横山白虹氏の作品の多重的感性について考えてみた

芝 不器男 横山 白虹 杉田 久女
永き日のにはとり柵を越えにけり
人入つて門のこりたる暮春かな
ふるさとや石垣歯朶に春の月
風鈴の空は荒星ばかりかな
栗山の空谷ふかきところかな
川蟹のしろきむくろや秋磧
銀杏にちり/\
(ぢり)の空暮れにけり
まのあたり天降り
(あまもり)し蝶や桜草
白藤や揺りやみしかばうすみどり
山の蚊の縞あきらかや嗽
鴨うてばとみに匂ひぬ水辺草
 二十五日仙台につく、みちはるかなる
 伊予の我が家を
あなたなる夜雨の葛のあなたかな
さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな
桐の実の鳴りいでにけり冬構
一片のパセリ掃かるゝ暖爐かな
泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ
飼屋の灯母屋の闇と更けゆきぬ
ストーブや黒奴給仕の銭ボタン
大旱の空をひそかに煤ふりぬ
日蝕のすぎてもポンプ滴れり
瀧あびし貌人間の眼をひらく
磔像に四囲の黄落とどまらず
栗青し一本足に立つ木々よ
桜草のせてタイルの罅こまかし
雪を来て夜のコップにセロリの森
石蕗の花こころの崖に日々ひらく
頼信紙ざらざらとせり蛾をつつむ
夕桜折らんと白きのど見する
炎天翔ぶ翼に無数の鋲かがやき
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ
タイプライター覆へば室は死んでいる
街上の雪はしきりに図書の舗
よろけやみあの世の螢手にともす
傷兵にヒマラヤ杉の天さむ/\
(ざむ)
あたたかや水輪ひまなき廂うら
丹の欄にさえずる鳥も惜春譜
椅子涼し衣
(そ)通る月に身じろがず
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
東風吹くや耳あらはるゝうなゐ髪
蝶追うて春山深く迷ひけり
すぐろなる遠賀の萱路をただひとり
葉鶏頭のいただき躍る驟雨かな
朝顔や濁り初めたる市の空
茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ
青芒傘にかきわけ行けどゆけど
夜光蟲古鏡の如く漂へる
谺して山ほととぎすほしいまゝ
実桑もぐ乙女の朱唇恋知らず
爪ぐれに指そめ交はし恋稚く
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
新茶汲むや終りの雫汲みわけて
栴檀の花散る那覇に入学す
防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む

 横山氏に疎まれた杉田久女と愛されたと思しき芝不器男の作品を『現代の秀句』(三谷昭著 1969年大和書房刊)から抜粋してみた。本著を参考にいたしたのは三谷氏編または選に詩の本質へ迫ろうとという気迫が感じられたからである。
 上記の白虹氏の俳句と後にあげるそれとは趣を異にしていて面白い。季語を追いながら三谷氏の心にひびいた佳句を収集編集された。そういう句集であると思う。その句集の上記三俳人の句を並べてみると白虹氏らしからぬ句ほど不器男または久女に香りが似ているような気がした。以下の一般的に白虹氏の代表句と云われる作品と比べて頂きたい。独断と偏見に満ちた横柄さに違和の意思表示をしなかった場合、自ら感性の提供をする意志として式を執られることもある。芝不器男、享年26歳。杉田久女、享年57歳。


 白虹氏所謂代表作の一部  
「孔雀売ります」と春のこの首里に
かなめ萌え夢の反芻またはじまる
きらめきて月の海へとながるゝ缶
たそがれの街に拾ひし蝶の翅
とがりたる肩診てあれば冬日影
まだ冬の桜並木に靴ひからす
よろけやみあの世の螢手にともす
よろけやみ水からくりに現あらず
らんまんとえいてるの花咲ける部屋
わさび田が押し入つて来て暗い眼窩
アディオス!この暁闇の花時計
アドルムを三鬼にわかつ寒夜かな
カイト揚ぐ言葉で人を殺しては
ショール載す動く歩道の荷の上に
トルソーの肌なめらかに雨久花
ニコよ!青い木賊をまだ採るのか
メロンの香に溺れ病閑睡りしか
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ
傷兵にヒマラヤ杉の天さむざむ
凍鶴と逢ふはひとりの饗宴にて
原子炉が軛となりし青岬
原爆の地に直立のアマリリス
句を溜めて口重くなる猫じやらし
和布刈る神の五百段ぬれてくらし
国原は蒼々として後鬼泣けり
地蔵会の蝋涙おちて水に浮く
夕暮の莨はあましかけす鳴く
夕桜折らんと白きのど見する
夕立の早足慶良間海峡へ
幻の女とゆく夜の花八ツ手
彼岸会の氷菓正体なくなりぬ
扇風機籠のレモンに風送る
手術野に臍があるなりひつそりと
新雪のきしむはひとのたなごころ
日のあたる壁のむかふの蟻地獄
春あさし人のえにしの絶ちがたく
春の夜のスタヂオに吹く擬音の笛
春夜の街見んと玻璃拭く蝶の形に
春蝉や掌にねつとりとオランダ塀
月が出て月がまんまる恋猫広場
月光をのせて来し蛾のうすみどり
月餅をとどけられゐし良夜かな
木枯の哭くに瞬間湯沸器
木犀の零落そこに犬の食器
杉山のくらきに福音書はあるか
東京やベッドの下に蜘蛛ひからび
枯芝にいのるがごとく球据ゆる
枯草の一すぢ指にまきてはとく
枯草の日に汝が臉はぢらひぬ
枯蓮はCocteauの指無数に折れ
 
 これら所謂代表作における「キレ」は概ね無味無臭で「移り」はほとんど感じられないが、三谷氏の『現代の秀句』に収められている作品には明らかな「匂ひ」がある。それが何かしら不器男や久女を思わせるのであるがどうだろうか。