「憐み深い人々」幸いな人③
  

  
マタイ福音書5:6~8
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 
 
 偽善者
世界第3位の経済大国の日本人の幸福感指数は、経済的には181国中の152位のブータンの国民よりもはるかに低い、という統計がブータン国王夫妻の来日のときに話題になったことがあります。
引き続き「山上の説教」から八つの幸福について考えます。繰り返しになりますが、八つの幸福は思いつくままに並んでいるのではありません。そこには論理的な順序があり、その順序がまちがっているため多くの人は幸福を切に求めながらも幸福になれないのです。
最初の三つは、私たちの必要を求めています。私ちの心が絶望的に貧しいことを自覚することが幸福への始発駅です。そこを間違えると本当の幸福な人になることはできません。JR池袋駅で大阪行きの新幹線をいつまで待っていても来ないのと同じです。始発駅を間違えているのです。
「義に飢え渇く人々」は、貧しい心の自覚から始まりました。そして貧しい心が満たされることを願い、そのような心だけが満たされます。後半は、心が満たされた結果です。それは他の人への態度になって現れてきます。まず「憐み深い人」になります。もちろんこの順序を通らなくても私たちが「憐み深い」と感じる人はいくらでもいます。しかしそのような人は、ここで言う「憐み深い人々」と同じではありません。
 たとえば悪い例で言えばいつも登場する、ファリサイ派の人々や律法学者たちです。そして彼らこそキリストが最も強く非難された人々であったのは不思議です。キリストが非難したのは、強盗殺人の犯人でも売春婦でもなく、礼儀正しい紳士であり真面目な優等生であったのはなぜでしょうか。
彼らは貧しい人々にほどこしを行い、断食など修行に励み、献金を神殿に忠実にささげ、聖書を熱心に研究していました。しかし彼らの「敬虔」や「憐み」は表面だけであり、心の底から出たものではなく皮膚の上に付着していただけです。つまり「心の貧しいこと」から出発していない、近回りの「憐み」であったのです。
 彼らの最終目的は自分を誇ることであり、他の人からの評判を得ることであり、キリストはそのような生き方をする者を「偽善者」と呼ばれました。「偽善者」はギリシャ語では「役者」という意味です。役者は別の人物を演じるのが仕事です。ロメオ、ジュリエット、名探偵、マフィアのボスなど、様々な役を舞台の上やスクリーンの中で演じることができます。そのように「偽善者」は「善人」を演じるのです。
 「偽善者」と「役者」は異なる面があります。「役者」は自分がロメオやジュリエットではないことを知っていますが、「偽善者」は自分が善人を演じていることに気が付かないということです。「偽善」がその人の人格の一部になり、その人の心を支配しているからです。「ぶよは濾しているがラクダは飲み込んでいる」とキリストは彼らの生き方を指摘しました。「意識的」に注意深くぶよを濾しながら、ラクダは「無意識」に飲み込んでいる。つまり「些細な罪は注意深く避けているが、大きな罪は平気で犯している」と言われたのです。大きな罪であるラクダはこの場合は「偽善」です。
 ファリサイ派の人々の「偽善」がなぜ 殺人や強盗や売春よりも非難されるのか。それは神の名を使って自分の栄光を高めようとする罪であるからです。強盗は他の人の地上の財産を盗む行為ですが、「偽善」は神の栄光という天の宝を盗む行為であるのです。恐らくこの罪を犯すリスクの最も高い職業は、現代も2000年前と同じ、現代の名称は「牧師」や「宣教師」です。
 神は私たちが何をするか何をしないかではなく、その前に私たちが何であるのかを見ておられます。行為は心から出てくる心の表現であるからです。山上の説教の構造もそのことを語っています。
山上の説教はクリスチャンの行為や生活を教えているのですが、個々の行為を語る前に行為が出てくる心の性質が扱われているのです。人格は行為よりも重要であると言い換えても同じです。
 確かに他の人の行為だけを見て、その人のすべてが分かるわけではありません。しかしまったく分からないのではなく、やはりここでも行為は心の現れであるという原則を当てはめることができます。「偽善」は見る人が見れば分かるからです。たとえばファリサイ派の人々の場合は、人前で長い祈りをしたり、苦しい修行に励んでいるように見える演出をするのです。人のすべての行動はやはりどんなに演出しても、その人の本質がどこかからにじみ出していると言わなければなりません。
 
憐み深い人々
前半の四つの幸いは主に神との関係であり、後半の四つは主に人と人の関係の中での幸いです。
神との関係が正しくされるとき、人との関係が整えられるのであり、ここでも順序が重要な意味があります。
神の前に心貧しく、そのような自分の状態を悲しみ、それゆえ神と人とに柔和で従順になり、神の義に飢え渇く者だけが他の人に対して憐れみ深い人であるのです。神は人を憐れみます。神は与える必要のない罪人に恵みをお与えになるのです。憐れみはそのように、上から下という方向をもっています。
行為がその人の人格を現わしているのは事実ですが、一つ二つの行為でその人の全人格が分かるわけではありません。それが最もよく分るときがあります。人の上に立ち下の人をまったく自由に扱えるような立場に立ったときです。神という最高の権威の前に立つことを知らない人は、自分が少しでも他の人より高い位置にいるときに本性が現れます。
 軍隊で上官が下の兵士に対して。会社の上司が部下に対して。部活の先輩が後輩に対して。金を貸している人が金を借りている人に。犯罪者に対して、取り調べる刑事が。勝利した兵士が敗北した敵の捕虜に対して、主人が奴隷に対して、等など。何でも言える、何でもできる立場にいるとき、その人の本性がもっともはっきりと現われるものです。
そのときに本性が現れるのです。礼儀正しくおだやかな性質をもっていると言われた日本人は、かつて残虐な行為を占領地のアジアの各地でおこなったのです。上の立場に立ったことがなくても、せめてお客さんになったときには威張る人もあります。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とパウロはローマの教会の信徒に書いています。ローマは今のアメリカや日本のように格差社会であり、豊かな人と貧しい人、身分の高い人と低い人、そして喜ぶ人と泣く人が混在していた大都会であったのでしょう。
「喜ぶ人と共に喜ぶこと」と「泣く人と共に泣く」のはどちらが難しいでしょうか。「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことがはるかに難しいと思います。喜んでいる人は私よりも良い状態であり、自分よりも幸福な人と共に喜ぶのは非常に難しいからです。しかし「憐み深い人々」は「心の貧しい者」であり自分が下になることをすでに受け入れているため、ねたみをすでに克服しているのです。
 
 
 
 
 
犠牲を払う
神の子であるクリスチャンが分け与えられるのは、神の憐みに似ています。かわいそうな映画やテレビのドラマを見て涙を流すだけでは、まだその人が憐れみ深い人であるかどうかは分かりません。映画のスクリーンに対しては何の犠牲も払う必要がないのですから。
神は罪人を見放してもむしろ当然であったのですが、そのような私たちに独り子イエス・キリストを与えてくださいました。見放されるだけでなく、罪の罰を与えられなければならない者のために、独り子を十字架で犠牲にしこのお方を身代わりとして罰してくださったのです。これが神の憐みです。
しかし、現実に目の前にいる具体的な人間に憐れみを示すのは事情が少しちがっています。その人との過去の事情があるかもしれません。上下関係があるかもしれません。その人に憐れみをかけなくてもむしろ当然と思われるような人間関係の中で、本当に憐れみ深い人であるのかどうかがテストされるのです。巨大な借金を免じてもらったのに、自分にわずかの借金をかえせなかった者を牢屋に投げ込んだ人は、このテストに失敗しました(マタイ18・21~35)。私たちは決して、この人を非難することはできません。いま「わずかの借金」と言いましたが、それは自分自身が王から許された金額(数兆円?)に比べると「わずか」なのであって、損をしたのは労働者の給料(100デナリ)の約100日分に相当する額です。100日分すなわち給料の3か月分を損させられたと考えるなら寛大になれるでしょうか。私たちの憐れみの対象者は、それよりはるかに少ない被害で何としばしば私たちから憐れみを拒否されているのではないでしょうか。
ニュースになるような事件をどのように聞くでしょうか。育児放棄や虐待で自分の子供を死なせた、ガソリンをまいて36人が死亡した、などの犯人に対してどのように感じるでしょうか。週刊誌やワイドショーは好んでそのような事件を取り上げ、徹底的にやっつけるでしょう。なぜ多くの人はそのような記事や番組を好んで読んだり見たりするのでしょうか。純粋な正義感というより悪い奴を懲らしめることに快感を覚えるのではないでしょうか。
しかし「憐み深い人は」そうではありません。自分はそのような犯人に比べても誇るべきものはないと思っているからです。自分は両親に愛されて育てられたが、虐待をするような親であればどうなっているか分からない、と考えるかもしれません。
 
その人たちは憐れみを受ける
前述のように、八つの幸福は7節より、神との関係から人との関係へと重心が移っていきます。八つの幸福の後半にさしかかった今、7節の後半の言葉が決定的に重要な意味をもってきます。一つひとつの行動は、その人がどういう人であるかで決まるのであって、その人の行動は決してその人の本質を裏切ることはありません。偽善者も善行をします。しかしそれは、人に見られるための施しであり、憐れみ深い心から出た行為ではない、と主イエスは指摘しておられます(マタイ6・1)。偽善者は、神に対する敬虔な思いから祈るのではなく、人に聞かせるために祈るのです。
 別の言い方をするなら、聖書は良い行動のおすすめの書ではないということです。聖書は、こういう悪いことはやめましょう、こういう良いことをしましょうと教えているのではありません。それは道徳です。道徳は教えていること自体は正しいのですが、それを行う力がどこからくるのかを知りません。道徳はそれゆえ、「分かっちゃいるけどやめられない」といういつもの結論に終わってしまいます。心を変えないで行動だけを変えようとしているからです。神から憐れみを受けた者だけが、他の人を憐れむことができるのです。それが「その人たちは憐れみを受ける」の意味です。
 主の祈りの「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」も同じメッセージです。注意しなければならないのは、前半は後半の根拠ではないということです。私たちが人をゆるしたから、私たちの罪がゆるされるのではありません。
もしそうであるなら、神にゆるされるような人は世界中に一人もありません。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)からです。この箇所だけであれば、私たちが人をゆるすことが神から私たちの罪がゆるされる条件であるとも読めるでしょう。むしろその方が自然な読み方であるかもしれません。しかし聖書の他の箇所と互いに矛盾するような解釈はできません。いつでも聖書全体の光で聖書の部分を読まなければならないのであって、その逆であってはなりません。私たちが人を心からゆるせるならば、それは神のゆるしをいただいているからです。キリストが私たちの罪を背負って、身代わりとなって十字架で罪の罰を受けて死なれた。この犠牲と愛を知っているために、他の人の罪をゆるすことができるのです。悪を行う人にどのように対応するかによって、その人が神にゆるされているかどうかが分かると言い換えても同じです。
 
新宿や池袋の巨大な書店には新刊やベストセラーのフロアーがあり、そこで片っ端から様々な本を手に取り、最初の数ページと最後の数ページを2~3時間ぐらいめくっていると、今の社会がおぼろげに浮かび上がってきます。コロナの影響でここ数か月はでかけていませんが、コロナ騒ぎでそれがどう変化したのか少し気になり始めています。数か月前によく目にしたのは、絵や写真ではなく問と答え表紙に印刷された本です。しかしどうしたらそのようにできるのかは書かれていません。「いじめやパワハラを気にしない」などと言われても、気になるので悩んでいるのです。そのような本の著者は「できる人間」から出発しているように思います。目的地に最初から到着しています。どうしたら、他の人の意地悪にめげてしまう人が、意地悪を気にしない強い人になれるのかという説明がありません。おそらく著者は「気にしない」強い心を持った人なのでしょう。
聖書はできない人間から出発します。やられたらやりかえしたいという心が前提になっています。他の人から立派に見られたいと思う心から始めています。ダメ人間から始めています。「正しい人はいない一人もいない。」「心の貧しい人々は幸いである。」
もちろんそこに本当の出発点がある、と表紙に書かれた本は一冊もありませんでした。人々は自動販売機のように、上から硬貨を入れると下からすぐにジュースがでてくることを期待しています。しかし聖書の答えは「心の貧しい人々」から始まります。入口は魅力的ではありません。そして次に進むにも時間がかかります。ウサギではなくカメのようにのろのろと進まなければなりません。そして、いまやっと「憐み深い人々」までやってきました。続いて考えていきましょう。