当に存在しているのです。そして夫婦関係や親子関係を破壊します。そのように罪は歴史の中で傷を残していきます。罪はもっと大仕事をすることもあります。たとえば国と国が戦争をはじめ、互いに殺し合いをして都市を破壊し世界を悲しみのどん底に落とすのです。
 罪は力です。力が加わると何かが動き変化します。力は有益な仕事もしますが、罪の力は破壊する方向に働きます。うらみや復讐心のエネルギーの大きさに驚くことは少なくありません。もしその大きなエネルギーを発電のために使うことができれば、ノーベル賞ものだなと思うこともあります。罪の力は新聞やニュースで報道されるような事件だけに関係があるのではありません。今日の私やあなたの思考や行動を動かす力でもあるのです。
「義に飢え渇く」という表現は、継続を含んでいます。私たちの肉体は毎日のようにこれを繰り返しています。飢え渇きを感じ食事をして満たされます。しかしばらくするとまた飢え渇きを感じまた食事をして満たされます。罪と罪の支配から解放されたいという心の願い、それが「義に飢え渇く」ことであるのです。
 
二重の意味
このように「義に飢え渇く」ことは二重の意味を含んでいます。第一はすでに述べた「義認」であり法的な意味です。神の子が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださった。それゆえこのお方を私の罪のための救い主と信じる者の罪を、神はすべてゆるしてくださるのです。私たちは「無罪」つまり「義」と宣言されるのです。これが「義認」です。「義認」はキリストを信じた瞬間に成立します。「義認」は法的な概念であり、神の法廷で無罪と宣言されることです。少しずつ無罪にされるという判決はありません。裁判官の判決と同時に瞬間的に無罪となるのです。
「心の貧しい人」は自分の内には無罪の判決の理由は全くないと信じている人です。しかしこれが神の言葉であるため、そのまま受け入れて感謝するのです。しかし「心の貧しい人」はそれですべてが終わり、満足して残りの人生を自由に楽しむのではありません。無罪とされ、義と宣告され、神の子とされ、そのような神の恵みに今の自分はふさわしくないと感じているからです。与えられた神の子という身分にふさわしくなりたいという願いが、今度は「義に飢え渇く人」の心を動かすようになるのです。
前述のように、「飢え渇き」「満たされる」という関係を、私たちは自分の体の中で毎日のように経験しています。一回限りではなく、くり返し起こっている出来事です。義認は一回限りです。ですから、この人が求める義は、日々キリストに似る者とされるという聖化のことでもあるはずです。クリスチャンは一度限り十字架によって義とされればそれで満足なのではありません。日々清くされることを求め続けるのです。そしてそのような経験は、さらに強く清くなることを求めるようにさせるのです。
本当においしい料理を食べたとき、またあれを食べたいと思うでしょう。中学一年生のときに音楽の時間に聞いたベートーベンの「運命」に、私の若い魂が揺り動かされました。自分の教室が音楽室の隣だったらと思ったものです。もっとベートーベンの音楽を聞きたいと思いました。ある人は文学に、ある人は絵画に同じような思いを持たれることでしょう。偉大な科学者も新しい真理を一つ発見するごとに、まだ発見していないより多くの真理があることを同時に発見し、未知の真理に向かっていこうとするでしょう。   
あきてしまって、つまらなくなって、流行が去ってしまって、別のもの追い求めることはあるでしょう。しかしそうではなく、すばらしいがゆえに飢え渇き、さらに求めることもあるのです。そしてその中でも最高のものが、義に対する飢え渇きです。満足できないためではなく、満足するがゆえに、また求めるのです。からっぽになって満たされる、またからっぽになって満たされる、というくり返し。そして恵みを受ける器のサイズもだんだんと大きくなり、さらに豊かに満たされていくでしょう。欲望のカップが大きくなるにつれ、満たされない部分もより大きくなって、不満が増大するのが普通です。満たされようとして、かえって空しくなるのです。まず幸いを求めるべきではありません。まず天の国を求めるのでもありません。まず慰めを求めるべきでもありません。そして、満たされようと求めるのでもありません。まず義に飢え渇く者だけが満たされるのです。
 
テスト
では最後に、私やあなたが「義に飢え渇いている人々」であるのかどうか、どうしたら分かるのかを考えましょう。すでにのべたように、「義に飢え渇いている人々」は罪と罪の力からの解放を願っています。そのときにまた悪魔のいつもの落とし穴にはまらないように注意しなければなりません。
罪を特定の事柄に限定してしまうことです。そしてそこから解放されることで満足してしまうという落とし穴です。たとえば、酒、たばこ、ギャンブル、麻薬などです。しかしクリスチャンでなくとも、たばこを止めたいと思っている人はいくらでもいます。おそらく女性の多くは、そのような習慣すら持っていないと思います。
酒やたばこが自動的に罪であるという教えは聖書のものではありません。イエス様は結婚式の披露宴で水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。酒やたばこはできれば止める方がよいと思いますが、それを罪と考えるのはあるタイプの教会の文化にすぎません。ただし酔っぱらうことは罪であると聖書は教えています。この議論はこのぐらいにしておきましょう。
いま注意をしなければならないのは、その逆のことです。つまりあることをするのがクリスチャンとして良いことであるという考え方です。その典型的な例は前回の説教でも触れたファリサイ派の人々や律法学者たちです。彼らは自分たちの得意の律法を選んでそれを標準以上に厳格に守っていると自慢し、そうしていない人々を見下していたのです。
「義に飢え渇く人々」はそのような外側に現れた行為ではなく、心の内側を見つめて、神の律法の標準の高さの前に恐れおののいているのです。ただ恐れているのではなく、できれば少しでも神の律法のきよさに近づきたいと願っています。そしてそのような「飢え渇き」は満たされるまで続きます。満たされたらそれで終わりではなく、さらにきよめられることを願いさらに強く義に飢え渇くのです。
罪を、自分が悪いと感じていることに限定していないでしょうか。正しいことを自分が考える正しい行為に限定していないでしょうか。「義に飢え渇く人々」は、そこにある欺瞞を見抜いています。そしてそのような心の奥底にある罪からも解放されたいと強く願っているのです。いや実は、自分が好んで行っていることや正しいと思っていることの内にこそ、最大の危険があることに気づいています。「間違っている」「止めなければならない」と思っていることはそれほど危険ではありません。すでに気が付いているからです。自分が好んでやっていること、習慣的にやっていること、正しいと確信していることをもう一度検証してみる勇気が求められます。それ自体は悪くないこと、むしろ良いことも除外してはなりません。
ファリサイ派の人々や律法学者はいかにも悪いことをしていたのではありません。神殿に献金をささげ、律法が命じるより730倍の断食をしていただけです。問題は彼らがそれを自慢し、できていない人々を見下していたことです。そしてそのことに気が付いていませんでした。それが彼らの問題であり、主イエスが彼らを徹底的に非難された理由です。罪の巧妙さを見抜かなければなりません。