宗教
Q.
宗教は弱い人のするものだと言われますが。
A.確かにそうです。しかしいつでもどんなことにも強い人など、地球上には一人もいないのではないでしょうか。あることには強い人、ある時には強い人はいるでしょう。一方からの強風には強い塀も、反対側からの弱い風で簡単に倒れてしまうかも知れないのです。強いと思っている人はあるでしょう。しかしいつでもどんなことにも強い人はありません。
Q.性善説と性悪説はどちらが正しいのでしょうか。キリスト教はどちらですか。
A.生まれつき人は善で、悪を学習して悪くなっていくと考える「性善説」では説明できないことは多くでてきます。2歳や3歳の子供はどこでうそをつくことや、砂場でお友達のスコップを奪い取ることを学習したのでしょうか。親が教えるはずはありません。やはり悪は初めから備わっているとしか考えられません。その意味でキリスト教は性悪説の一種です。しかし人の心は生まれた時は真っ黒なのではありません。テレビを見る小さな子供も、悪が滅ぼされ正義が勝利することを期待しているのです。人の心は真っ黒でも真っ白でもなく、灰色で生まれてくる、と考えるのがキリスト教です。つまりどんなことにも白と黒が混ざっている状態です。どんなすばらしい善行をしても、褒められたいという虚栄が入り込む可能性があり、どんな悪をなしても良心の痛みから100パーセント自由になれる悪人はいません。性善説と性悪説のどちらかだけで、人の心を説明することはできません。
Q.宗教は深入りしてはならないとよく聞きますが。
A.どんなことでも、深入りする価値があるのか無いのかを見極めてから、どうするかを判断しているはずです。つまらないことに大きな犠牲を払うのはばかげていますが、どんなことにも深い関心を持たない生き方は同じようにつまらない人生ではないでしょうか。世の中には深める価値のあるものと、そうする価値のないものがあります。それを見極める目を養うことが大切です。宗教も同じように考えればよいのではないでしょうか。
Q.洗礼を受けてクリスチャンになると、「あれはいけない」「これはいけない」と言われて自由を束縛されるのではないかと心配になります。
A.確かに聖書には、様々な禁止の命令があります。禁止されるのは結果的に私たちを不幸にするから、より高いもののためにより低いものを放棄する、などの理由があります。中学校の世界史の教科書にも登場する、宗教改革運動の創始者マルチン・ルターは、「最高の自由とは、他の人の自由のために、自分の自由を放棄することである」と言っています。どんなものでも自分のものでなければ他の人に与えることはできません。本当に自由を所有している者だけが、その自由を他の人の自由のために放棄することができるのです。
Q.クリスチャンになると、色々な世の楽しみを捨てなければならないのですか。
A.確かにクリスチャンになれば捨てるものはたくさんあります。でもクリスチャンは捨てたくないけど捨てるのではありません。それが結果的には自分を不幸にするから、価値が無くなったから、より高い価値を知ったから、など積極的な理由があるためそうするのです。ディズニー・ランドのサンダー・マウンテンも毎日乗れば飽きてしまいます。人間にとって最高に楽しいこと、それは神からいただく力によって、古い自分を乗り越え毎朝新しい自分を発見する驚きであり、それ以上にスリリングな経験はありません。
Q.キリスト教を信じると悩みや苦しみがなくなるのですか。
A.必ずしもそうではありません。人生には悩み苦しみが付き物です。歴史に残るような偉人たちで平々凡々に育った者は一人もありません。明るい太陽を受ければ影も濃くなります。何もない幸福を約束するような宗教は、最初から敗北が決まっているようなものです。キリスト教は悩み苦しみがあってもそれを乗り越える知恵と力を提供する宗教であるのです。
Q.キリスト教はご利益宗教(ごりやく)ではないのですか。
A.「イエス」とも「ノー」とも言うことができます。病気が治ることや商売繁盛が、宗教の最終的な目的ではないという意味では「ノー」ですが、キリスト教もある意味ではご利益宗教ともいえると思います。罪がゆるされ良心の呵責から解放されること、天国が約束されること、神の家族とみなされること、罪の力から解放され心が少しずつきよくされること、等々。それを利益と判断するかどうかは判断が分かれますが。
Q.宗教は科学の発達していなかった昔の人たちやお年寄りのもので、現代人には必要がないのではないでしょうか。
A.科学の発達は良いことであることは言うまでもありません。しかし、科学で子供のわがまま、離婚、暴力、自殺、うそ、ねたみ、復讐、わいろ、等などの悪が解決できるでしょうか。科学は物質の世界を扱いますが、宗教は人間の心を扱います。科学の発達を正しく用いる心が整えられなければ、核戦争やネットによる誹謗など、かえって恐ろしい世界になっていきます。
Q.キリスト教やイスラム教などの一神教は排他的で、「どんな道から登っても同じ頂上に着く」と考える日本の宗教の方が心が広いのではないでしょうか。
A.食べ物や音楽は好みで分かれるのが当然ですが、真理は基本的には排他的なものです。もし「1+1は2でも3でもいい」という先生がいるなら、そんな小学校に自分の子供を行かせたいと思うでしょうか。神は存在するかしないか、どちらかであり、どちらも正しいということはありません。
Q.神も宗教も人間がつくったのではありませんか。
A.確かに人間は無数の宗教をつくってきました。しかし宗教心そのものは人間がつくることはできません。なぜ、いつの時代にも、どんな世界にも、宗教があるのか。人間の心には宗教心がすでにあるからではないでしょうか。人間の心は神によってつくられたため、神を求める心が備わっているのです。そのように見えない人の心も例外ではありません。
Q.キリスト教は人を「罪人」と考えているようですが、私は完璧ではなくとも、そのように呼ばれるのは不愉快です。
A.「罪」をどのように定義するかが最も重要です。「犯罪人」という意味であれば、「罪人」は確かに不愉快な呼び名であるかもしれません。聖書は罪を様々な意味で用いています。たとえば積極的な罪と消極的な罪があります。前者は「してはいけないことをすること」、後者は「するべきことをしないこと」です。世界には助けを求めている人々が無数にいるのですが、私たちは助けの手を差し伸べているでしょうか。テレビのニュースを見て「かわいそうに」と同情しても、何もしていないかもしれません。積極的な罪を自分流に限定しているかもしれません。制限速度を1キロでもオーバーしたことがない、黄信号で交差点に突入したことがない人があるでしょうか。心の中の罪を除外していないでしょうか。人を憎む、嫉妬する、復讐心。いつでも自分を中心に考えていないでしょうか、等々、キリがありません。