HOMEDATA『雪の味』書簡にみる俳人地方別一覧≫越後他

      尾崎康工  高橋梨一  河合見風  高桑蘭更    

  尾崎康工: 1701-1779 江戸時代中期の俳人。 <おざき こうこう>
 元禄14年生まれ。中川乙由(おつゆう)にまなび、のち芭蕉の影響をうけ諸国を歴遊した。明和2年俳人100名の画像と代表一句をあげた「俳諧百一集」を刊行した。安永8年3月6日死去。79歳。越中(富山県)出身。通称沢屋伊兵衛。別号に八椿舎、六壁庵。著作はほかに「金花伝」「芭蕉後拾遺」など。

高橋梨一: 1714-1783 江戸時代中期の俳人。 <たかはし りいち>
 聖徳4年生まれ。代官所役人をつとめる。佐久間柳居に俳諧を学び、「奥細道菅菰(すがごも)抄」を著す。のち越前(福井県)丸岡藩に招かれた。天明3年4月18日死去。70歳。武蔵児玉郡(埼玉県)出身。本姓は関。名は高啓、干啓。字(あざな)は子明。別号に蓑笠(さ龍)庵。著作に「もとの清水」など。


河合見風 1711-1783 江戸時代中期の俳人 <かわい けんぷう>
 聖徳元年(1711)に津幡宿の商家に生れ、名前は河合屋理右衛門(かわいや・りうえもん)。34歳で家業の旅籠と米屋を営み、井村組合頭を勤めた。傍らに俳諧を学び、人々から「俳諧の長者」と称えられた。諸国の俳人と広く文通し、金沢並木町に庵室を構え、加賀八家前田土佐守直躬(まえだとさのかみなおみ)と親交を持った。
 また倶利伽羅山の猿ヶ馬場にある芭蕉句碑「寝覚塚」や越中氷見の「有磯塚」を建立。明和2年(1765)には為広の子孫、冷泉為村と前田土佐守直躬とともに「為広塚」を再建。天明3年(1783)没。

小寺後川: ?-1800 江戸中期-後期の俳人 <こでら こうせん>
 金沢の人。希因の子。のち父の暮柳舎を継いで、その二世。また父および蝶夢に学んで金沢で活躍。編著『心まかせ』『梅の草紙』。

高桑蘭更: 1726-1798 江戸中期の俳人 <たかくわ らんこう>
 別号は二夜庵、半化房(坊)、芭蕉堂など。金沢の商家に生まれ、俳諧を加賀蕉門の重鎮であった希因に学ぶ。30代のなかばごろから俳諧活動が活発になり蕉風復古を志して芭蕉の資料を世に紹介するとともに独自の蕉風論を唱える。江戸を経て京都に移り天明3(1783)年洛東に芭蕉堂を営んで毎年3月に芭蕉会を催し『花供養』を刊行した。温厚な性格が慕われて、多くの門人を擁して京都俳壇の中心人物となり、晩年には二条家から花の本宗匠の称号を与えられている。 <参考文献>大河寥々「高桑蘭更」(明治書院『俳句講座』3巻)

珂雪庵二逐坊: ?-1814 江戸中期-後期の俳人 <かせつあん-にちくぼう>
 福井市荒木家生まれ。15歳のとき金津町十日の薬屋正山家を継ぐ。美濃派五世以哉坊に俳諧を学ぶ。金津姫川吟社第三代。天明2年(1782)年8月29日、以哉坊の三回忌に以哉老師の笠塔を建立。文化11年(1814)正月26日没。74歳。

丿へ庵玉斧: ?-? 江戸時代中期の俳人 <へつほつあん-ぎょくふ>
 麻父の嗣子玉父。後に玉斧と称し、丿へ庵二世を継ぐ。安永4年(1775)、麻父の一周忌に玉父によって『丿へ(へつほつ)集』が編集された。寛政5年(1793)、芭蕉百回忌に富山市愛宕神社に「はせを翁墓」を建立。

白鳥: 詳細な資料なし
 『加賀の千代』というホームページに〈晩年は養子白鳥の世話になり、安永四年(1775)9月8日世を去りました〉という一文がありましたので、或いはこの白鳥かも知れません。

仙風: 詳細な資料なし
出雲崎の俳人。本名、内藤多兵衛。「雲鈴・暁台・乙二等巻子本一巻 ―糸魚川市歴史民俗資料館蔵俳諧資料考(4) ―」より引用させて頂くと、〈前略…この二人が(浮涯)が某年三月状況する途中、美濃の盧元坊を訪ねる約束をしていたが、それを果さず上京、京都滞在中の七月中旬頃に訪問が実現したのである、と知ることができる。四か月以上に及ぶ京都滞在からみて、ふたりは商人であったように思われる。上京年は未詳だが、盧元坊の「老のひがみ」という言葉から寛保元年(1741)以降のことであったろうか。…後略〉とある。