・・・ 東福寺泰作とは誰か?・・・ |
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― 東福寺泰作は ― 江戸時代後期、文政5年(1822)信濃国、松代藩領、下氷鉋村に生まれ、明治34年(1901)に80歳で歿した。 東福寺家は代々、松代藩、下氷鉋(しもひがの)の地で名主を務めてきた。 泰作は若くして算術(和算)を習い、天保13年(1842)21歳の時、若穂清水寺に算額を奉納。 弘化2年(1845)24歳で松代藩の足軽となる。 規矩術(測量術)を習い、嘉永3年(1850)松代藩領の測量事業を命じられ、安政2年(1855)「松代封内測量図」を完成させる。 測量事業中の、嘉永4年(1851)に小頭となる。 嘉永7年(1854)アメリカ、ペリーの来航時に横浜警衛隊の一員として横浜へ出向く。 明治元年(1868)戊辰戦争に出兵するなど松代藩藩士として多くの活動がある。 廃藩置県後は、長野県職員になり、退職後は地域の発展に貢献した。 最大の業績は、「松代封内測量図」の完成である。 極めて正確な地図であるだけでなく、弘化4年(1847)の善光寺地震から数年後になされた測量であった。 そのため、各地に残された地震の爪痕が詳細に記録されており、現在もなお、大規模災害に関するデータとして役立てられている。 |
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― 東福寺という珍しい姓の由来― 東福寺家に伝わる史料によれば、 初代「新井丹後守」は村上義清配下の地侍(豪族)の一人でした。 天文22年(1553)に、義清が武田信玄との戦いに敗れ、越後の上杉謙信を頼って葛尾城を逃れたとき、行動を共にしないで東福寺の地(現在の長野市篠ノ井東福寺)に身を潜めました。 2代の輿左衛門は、身を潜めた地にちなんで「東福寺」と姓を改め、以後、この姓を名乗って来ました。 かなり珍しい苗字ですから、現在もなお目立つ存在ではあります。 私のように、ありふれていすぎる苗字は、張り合いがない気がしています。 外国では「海軍大将の孫か?」と聞かれたことが何回もありますが。 苗字由来net 「https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji」 によれば、 東福寺という姓のランキングは全国順位で15,318位、全国の人数はおよそ360人 長野県では1,482位、およそ150人 (長野県に多い) 一方、 山本は、全国7位、およそ106万人 長野県では27位、およそ1万1千人・・・面白くも何ともない こういうデータの信頼度のチェックをしたことはありませんが、だいたい合っているだろうというのが実感です。 気の遠くなるような調査をして下さったことと思います |