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11.恨みをいだかない人
 
 「抱く」(いだく)は、元々は会計用語で「忘れないように帳面に記入しておく」という意味です。南太平洋のある島の原住民の屋根からは、色々なものがぶら下げられているそうです。それを見て、恨みを新たにするためです。
 「愛は忘れることだ」という、ある有名な映画のせりふがありました。映画の中での意味は知りませんが、「恨みを抱かない」という聖書の言葉は、他の人のなした悪を、思い出すためにわざわざ心のメモ帳に記録しておかないという意味です。
 クリスチャンがそのように出来るのは、神が同じようにして下さったことを知っているからです。ダビデは同じことをこのように表現しています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いです。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(詩編51)
 神は私たちのすべてをご存知です。過去の罪も、現在の罪も、将来犯すであろう罪も。私たちのすべての罪は、すでに十字架で罰せられたのです。クリスチャンになっても罪を犯すでしょう。それに対して神は、私たちの罪を忘れたのでも、気が付かないのでも、見て見ぬふりをしておられるのでもありません。クリスチャンの犯す罪も、やはり懲らしめの対象です。ちょうど罪を犯す子供を父親がしかるように。しかしそれは裁きの根拠ではなく、神の愛の表現にすぎません。
 このような和解の福音を聞いて信じる者、またそれによって生きる者の心には、同じことが起こるはずです。人の罪を忘れることと我慢することには大きな違いがあります。我慢には限界があります。限界を超えると爆発するときがあります。これまでためていた恨みを総合計して復讐するときがあるのです。いや利子もちゃんとつけてお返しをするでしょう。
 我慢をしたり努力をすることによっては、心から恨みを追い出すことはできません。ほうきで闇を吐き出すことはできないでしょう。光で照らされるとき、闇は自動的に出て行くのです。愛が支配する心には恨みは住むことはできません。光りと闇が一緒に存在することができないように、神の愛が支配する心には恨みは住むことができないのです。