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9.自分の利益を求めない人
 
 次の愛の定義は、「自分の利益を求めず」です。今回も否定形で表現されています。礼は注意していないとある関係の中で失われる傾向があるのですが、注意をしていないと私たちは自分の利益を第一に求めているのです。
 もちろん自分の利益を求めること自体が否定されているのではありません。「自分の利益をいっさい求めてはならない」のではありません。愛の定義という文脈の中でこの言葉を理解しなければなりません。つまり愛の対象を無視して自分の利益を求めてはならないのです。他の人の利益、公の利益、全体の利益などを犠牲にして、自分の利益を優先させるべきではありません。振り込め詐欺は、お年よりをだましてもうけようとするのですが、家族に対する善意を悪用しようとしている点で二重に罪深い悪質な犯罪です。 
 自分の利益と他の人の利益が対立するときにはどうするのでしょうか。思いきって自分の利益を犠牲にする決断をするのでしょうか。やはり愛の定義という文脈の中で理解しなければなりません。どうしようか、どちらにしようか、という自分の利益と他人の利益との戦いではありません。他の人への愛が、自分の利益を忘れさせるのです。我が子を救うため、燃える家の中に飛び込んでいくお父さんがあります。自分の利益と子供の利益のどちらにしようかと迷ったあげくに決断したのではないと思います。子供に対する愛のために自分に及ぶ危険を忘れさせてしまったのです。
 このようなことは一生に一度あるかないかの特殊な出来事であり、おそらくほとんどの人にはそんな決断の機会は一度も来ないことでしょう。ですから、そのような特殊なことで犠牲的な愛を発揮しよう考えるべきではありません。それは「殉教主義」という名の偽善であり、他の人の利益ではなく「殉教者」という自分の名誉と利益を求めることです。「殉教主義」はここで命じられている愛とは、全く反対の方向に向かう悪であるのです。自分の利益を求めて、他の人の利益のために自分が犠牲になる、という実に複雑な構造をした分かりにくい罪です。上級者向けの巧妙で深刻な罪です。
 
 テスト
 せっかく良いことをしながら罪を犯しているなら、それ以上残念なことはありません。そうならないため、私たちは常に小テストをしておく必要があります。テストとは自分が犠牲的に行なっていることや苦労を、他の人に告げるかどうかです。絶対に告げてはならないとは思いませんが、特別に必要がないのにわざわざ他の人に告げるかどうかが小テストです。
 小テストだけでなく、中間テストや期末テストもやっておく必要があるでしょう。こちらはもう少し上級のテストであり、試験問題はマタイ福音書の6章3節に書かれている、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」です。他の人にほめられる誘惑を卒業した者は、右の手が左の手に自分の善行を告げる、すなわち自分で自分をほめる誘惑に勝利することが求められるのです。これは自己義という名の罪であり、新約聖書に登場するファリサイ派の人々や律法学者に代表される罪です。つまりキリストの最大の敵にさせるのは殺人や姦淫ではなく、自己義の罪であるのです。
 最良のテストは言うまでもなく、キリストご自身の生涯と自分の生き方を比べることです。パウロはフィリピの信徒への手紙2章で、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者を考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と言った後で、キリストの生き方をこのように要約しています。「キリストは神の身分でありながら、神に等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」