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人は何が違うのか
 
それでは何が違っているのでしょうか。途中が違うだけなのでしょうか。もし外側の違いが人間のすべてであるなら、繰り返しますが、神様はとんでもない不公平なお方であると言わなければなりません。不公平が人間の責任である場合もありますが、そうでない場合もあります。確かに人間は公平ではありません。そしてあの聖人ヨブも、「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」(2:1)と不平を言っているのです。もう少し後では、「なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを」(10:18)と、不満の調子がさらに高まっています。
少し前にヨブの口から出た、「主の御名はほめたたえられよ」という賛美の言葉はいったい何であったのでしょうか。ヨブは決して無感覚で鈍感な人間ではありませんでした。だから次々と襲う災難にも鈍感で神を賛美したのではありません。ヨブはむしろ、詩人のように繊細で敏感な人であったことは、ヨブをたずねてきた友人たちとの会話からも明らかです。
ヨブは人間の肉体に関しては、「みな裸で母の胎を出、また裸で土に帰る」すなわち公平である。しかしその他の周辺的なものに関しては、「主は与え、主は奪う」と告白したのです。人によって与えられるものは異なっています。奪われるものも異なっています。人はそこに心を奪われます。しかし全体として見れば人はみな同じです。木曜日の朝刊に、「家賃500万円の代官山のマンション」という見出しがありました。占有面積は約300平方メートルでガラス張りのガレージの高級車も室内から見えるそうです。少しうらやましく思います、一か月ぐらい住んでみたてもいいな思います。しかし墓場に行って大きな立派な墓を見ても、それほどうらやましいと思ったことはありません。「人にはどれだけの土地がいるか」という民話がありますが、著者のトルストイはどんな人でも最終的には一畳少々もあれば十分であると言いたかったのです。
肉体の最初と終わりは同じで、どちらも裸です。地位、名誉、学歴、銀行預金の額、マンションの占有面積、など後からついて来るものもは最後にはすべてが去っていきます。人は裸で死んでいかなければなりません。最初は何もなしで始め、最後も何もなしで終わり、やはり最初と終わりは同じです。もしそれだけで生きるなら、ヨブと共に「わたしの生まれた日は消え失せよ」と叫ぶことになります。もし過ぎ去るものを求めて地上を生きるなら、それは負けいくさを戦ってるようなもので、遅かれ早かれすべてを失うのです。死が完全な勝利宣言をするときがあるのです。