「神がいるのにどうしてこんなことが」
  

  
マタイ福音書5:9
平和を実現する人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
 
ヤコブの手紙4:1~2
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。
 
 
 神がおられるのなら、なぜ戦争や災害など悲惨な出来事がおこるのでしょうか。この度の新型コロナウィルスの世界的な感染も同様です。全ては神の支配の下に起こると考えるクリスチャンは、このような現実をどのように考えればいいのでしょうか。
 このような問いに対しては、まず、「分かりました、なるほど」と納得できるような完全な答えは無いと言わなければなりません。人類の歴史の中でも、最も難しい問いであると思います。ある善良なクリスチャンは、そのようなことはみな悪魔がやっているのだ、と単純に考えるかもしれません。ある意味でそれは正しいでしょう。しかし神を罪から切り離そうとする、良い動機をそこに見ることができるのは事実ですが、悪と神の支配との関係を説明することはできません。たとえ神から悪の責任を取り除くことができたとしても、神はこのような出来事を防ぐことができなかった、無能な方であることを一方で認めなければならならなくなるからです。しかし神が手に負えないので戦争やテロが起きたり、ウィルスの感染が広がってしまうと考えることは神の全知全能という教理とは調和しません。
 前述のように、悪と神の支配に関する安易な説明はありません。しかし教会が何の説明もできないのでは情けないことです。間接的な答えをできるだけ多く積み重ねることによって、少しでも解決に近づく努力をしなければなりません。今回はただ一つの石を積み上げるにすぎないのかも知れません。「ああそうか」という直接的な答えを求めて説教を聞かれるなら、おそらく私の説教に失望なさると思います。困難な問題に取り組むためには、真面目で小さな答えをできるだけ多く積み重ねていく他はないのです。今日の説教は、真面目にこのような問いを自分自身に対して問う人にとってだけ有益であることを最初に申し上げなければなりません。私がこれまで語ってきたことと重複していることも御了承ください。真理は単独で存在するので重なり合っているのです。
 
 聖書の教え
 クリスチャンはまず聖書から出発しなければなりません。まず認めなければならないのは、聖書は戦争のない世界など約束していないということです。「自分に悪をなす者をゆるし」、「敵をも愛しなさい」との命令はあっても、「戦争のない世界を実現しなさい」とか、「世界平和を目指してがんばりなさい」といった命令は聖書のどこにもありません。聖書はむしろ戦争に備えなさいと言っているのです。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、あわてないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マタイ福音書24:6)。ここで「あわてる」とは、戦争が起こったために神はいないのではないかと、不安になったり不信仰になってしまうことです。何でもかんでも、私たちの希望するように行う神でないからといって、「こんなことが起こるのなら、、、」と言うべきではありません。神はすべての悲劇や不正を阻止すべきであるとか、戦争やテロやこの度のようなウィルスの世界的な感染拡大を阻止すべきであったと言うべきではありません。聖書の神は始めからそのようには約束していないのですから。
 
 争いの根本的な理由
 今回は75回目の終戦記念日を前にして、とくに戦争について考えます。戦争や争いの理由は様々です。それを調べることは重要な作業ですが、聖書は争いの根本的な理由だけを扱っています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」(ヤコブの手紙4:1~2)。戦争が起こる最初の出発点は、外交問題や経済問題や民族問題ではなく、人の心の中からであるというのが聖書の答えです。外側ではなく、人の内側に根本的な問題があるのです。
 聖書は戦争やテロを特殊で例外的な悪としては考えていないと言い換えても同じです。またそのことに驚きを感じないでしょうか。規模において戦争は間違いなく特別です。しかし、本質は罪であり罪の一つの表現にすぎないのです。国同士の争いである戦争にまで発展することは特別のことであり、ほとんどの場合はその手前でとどまっている状態です。そしてテロは、その境目ぐらいにある大変危険な状態であるかも知れません。その表現はあまりにも残酷で、その結果はあまりにも悲惨であることは言うまでもありませんが、根本にある原因は決して特殊なものではないというのです。戦争とはその原因が極限の表現をとったものにすぎません。
 目に見えないウィルスは、多くの場合は何も影響を及ぼすことはないでしょう。しかしある場合は風邪で寝込んだり、時には世界中の多くの人々の命を奪うような原因になることを私たちはいま経験しています。あなたがだれかと仲良くできないとしたら、その理由は戦争やテロの原因と本質的には同じである。同じ罪は小さな結果も大きな結果も引き起こすことができるのです。
 ただ戦争やテロに反対するだけでは十分でありません。私たちの心の中にある戦争とテロに反対することから始めなければならないのです。家庭の中で一番近くにいる人を憎んでいるなら、あなたには戦争やテロに反対する資格はありません。でも言われるかもしれませんね。「あの人は特別です」「私の場合は特別です」と。そして残虐と呼ばれるテロリストたちもそう思っているのです。残虐な行為で知られるISの起源は、大量破壊兵器を理由にアメリカによって始められたイラク戦争ですべてを失ったフセインの兵士であり、彼らにもそれなりの理由があるのです。
 
 罪の結果は多くの人に及ぶ
 聖書は「人は自分が蒔いたものを刈り取る」と教えています。聖書の教えであるのか、一般的なことわざであったのか分からないほど広く知られた言葉です。罪を犯した者は大なり小なり、その結果を刈り取らなければなりません。しかし私たちが納得しにくいのは、どうして罪のない人が苦しまなければならないかという問いです。ヒットラーの野心やテロリストの残虐な行為の結果を、どうして政治とは無関係な一般市民が蒙らなければならないのでしょう。おそらくこの問いこそが、怒りといらだちを人々の心に生み出す原因になっているのではないでしょうか。
 くり返しますが、この問いに対する完璧な答えはありません。ただし間接的な二つの答えは、私たちの心の中に積み重ねなければならないと思います。第一は、誰一人罪のない者はないという事実です。厳密に言うなら、「罪のない者がどうして」という問いには、「直接」とか「比較的」といった言葉が補足されなければなりません。「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ2:10)からです。「すべての人は罪を犯した」(同3:23)のです。すべての人は自分の罪の結果を刈り取らなければならないのです。
この答えはしかし、「ヒットラーやテロリストの罪の結果をどうして一般市民や子供たちまで刈り取るのか」という問いには十分に答えていません。テロや戦争の被害者とくに子供たちは、責任を取らなければならない人々ではありませんから。自分自身が直接かかわった罪ではなくとも、私たちは罪の結果を共有することを知っています。個人的な罪の結果だけでなく、全人類の罪の影響を大なり小なり刈り取るのです。私たちは個人であると同時に、社会の一員であり、国家の一員であり、また人類の一員でもあるからです。太陽や月や雨、そしてその恵みや災いを共有するように、社会、国家、人類の他のメンバーの行為のプラスとマイナスの影響を受けるでしょう。網の一点を引っ張ると網全体がゆがむように、一人の行動は全体に影響を与えるのです。家族の一員の悪い行為によって、家族全員が苦しまなければならないように。受ける災いは自分の行為と直接関係がある場合もあれば、直接にも間接にも関係がない場合があるでしょう。そして直接関係の無い災いの最悪のものが、戦争であるのです。
 
 神の愛と正義
 現代的なキリスト教の特徴は、神の愛の強調です。もちろん神の愛はどんなに強調しても強調しすぎるということはありません。神の愛を強調することに関連して問題があるとすれば、神の他の性質(属性)を犠牲にして神の愛だけを強調することです。神には他の性質がないかのように愛だけを取り出すことです。たとえば、神の「正義」(義)や「きよさ」という性質です。神は正義のお方であり、完全にきよいお方であるゆえに、どんなに小さな罪も見逃すことができません。神は正義のゆえに罪を罰せられるのです。そうでなければ、愛の神は同時に不正な神、軟弱な神、優柔不断な神と言わなければならないでしょう。
 そもそも神が愛であると同時に正義の神であることこそが、独り子イエス・キリストを十字架にかけられた理由です。キリストが私たちの受けるべき罰を、あの十字架で余すところなく受けてくださいました。神の怒りと呪いの杯を最後の一滴まで飲み干してくださいました。もし神が神が罪を「まあいいだろう」と言って見逃すいいかげんなお方であるなら、キリストはあれほどまでに苦しむ必要はなかったのです。
 
 もっと驚くべきこと
 私たちが第一に驚くべきことは、どうしてテロや戦争が起きるのかということではありません。それは確かに驚くべきことであり、悲しむべきことであることは言うまでもありません。被害者に同情をし、犯罪者に怒りを感じるのは当然です。クリスチャンは被害者に同情を感じ、共に悲しむことにおいてだれよりも敏感でなければならないと思います。罪のゆえにそんなことは当然起こるのだ、という無感覚で冷たい態度をお勧めしているのではありません。
クリスチャンが第一に驚くべきことは、もっと他にあるのです。それは正義の神が、ただちに人類を滅ぼすことがなく、罪の世界をなおも忍耐して、人が悔い改めるのを待っておられるということです。神の愛と忍耐に驚くことを忘れて、ただテレビや新聞のニュースを驚くべきではありません。そのような驚きには、自分もテロリストたちと同じ性質の罪を持っていることに気がつかない、無邪気で危険な怒りが混じっているのです。
あなたは復讐を一度も考えたことがありませんか。あなたは復讐を実行したかもしれません。自殺さえ復讐の手段になりえます。それは自爆テロになりうるのです。おそらくあなたは、これまで復讐を実行に移すことはなかったでしょう。でもその理由は何であったのでしょう。相手の罪をゆるしたからでしょうか。それならば良いのですが、そうでないかも知れません。
 
 テロ
 テロは英語の、テラー(恐れ)からきた言葉です。私たちは誰かから被害を与えられると、相手に被害を与えることをただちに考えるようになります。復讐です。そして他の人も自分と同じように考えると思っているのです。それゆえに人間関係にはいつも恐れがつきまといます。強い人は力によって弱い人を恐れさせて支配をし、弱い人は謝ってばかりいることによって被害を避けようとします。しかし弱い人は心からそうしているわけではありません。それゆえ機会をとらえて、弱い人が強い態度をとり強い者に対抗しようとするでしょう。家庭内暴力、ドメスティックバイオレンス、自殺、です。
 そしてテロも同じ図式です。弱い立場にある者が、強い立場にある国家権力に暴力をもって立ち向かおうとするのです。テロはいつでも弱い方から、強い方へという方向性をもっています。恐れが、強い者と弱い者の両方を支配しているのです。あんな卑怯な方法でしか行動できないテロリストを世界最強の国アメリカも恐れているのです。恐れが取り除かれなければ、テロは絶対になくなりません。
 恐れを取り除くのは、力や武力ではありません。恐れが別の恐れに取って代わらなければならないのです。それは神への恐れ(畏れ)です。神の裁きを恐れることがないとき、神は自分以外のだれかを裁くだろうと考え始めます。そして「悪いのはあいつ」だと互いに思っているのが今の世界であり今の社会です。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)。「完全な愛」を持っている者は誰一人ありません。キリストの愛だけが完全な愛です。このキリストの十字架の愛に触れた者は、自分に危害を与える者をも愛し始めるでしょう。恐れる人間関係を断ち切るのは、十字架の完全な愛だけです。神の愛を知ることによって、自分自身の心の内にある戦争やテロリストのウィルスを殺すことから始めるべきです。なぜこんなことが起こるのか「けしからん」、とただ批判をするだけの人は、自分の心の中にもヒットラーやテロリストがいることを知らないのです。言葉によってではなく、態度や行動によって怒りや不平を表すことは小さな戦争であり小さなテロです。態度によって相手を恐れさせ、相手の気持ちを小さな暴力によって変えさせようとしているからです。夫婦の中で、家庭の中で、職場で、学校で、教会で、そのような態度がないか注意深く自分を調べることは有益です。
悪によって悪に報いることのない人、人間の心の法則ではなく神の法則に従う人。そのような人が一人でも増えることこそが本当の平和への第一歩です。