「心の清い人々」幸いな人④
  

  
マタイ福音書5:6~8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 
 
「心の清い」という言葉は、「内側が清い」「源が清い」という意味です。「心の清い」状態は、そうではない清さ、つまり外側の清さと対比されるときその意味がより具体的に見えてきます。主イエスはそのことを、なぜ何度も何度も様々な言い方で弟子たちに話しているのでしょうか。多くの人がそこで間違ってしまうからです。何度聞いても忘れるからです。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(マタイ23:25)。「内側から外側へ」が正しい順序です。
 しかし私たちは自分に関しても他の人に関しても、外側がまず気になります。他の人から自分がどう見えるかが重要であるのです。ネットにはシミやしわを取るクリームの広告があふれています。もし花嫁さんのウェディングドレスにケチャップが飛んで、赤いしみができたらどう思うでしょうか。「小さいしみなので気にしない」と言うでしょうか。おそらく花嫁さんは結婚式がダメになったと思うほど大きなショックを受けるのではないでしょうか。私たちはそのように外側については非常に気になるのが普通です。しかし心のしみはそれほど気になりません。
 
 心の
 聖書はいつも心を問題にします。人間にとって最も重要なのは頭ではなく心です。世の中では頭の方が重んじられ、たとえば偏差値や学歴は人々が最も大切だと思うものの一つです。心とは何か、心はどこにあるのか、心は何をするのか、はっきり分からないことばかりです。人間は心と肉体からできています。哲学的な議論や医学的な議論は私にはできませんが、心は肉体以外のすべてであるとでも言うほかはありません。もちろん肉体と心は密接に関係がありますが、心臓や脳に心があるわけではありません。とくに脳の働きと深く関係がありますが、それと心はイコールではありません。恐れ、喜び、不安などの感情も含まれます。心は「魂」や「霊」と言い換えられることもあります。人間の中心、人格の中心、存在の中心、どんな言葉をもっても完全に心を説明することはできませんが、様々な言葉によって心に少しでも近づくことは意味があります。
 要するに聖書は人間の中心と全体にかかわることを記した本であるのです。良いことも悪いことも、心から出てきます。その人が育った環境や教育にも関係がありますが、それがすべてではありません。良い環境に育った人がみな良い人になるわけではありません。悪い環境に育った人がみな悪い人になるわけでもありません。源は心の問題であり、最初に人の心に罪が入ったのは新宿の夜の街ではなく、汚れたものが何もない楽園であるエデンの園であったのです。そこでは美しいものに囲まれ、神の愛があふれていました。そしてそこで人の心に悪が入り人は罪を犯したのです。悪の始まりは心です。
 罪が人類に入って最初に起こった最も悪いことは何でしょう。それは自分の心が見えなくなったことです。自分の本当の姿が見たくなくなったからです。女性の多くが気持ちの悪い虫を見たときに目を覆うのに似ています。他の人の顔は見ることができますが、自分の顔を見ることはできません。見るためには鏡が必要であることはだれでも知っていますが、最初から知っているわけではありません。先日、下の息子から孫の動画がスマホで送られてきました。2歳の孫が鏡に向かって舌を出したり引っ込めたりを繰り返しています。早く出したりゆっくり出したり変化させながら何かを調べているように見えます。舌出しはやめて次は、口の開け閉めです。鏡の中にいるのは他の人か自分なのか考え始めたときかもしれません。
 自分の心を見ることにも共通した部分があると思います。自分のことは自分がいちばんよく知っている。そう言えることと、そうではないことがあります。とくに心の霊的な状態に関しては自分では分からないのが人間です。他の人の方が良く知っている場合の方が多いのが普通です。自分の心の本当の状態を見るためには、やはり鏡が必要であるのです。
 遊園地には横綱でもスマートに見える鏡があるように、鏡がゆがんでいたり曇っていたのでは自分の本当の姿を見ることができません。デジカメには美肌設定もついています。人の心の状態を正確に知ることのできる唯一の鏡は神の律法である聖書です。他の人の前に立つときは自分の方が優れていると感じることがあるでしょう。しかし神と神の清い律法の前に胸を張って立つことのできる人はないとパウロは断言しています。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。
 
清い
  「清い」ということばは、物理的な清さ、儀式的な清さ、道徳的な清さなどを表わすときに用いられますが、新約聖書のギリシャ語は基本的には「混ざりものがない」という意味です。純金とは他の金属が混ざっていない状態であるように。「心が清い」とは、その人の人格の中に不純物がなく一種類のものしか入っていない状態です。律法学者やファリサイ派の人々の心を支配していたのは何であったのでしょうか。彼らの外側の行動は、神を愛し人を愛するという神の律法に一致しているかのように見えていました。しかし、彼らの心を支配していたのは、人からの評判であったのです。心と行動が一致していない、人格の中で分裂がある、不純物が混ざっている、それが彼らの人格の問題であり、主イエスは前述のようにしばしば彼らを非難しています。「心が清い」とは消極的には「偽善がない」という意味です。「心が清い」とは積極的には「キリストに似る者になる」ことです。
 
 清くなるために
 では心が清くなるために私たちはどうすればよいのでしょうか。修道院に入って礼拝と祈りに専念すればよいのでしょうか。そうではありません。汚れは修道院の高い壁を簡単に乗り越え、十字架が描かれた美しいステンドグラスも通過して中に入り込みます。そもそも汚れは人の心が始まりであるからです。
 まず私たちの生まれつきの心の暗黒を知ることです。もし瞑想や修行や徹夜の祈りなど自分の努力で自分を清くしようとするなら、生涯の終わりには心が今と同じ黒さであることを発見するでしょう。もっと黒くなっているかもしれません。
 「神よ、わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)とダビデ王は祈っています。これはバトシェバと不倫をし、その夫を戦争の最前線に送って殺害した深刻な罪を犯したときの祈りです。ダビデは心の暗黒から出発しています。ダビデは罪を犯して「責任を痛感します」と口で言うだけの政治家ではありませんでした。「背きの罪」「悪事をした」「あなたの裁きは正しい」「罪の中に生まれた」と心から神に祈っています。しかしダビデは、部屋の隅に座り下を向いて残る生涯を過ごしたのではありません。詩編の中頃まで来ると、「わたしを洗ってください。雪よりも白くなりますように」と祈り始めているのです。パウロも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:24)と自分の心の貧しさを嘆いています。しかしパウロの言葉は「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」と続いています。これは失望でも疑いもありません。次の8章では救いの確信を展開し、8章の終わりの部分では「これらすべてにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(8:37)と断言しているからです。ダビデやパウロは二つの点を同時に見ているのだと思います。私の目は何でも二つに見える斜視で、信号は赤青黄がそれぞれ二つずつ合計六つのライトが見えます。そのままでは危なくて運転できませんが、斜視の眼鏡をかけると一つにまとまります。私の目は本来一つのものを二重に見ているだけですが、ダビデやパウロは神の恵みのない自分と神の恵みにある自分の両方を、信仰の目によって同時に見ているのです。
 ダビデにとって「清い心」は「新しい創造」、つまり古い自分の修正や外からの付け足しではなく、内側からまったく新しく創造された心です。もとの自分の心は汚れていても、神は私の心を雪のように白くしてくださいます。外側だけ白いペンキを塗るのではなく、内側から白くされるのです。
 
神を見る
 「その人たちは神を見る。」心を清くすれば神を見るのか、神を見たら心が清くなるのか。鶏と卵のような関係です。論理的には後者が正しいのですが、ここには逆説があります。ここだけではなく、聖書には多くの逆説があります。私たちの心が清いのかどうか、クリスチャンであればだれもが気になるところでしょう。でもそれはどのように判定すればよいのでしょうか。血液検査やレントゲンによって、健康状態いやむしろ不健康な体の状態が明らかにされます。しかし心の健康診断は、それほどやさしいとは言えません。
私たちの心がどこを見ているのか、私たちの心が何に感心を持っているのか、それが決定的に重要です。律法学者やファリサイ派の人たちは、神ではなく人の評判を気にかけていました。そのために人の前で施しをし、大通りで祈りをしていました。表面的な行動は、なるほど神の律法が命じている行為でしょう。しかし、彼らは自分たちが人からほめられることだけを第一に考えていました。人の目と人の顔を見ていたのです。立派な行為を悪い動機でおこなうことができるという実例です。そして私たちの行動もそのようであり得るのです。
 さて、私たちの心が清くされているかどうかの判定の話にもどりましょう。先週のあの行為は大丈夫だ、この行為は大丈夫だ、純粋な心でしたと思うから。と言われるでしょうか。心をさぐることは結構ですが、そのような結論を出されるなら大変心配です。心の清い人は、自分の心に清くない動機が宿っていることをいつも知っているからです。ダビデは「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編51:5)と告白しました。パウロも「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と言っています。旧約と新約のもっともすぐれた聖徒たちは、自分の心は清くないと認めていたのです。ここに逆説があります。清いと思っている者は清くなく、清くないと思っている者が清いのです。
 「緊張関係」あるいは「葛藤」という言葉で説明することもできます。律法学者やファリサイ派の人たちの心には緊張関係がありません。葛藤もありません。彼らの心の中には、人からの評判という一つのものしかありません。しかしダビデやパウロや、ここで「幸いである」と言われている人たちの心の中には緊張関係と葛藤があるのです。心が人の顔ではなく、神の顔を見ているからです。「貧しい心」と「天国」、「悲しみ」と「慰め」、「義に飢え渇くこと」と「満たし」の間にも対立と緊張関係があるでしょう。そして「神を見ること」と「心の清さ」についても同じです。神殿に上った二人を思い出してください。ファリサイ派の人は祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18:11)。徴税人の祈りと比べてみてください。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(同13)。
前者の心の中には対立がありません。人からほめられるという一つのことだけを考えていたからです。しかし、行動と心が対立し人格の中が分裂していました。そして、そのことに全く気が付いていません。徴税人の心は、思いと行動が一致していないことを悲しみ、その罪を神に告白しているのです。あなたのどこに対立があるのか、それが心の健康診断のポイントです。あなたの願いがどこにあるのか、と言い換えても同じです。心の中で二つの思いが対立していることを知っている者は、思いが一つにされることを願っているのです。この願いこそが対立と緊張関係を生み出している原因であるのです。そしてこの願いはやがて完全にかなえられ、やがて天の御国では、「神を見る」というただ一つの思いだけが支配しているということに気が付くでしょう。