HOMEDATA『雪の味』書簡にみる俳人地方別一覧≫伊賀他

      大島蓼太  

 
横井也有:
 1702-1783 江戸時代中期の俳人 <よこい やゆう>
 元禄(げんろく)15年9月4日生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。藩用人などをつとめる。俳諧を美濃派の太田巴静(はじょう)にまなぶ。俳文『鶉衣(うすらごろも)』は有名。狂歌、和歌、書画、平家琵琶、謡曲、武道などにもすぐれた。53歳で引退。知雨亭に石原文樵(ぶんしょう)とともにくらした。天明3年6月16日死去。82歳。名は時般(ときつら)。通称孫右衛門。別号に半掃庵、蘿隠など。連句集に『蘿葉集』、漢詩文に『羅因編』、狂歌に『行々子』。

五束斎木朶: 1727-1810 江戸時代中期-後期の俳人 <ごそくさい-もくだ>
 享保12年、吉田宿魚町に生まれる。吉田の宿屋現金屋長兵衛。名古屋の五条坊木児に師事。後、五升庵蝶夢に従う。天明8年5月1日、蝶夢は江戸からの帰途で木朶・古帆に会う。寛政5年(1793)、『松葉塚』(木朶編)刊。古帆序。寛政11年(1799)10月12日、芭蕉の句碑を建立。五束斎木朶筆。文化7年(1810)4月、84歳没。

上矢敲氷: 1732-1801 江戸時代中期-後期の俳人 <うわや こうひょう>
 享保(きょうほう)17年生まれ。江戸で小宮山門瑟の門人となり、平蕪庵鳥我と称した。郷里甲斐(山梨県)にかえり明和7年敲氷とあらため、平橋庵をむすぶ。諸国を行脚し、多くの日記、紀行文を残した。享和元年8月17日死去。70歳。本姓は野沢。編著に『はつ硯(すずり)』『とをかはす』など。

山村月巣: 1730-1785 江戸時代中期の俳人 <やまむら げっそう>
 享保(きょうほう)15年生まれ。江戸で雪門3代の大島蓼太にまなぶ。宝暦14年駿河(静岡県)の時雨窓初代となり、東海地方の雪門を指導した。飯島吐月とともに蓼太門の両輪といわれた。天明5年1月5日死去。56歳。出羽寒河江(山形県)出身。名は春安。別号に雪屋人、未来坊、盤古。

岩崎梧泉: 1747-1817 江戸時代中期-後期の俳人 <いわさき ごせん>
 延享4年生まれ。駿河(静岡県)駿府の富商。大島蓼太にまなぶ。駿河、遠江(とうとうみ)で蓼太一門の拠点となった草庵時雨窓(しぐれそう)の開庵と維持に尽力した。天明3年師との共編『百羽(ももは)がき』を出版。文化14年10月17日死去。71歳。通称は清兵衛。屋号は大鯛屋。別号に月太郎、竹室。句集に『梧泉句集』。

小宮山門瑟: ?-1790 <こみやま もんしつ>
 佐久間柳居の門人。初号敲氷。柳居の別号を譲られ抱山宇門瑟と号した。延享5年佐久間柳居没(63歳)。安永9年(1780)4月10日蝶夢は門瑟を尋ねる。天明2年(1782)『百花集』(柳几編)門瑟序。寛政元年(1789)『柳居発句集』(門瑟編)刊。同年横田柳几追善集『春眠集』門瑟序。寛政2年(1790)2月11日没。70余歳。上矢敲氷は門人。

多少庵秋瓜: ?-1790 江戸中期の俳人 <たしょうあん しゅうか>
 江戸の人。鈴木氏。はじめ連渓庵止弦と号した。佐久間柳居(りゅうきょ)の門人。寛政2(1790)年2月11日死去。別号に吐華、松籟庵。安永から寛政にかけて江戸で活躍。多少庵は江戸六庵の一つともされた。句集に『多少庵句集』、編著に『もゝとせ集』など。
 安永9年4月12日、蝶夢は秋瓜を訪ねている。<大我和尚の愛蓮庵を尋ね、上野の東叡山を拝みめぐり、此山下にかくれすみける秋瓜が庵とひて、昌平橋をわたり、宿に帰る。>『東遊紀行』

松露庵烏明: 1726-1801 江戸中期-後期の俳人 <しょうろあん-うめい>
 享保(きょうほう)11年生まれ。江戸の人。白井鳥酔(ちょうすい)にまなび、鳥酔とともに各地を吟行した。2代松露庵の昨非窓(さくひそう)左明の没後、宝暦10年師のすすめで3代をついだ。享和元年6月19日死去。76歳。別号に木耳(もくじ)庵、東海坊など。編著に『松露庵随筆』『俳諧故人五百題』など。

秋色女: 1669-1725 江戸中期の女流俳人 <しゅうしきじょ>
 寛文9年江戸生まれ。本名は小川秋。俳号として菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)、大目秋色(おおめしゅうしき)とも呼ばれる。生家は現在東京都港区にある秋色庵大坂屋家という和菓子店。
 夫とともに宝井其角に師事して俳句を学ぶ。其角が没した際には遺稿集を刊行した。
 講談「秋色女」の劇中に親孝行の娘(主人公)として登場する。13歳の時に書いて上野寛永寺清水堂のわきにある桜に結わえておいた俳句「井戸端の 桜あぶなし 酒の酔」が当時の親王の目にとまり、謁見を許されたことから親孝行の物語がはじまる。

大島蓼太:
 1718-1787 江戸時代中期の俳人 <おおしま りょうた>
 信濃国(長野県)伊那郡大島の人。名は陽喬。通称は平助または平八。別号は里席、雪中庵、老鶯巣、空摩居士など。若くして家を出て御用裁縫師。23歳のとき桜井吏登(りと)(服部嵐雪門、雪中庵2世)に入門。その後剃髪し、奥羽、上方などを行脚、延享4年(1747)、30歳にして雪中庵を継承、3世となる。寛延4年(1751)、葛飾派の溝口素丸らと『続五色墨』の盟約を結び、江戸座(其角系)宗匠連の『江戸廿歌仙』(174)を批判した『雪おろし』(写本で伝えられる)の講述をなす。宝暦年間(1751~64)から選集活動は活発化、着々と俳壇に地歩を占めた。生涯に行脚すること三十余度、編集にかかわった俳書二百余、免許した判者四十余、門人三百余と伝える一大勢力を誇示するに至った。清濁あわせ呑む円満な性格で、貴顕の愛顧を得るなど経営の才にも優れていた。江戸座や他の中興諸家とは対照的に平明な炭俵調を尊重、特に連句に手腕をみせた。発句集に『蓼太句集』(1~3編)があり、「五月雨やある夜ひそかに松の月」など巧緻な作意、趣向による句が多い。芭蕉の顕彰・注釈事業にも功があった。明治28年(1895)、正岡子規が「俳諧一口話」(『獺祭書屋俳話』)で「俗気紛々たる句多し」と評して以来、そうした蓼太評が一般化したが、中興俳壇に果たした役割は与謝蕪村以上に大きい。<参考文献>中村俊定「大島蓼太」(明治書院『俳句講座』3巻)


横田柳几: 1716-1788 江戸時代中期の俳人 <よこた りゅうき>
 享保元年鴻巣宿石橋町〈現・鴻巣市本町6丁目)の酒造家に生まれ、これを生業とする。本名横田盛英(八代目)。通称三九郎。若い時より俳諧を学び、伊勢国の麦林舎中川乙由の門下となり、布袋庵の号を授けられる。のちにその高弟佐久間柳居に師事して、布袋庵柳几と号する。旅を好み、『つくば紀行』などの紀行文を残している。ほかに『百花集』、『大和耕作集』などの著書がある。宝暦3年(1763)、芭蕉70年忌の追善興行で20数名が集まり、1日千句を詠んだ。明和4年(1767)の振袖火事により彼の住む布袋庵も類焼し、多くが灰塵に帰してしまう。天明7年に前に詠んだ千句を集めて勝願寺に芭蕉忌千句塚を建立した。翌年、73歳で没する。辞世の句は、「老いらくの 寝こころもよく 春の雨」。墓所は勝願寺。養子の横田柳也(布袋庵二世)も俳人。

岡本聴雨: 1749-1814 江戸時代中期の俳人 <おかもと ちょうう>
 諱、景淵。通称、五郎左衛門。用人・加判奉行・加判家老などを歴任した津藩の重役であった。俳諧を茨木素因に学び「俳諧奇異の上手」と評された。その交友は津のみならず、広く松阪・相可・伊賀・大和・京などの文人たちに及び、津市山郊の聴雨山荘「佯聾山荘」には各地から文人墨客が集い漢詩・和歌・俳諧の文学サロンをなした。

渡辺寄潮: 生没年不詳 江戸中期の俳人 <わたなべ きちょう>
 通称、万右衛門。藩士にて俳人。

松籟庵霜後: 生没年不詳 江戸中期の俳人 <しょうらいあん そうご>
 松籟庵大無の門人。寛政元年(1789)、『柳居発句集』抱山宇門瑟刊。松籟庵霜後跋。
 寛政5年(1793)10月12日、芭蕉百回忌に寿松庵水香は芭蕉の句碑を建立。松籟庵霜後筆、75歳のときである。