真宗大谷派(東本願寺) 通 順 寺

創建 天文4(1535)年

愛知県稲沢市祖父江町二俣534

 電話&FAX:0587-97-1736

 

 真宗大谷派(東本願寺) 通 順 寺

創建 天文4(1535)年

愛知県稲沢市祖父江町二俣534

 電話&FAX:0587-97-1736

 

 真宗大谷派(東本願寺) 通 順 寺

創建 天文4(1535)年

愛知県稲沢市祖父江町二俣534

 電話&FAX:0587-97-1736

本堂の現状と復原図

旧祖父江町指定文化財 寛永16年(1639年)建立。
当寺の本堂について、愛知工業大学岡野清先生の論文がフリーで読めます。
論文中、江戸初・中期の特徴を残す真宗本堂は、当寺と即願寺の2ヶ寺のみとなりました。(2018年4月1日現在)

内陣
図1
現状図
図2
復原図

本堂の現状と復原図

旧祖父江町指定文化財 寛永16年(1639年)建立。
当寺の本堂について、愛知工業大学岡野清先生の論文がフリーで読めます。
論文中、江戸初・中期の特徴を残す真宗本堂は、当寺と即願寺の2ヶ寺のみとなりました。(2018年4月1日現在)

内陣
図1
現状図
図2
復原図

本堂の現状と復原図

旧祖父江町指定文化財 寛永16年(1639年)建立。
当寺の本堂について、愛知工業大学岡野清先生の論文がフリーで読めます。
論文中、江戸初・中期の特徴を残す真宗本堂は、当寺と即願寺の2ヶ寺のみとなりました。(2018年4月1日現在)

内陣
図1
現状図
図2
復原図

通順寺本堂(寛永16(1639)年建立)について

愛知工業大学教授 岡野清

本堂は東に接する道路から山門を入って突き当たりにある。北側にある庫裏とを結ぶ廊下の中間に玄関をかまえる地方の一般真宗型である。

本堂は寄棟造茅葺(瓦型金属板覆)、棧瓦葺一間向拝付。両側面と背面に棧瓦葺の下屋を廻らす。外陣の間口は実長五間半で小型の規模である。堂の創建は寺蔵の寛政9年(1797)記の通順寺諸記録によれば、「・・・当寺草創之儀ハ天文四年2末年祐誓開基ニ御座候 ■再建立ハ寛永十六年(1639)ニ■再建立仕候・・・」とあり、安永四年2閏未三月(1775)の頃には「本堂五間半四面 但シ附下ゲ共・・・」とあって現本堂の創建時の状態に復原すれば、その規模に一致する。現本堂はこの中枢部分に四方へ増改築してこの土地の真宗本堂型に拡張している(図1)。

本堂の現状から見て、現状の構造様式を解説しながら、改造後補した部分を根拠を挙げて述べると、

1.前面の向拝は材も新しく、絵様も新型である。向拝下の枢体外側鴨居や束が、向拝が無い部分と同様に風蝕しているので、大正期頃の付加(手挟は未完)と伝える。屋根は茅葺きであったものに近年アルミ瓦覆い。

2.堂の正面の一間巾の広縁部分は現在堂内に取込まれていて、雨戸一本引きの内に障子引違いで戸締まっているが、もとは広縁外陣境に戸障子があって広縁は吹放ちであったことが、その通りに残る小壁跡を隠す薄板が打たれていることや、広縁の棹縁天井と小壁まわりの風蝕がかなり進んでいることからわかる。

3.堂内の外陣中央には内陣見付中通りに独立柱が建って、そこから内陣前柱と同筋の外陣見返し柱にかけて天井下に繋虹梁を架して固め、広縁境にあったもとの柱は切断して虹梁上に建つ束として天井上の野梁を支えている。独立柱間に実長二間半の大虹梁が入り(写5・6)、桁行方向に左右に延長して両側柱に達する虹梁が通って前後左右に固めた構造は、真宗本堂が仏堂化すると、天井下を荘厳することと兼ねて外陣の見せ場を造ることとなった。この改造は材も一段と新しく、大正の御遠忌頃に行われたものと伝える。しかし、内陣前隅柱から外陣独立柱に対して天井下方にかけた実長一間張りの虹梁は材も絵様も江戸時代中期頃の意匠であるから、この独立柱は何らかの形でその頃には存在していたと思われる。

4.内陣と両余間の正面は外陣内側を最も荘厳した所で、床高は内陣を余間より一段上げ、余間はその半分程上げて上段としている。建具は現在、内陣前余間前とも千本障子(巻障子)を吊っているが、内陣前の中柱二本はそれを吊るための後補であり、もとは内陣余間前とも千本障子の引違戸で仕切っていたことが現鴨居、敷居に板打ちして溝を塞いでいることからもわかる(図2)。内法上部は型の通り金箔置きの彫刻欄間で飾り、柱、束頂には頭貫はなく台輪を通して出組の斗組を配し、中備に蟇股を置いて内陣、余間とも棹縁天井下に支輪を通して飾っているが、欄間より上のこの一連の荘厳は寛永記の創建時のものではなく、蟇股や斗組挙鼻の絵様から見て江戸時代中期の雑作と思われる。

5.内陣の奥行きは深く改造されており、板張り床の二間半の奥に半間の脇仏壇が付く。脇仏壇内前柱(円柱金箔置)から前半間の位置に同じく円柱の来迎柱が立ち、来迎壁、柱とも金箔置。箱型の台上に唐様須弥檀を設え、檀上には宮殿に納められた本尊を安置する。この内陣後半部分は江戸時代中期頃に改造されたものと思われ、創建当時には南北の余間仏壇を結んだ筋通りに内陣の腰高仏壇が横一直線に通っていたいわゆる念仏道場型であったことが、その位置に残る傷跡(余間仏壇前框が取り付いている柱の内陣内まわり側に、もとの内陣の念仏道場型の仏壇が取り付いていた穴を埋め木したことが打診され、またその柱面の上部には現在その半間後方にある虹梁、小壁、出組の半斗、支輪等の一連の荘厳がそのまま半間前進して取付いていた切込跡)が残っていることによって証される。内陣の天井は現在小組入り格天井が途中拡張した現在の来迎柱の筋まで張られており、この部分は材も新しいので、後世の改造である。内陣からの出入口は脇仏壇と余間仏壇の間の半間巾の柱間から片引きの金襖戸で通ずる。向かって右の後座敷には床の間付けの四畳半座敷と外側隣である入側縁(三畳間)と合わせると七畳半として使用できる。左の後座敷は八畳間と広く採ってあるが、外側の入側縁は半間巾で通路の役目を果たすのが主であり、座敷には床の間もないので、右座敷のほうが格調ある座敷となる。後堂には背面に付けた物入れの間に後門を開く(図1)。

この堂は建てられたのが寛永16年(1639)と県下でも類例がないほど古く、同町内にそれ以後建てられた同規模の真宗大谷派本堂も、一部更年変化を受けながらも類似した形式であった。江戸時代中期頃には堂の後半部分に改造が見られ、後座敷を持つ本堂となったが、この形式がまたその時代の真宗本堂の標準型であったことが、近隣の堂宗同時代の実例を調査した結果明らかとなった。その意味で、復原時の形態、改造後の形態ともそれぞれの基本形を示す意義深い遺構である。

通順寺本堂(寛永16(1639)年建立)について

愛知工業大学教授 岡野清

本堂は東に接する道路から山門を入って突き当たりにある。北側にある庫裏とを結ぶ廊下の中間に玄関をかまえる地方の一般真宗型である。

本堂は寄棟造茅葺(瓦型金属板覆)、棧瓦葺一間向拝付。両側面と背面に棧瓦葺の下屋を廻らす。外陣の間口は実長五間半で小型の規模である。堂の創建は寺蔵の寛政9年(1797)記の通順寺諸記録によれば、「・・・当寺草創之儀ハ天文四年2末年祐誓開基ニ御座候 ■再建立ハ寛永十六年(1639)ニ■再建立仕候・・・」とあり、安永四年2閏未三月(1775)の頃には「本堂五間半四面 但シ附下ゲ共・・・」とあって現本堂の創建時の状態に復原すれば、その規模に一致する。現本堂はこの中枢部分に四方へ増改築してこの土地の真宗本堂型に拡張している(図1)。

本堂の現状から見て、現状の構造様式を解説しながら、改造後補した部分を根拠を挙げて述べると、

1.前面の向拝は材も新しく、絵様も新型である。向拝下の枢体外側鴨居や束が、向拝が無い部分と同様に風蝕しているので、大正期頃の付加(手挟は未完)と伝える。屋根は茅葺きであったものに近年アルミ瓦覆い。

2.堂の正面の一間巾の広縁部分は現在堂内に取込まれていて、雨戸一本引きの内に障子引違いで戸締まっているが、もとは広縁外陣境に戸障子があって広縁は吹放ちであったことが、その通りに残る小壁跡を隠す薄板が打たれていることや、広縁の棹縁天井と小壁まわりの風蝕がかなり進んでいることからわかる。

3.堂内の外陣中央には内陣見付中通りに独立柱が建って、そこから内陣前柱と同筋の外陣見返し柱にかけて天井下に繋虹梁を架して固め、広縁境にあったもとの柱は切断して虹梁上に建つ束として天井上の野梁を支えている。独立柱間に実長二間半の大虹梁が入り(写5・6)、桁行方向に左右に延長して両側柱に達する虹梁が通って前後左右に固めた構造は、真宗本堂が仏堂化すると、天井下を荘厳することと兼ねて外陣の見せ場を造ることとなった。この改造は材も一段と新しく、大正の御遠忌頃に行われたものと伝える。しかし、内陣前隅柱から外陣独立柱に対して天井下方にかけた実長一間張りの虹梁は材も絵様も江戸時代中期頃の意匠であるから、この独立柱は何らかの形でその頃には存在していたと思われる。

4.内陣と両余間の正面は外陣内側を最も荘厳した所で、床高は内陣を余間より一段上げ、余間はその半分程上げて上段としている。建具は現在、内陣前余間前とも千本障子(巻障子)を吊っているが、内陣前の中柱二本はそれを吊るための後補であり、もとは内陣余間前とも千本障子の引違戸で仕切っていたことが現鴨居、敷居に板打ちして溝を塞いでいることからもわかる(図2)。内法上部は型の通り金箔置きの彫刻欄間で飾り、柱、束頂には頭貫はなく台輪を通して出組の斗組を配し、中備に蟇股を置いて内陣、余間とも棹縁天井下に支輪を通して飾っているが、欄間より上のこの一連の荘厳は寛永記の創建時のものではなく、蟇股や斗組挙鼻の絵様から見て江戸時代中期の雑作と思われる。

5.内陣の奥行きは深く改造されており、板張り床の二間半の奥に半間の脇仏壇が付く。脇仏壇内前柱(円柱金箔置)から前半間の位置に同じく円柱の来迎柱が立ち、来迎壁、柱とも金箔置。箱型の台上に唐様須弥檀を設え、檀上には宮殿に納められた本尊を安置する。この内陣後半部分は江戸時代中期頃に改造されたものと思われ、創建当時には南北の余間仏壇を結んだ筋通りに内陣の腰高仏壇が横一直線に通っていたいわゆる念仏道場型であったことが、その位置に残る傷跡(余間仏壇前框が取り付いている柱の内陣内まわり側に、もとの内陣の念仏道場型の仏壇が取り付いていた穴を埋め木したことが打診され、またその柱面の上部には現在その半間後方にある虹梁、小壁、出組の半斗、支輪等の一連の荘厳がそのまま半間前進して取付いていた切込跡)が残っていることによって証される。内陣の天井は現在小組入り格天井が途中拡張した現在の来迎柱の筋まで張られており、この部分は材も新しいので、後世の改造である。内陣からの出入口は脇仏壇と余間仏壇の間の半間巾の柱間から片引きの金襖戸で通ずる。向かって右の後座敷には床の間付けの四畳半座敷と外側隣である入側縁(三畳間)と合わせると七畳半として使用できる。左の後座敷は八畳間と広く採ってあるが、外側の入側縁は半間巾で通路の役目を果たすのが主であり、座敷には床の間もないので、右座敷のほうが格調ある座敷となる。後堂には背面に付けた物入れの間に後門を開く(図1)。

この堂は建てられたのが寛永16年(1639)と県下でも類例がないほど古く、同町内にそれ以後建てられた同規模の真宗大谷派本堂も、一部更年変化を受けながらも類似した形式であった。江戸時代中期頃には堂の後半部分に改造が見られ、後座敷を持つ本堂となったが、この形式がまたその時代の真宗本堂の標準型であったことが、近隣の堂宗同時代の実例を調査した結果明らかとなった。その意味で、復原時の形態、改造後の形態ともそれぞれの基本形を示す意義深い遺構である。

通順寺本堂(寛永16(1639)年建立)について

愛知工業大学教授 岡野清

本堂は東に接する道路から山門を入って突き当たりにある。北側にある庫裏とを結ぶ廊下の中間に玄関をかまえる地方の一般真宗型である。

本堂は寄棟造茅葺(瓦型金属板覆)、棧瓦葺一間向拝付。両側面と背面に棧瓦葺の下屋を廻らす。外陣の間口は実長五間半で小型の規模である。堂の創建は寺蔵の寛政9年(1797)記の通順寺諸記録によれば、「・・・当寺草創之儀ハ天文四年2末年祐誓開基ニ御座候 ■再建立ハ寛永十六年(1639)ニ■再建立仕候・・・」とあり、安永四年2閏未三月(1775)の頃には「本堂五間半四面 但シ附下ゲ共・・・」とあって現本堂の創建時の状態に復原すれば、その規模に一致する。現本堂はこの中枢部分に四方へ増改築してこの土地の真宗本堂型に拡張している(図1)。

本堂の現状から見て、現状の構造様式を解説しながら、改造後補した部分を根拠を挙げて述べると、

1.前面の向拝は材も新しく、絵様も新型である。向拝下の枢体外側鴨居や束が、向拝が無い部分と同様に風蝕しているので、大正期頃の付加(手挟は未完)と伝える。屋根は茅葺きであったものに近年アルミ瓦覆い。

2.堂の正面の一間巾の広縁部分は現在堂内に取込まれていて、雨戸一本引きの内に障子引違いで戸締まっているが、もとは広縁外陣境に戸障子があって広縁は吹放ちであったことが、その通りに残る小壁跡を隠す薄板が打たれていることや、広縁の棹縁天井と小壁まわりの風蝕がかなり進んでいることからわかる。

3.堂内の外陣中央には内陣見付中通りに独立柱が建って、そこから内陣前柱と同筋の外陣見返し柱にかけて天井下に繋虹梁を架して固め、広縁境にあったもとの柱は切断して虹梁上に建つ束として天井上の野梁を支えている。独立柱間に実長二間半の大虹梁が入り(写5・6)、桁行方向に左右に延長して両側柱に達する虹梁が通って前後左右に固めた構造は、真宗本堂が仏堂化すると、天井下を荘厳することと兼ねて外陣の見せ場を造ることとなった。この改造は材も一段と新しく、大正の御遠忌頃に行われたものと伝える。しかし、内陣前隅柱から外陣独立柱に対して天井下方にかけた実長一間張りの虹梁は材も絵様も江戸時代中期頃の意匠であるから、この独立柱は何らかの形でその頃には存在していたと思われる。

4.内陣と両余間の正面は外陣内側を最も荘厳した所で、床高は内陣を余間より一段上げ、余間はその半分程上げて上段としている。建具は現在、内陣前余間前とも千本障子(巻障子)を吊っているが、内陣前の中柱二本はそれを吊るための後補であり、もとは内陣余間前とも千本障子の引違戸で仕切っていたことが現鴨居、敷居に板打ちして溝を塞いでいることからもわかる(図2)。内法上部は型の通り金箔置きの彫刻欄間で飾り、柱、束頂には頭貫はなく台輪を通して出組の斗組を配し、中備に蟇股を置いて内陣、余間とも棹縁天井下に支輪を通して飾っているが、欄間より上のこの一連の荘厳は寛永記の創建時のものではなく、蟇股や斗組挙鼻の絵様から見て江戸時代中期の雑作と思われる。

5.内陣の奥行きは深く改造されており、板張り床の二間半の奥に半間の脇仏壇が付く。脇仏壇内前柱(円柱金箔置)から前半間の位置に同じく円柱の来迎柱が立ち、来迎壁、柱とも金箔置。箱型の台上に唐様須弥檀を設え、檀上には宮殿に納められた本尊を安置する。この内陣後半部分は江戸時代中期頃に改造されたものと思われ、創建当時には南北の余間仏壇を結んだ筋通りに内陣の腰高仏壇が横一直線に通っていたいわゆる念仏道場型であったことが、その位置に残る傷跡(余間仏壇前框が取り付いている柱の内陣内まわり側に、もとの内陣の念仏道場型の仏壇が取り付いていた穴を埋め木したことが打診され、またその柱面の上部には現在その半間後方にある虹梁、小壁、出組の半斗、支輪等の一連の荘厳がそのまま半間前進して取付いていた切込跡)が残っていることによって証される。内陣の天井は現在小組入り格天井が途中拡張した現在の来迎柱の筋まで張られており、この部分は材も新しいので、後世の改造である。内陣からの出入口は脇仏壇と余間仏壇の間の半間巾の柱間から片引きの金襖戸で通ずる。向かって右の後座敷には床の間付けの四畳半座敷と外側隣である入側縁(三畳間)と合わせると七畳半として使用できる。左の後座敷は八畳間と広く採ってあるが、外側の入側縁は半間巾で通路の役目を果たすのが主であり、座敷には床の間もないので、右座敷のほうが格調ある座敷となる。後堂には背面に付けた物入れの間に後門を開く(図1)。

この堂は建てられたのが寛永16年(1639)と県下でも類例がないほど古く、同町内にそれ以後建てられた同規模の真宗大谷派本堂も、一部更年変化を受けながらも類似した形式であった。江戸時代中期頃には堂の後半部分に改造が見られ、後座敷を持つ本堂となったが、この形式がまたその時代の真宗本堂の標準型であったことが、近隣の堂宗同時代の実例を調査した結果明らかとなった。その意味で、復原時の形態、改造後の形態ともそれぞれの基本形を示す意義深い遺構である。

御華束講(おけぞくこう)

平成20年11月18日~20日まで、中島郡会による御本山御華束作りが行われました。また、正月にもお供え餅を納めました。

中日新聞掲載
あぜみち掲載1
あぜみちは地方紙です
あぜみち掲載2
餅つき
くり抜き
組立
最終チェック
完成
御影堂修復工事のため、例年より少ない。

御華束講(おけぞくこう)

平成20年11月18日~20日まで、中島郡会による御本山御華束作りが行われました。また、正月にもお供え餅を納めました。

中日新聞掲載
あぜみち掲載1
あぜみちは地方紙です
あぜみち掲載2
餅つき
くり抜き
組立
最終チェック
完成
御影堂修復工事のため、例年より少ない。

御華束講(おけぞくこう)

平成20年11月18日~20日まで、中島郡会による御本山御華束作りが行われました。また、正月にもお供え餅を納めました。

中日新聞掲載
あぜみち掲載1
あぜみちは地方紙です
あぜみち掲載2
餅つき
くり抜き
組立
最終チェック
完成
御影堂修復工事のため、例年より少ない。

本法院義譲(ほんぽういん ぎじょう)

当寺12世恵澄の遺弟 本法院義譲師は、大谷派講師となり名声高く、三河源徳寺(吉良の仁吉の墓があることで有名)に住した。諏訪義譲著 『尾張先学者考 』に「講師は純粋な学階でなく一宗一人の学職であって、宗主より親しく任命され、学僧として栄誉この上もなかった」と記している。源徳寺には京都から三河まで乗って帰ったという輿が残っていて、当時の地位の高さがうかがえる。
義譲師から18世道仙宛ての手紙(本法院義議の書輪集壱巻)が当寺に残されている。

学業
『大谷派先輩著述目録』
1 二種深信講義、二(刊)
2 往生礼讃乙卯録、三(真宗全書)
3 選択集講義、三
4 歩船鈔甲辰録、二(真宗大系)
5 助給続不続論、一
6 改邪鈔丙午録、二(真宗大系)
7 往生礼讃考、二
8 御文大網、一
9 信行両一念記、一
10 諸神本懐集講義、三(真宗全書)
11 諸神本懐集 引拠、二
12 三部経異本校訂捷覧、一(刊)
13 八宗綱要講義、三
14 通俗三世因果実験録、七(刊)
15 倶舎論記、七
16 七十五法聞響記、一
17 高僧和讃記、五
18 神明三ヶ条御文記、一

以下『続大谷派先輩著述目録』
19 往生礼讃聞記、一二
20 観経玄義分聞記、一〇
21 諸神本懐集聴記
23 成唯識論講説
24 浄土論聞書、六
25 真宗示諭録(刊)
26 能登頓成再往教諭書、六
27 二種深信略録、四
28 二種深信正因弁
29 八宗綱要聞記、二
30 八宗綱要講義、八
31 歩船鈔講義、四
32 無量寿経五悪段記

遺弟

『大谷先輩学系略』

探励-徳龍
   -霊曜--義門
   -秀存 -義譲--晃曜(三河。因明院講師)
              -潜龍(美濃。冷香院講師)
              -了慧(信濃。即得院嗣講)

他に
円純(飛騨。昨夢院。講師)
黙慧(加賀。瑞応院。嗣講)
浩然(三河。染香院。贈嗣講)
慧鎧(三河。宣忠院。贈嗣講)
三応(美濃。香覚院。擬講)
智学(能登。照明寺。擬講)
周観(三河。深楽庵。贈擬講)

『遊僊窟入社隷名録』 (本法院の社中名簿 遺弟周観師が自坊三河の藤川伝誓寺に伝える) 
三河 112名
尾張 34名
越後 22名
美濃 16名
能登 12名
大阪 9名
出羽 9名
遠江 7名
近江 7名
播磨 7名
伊勢 6名
越前 6名
越中 5名
江戸 5名
奥州 4名
加賀 4名
摂津 3名
洛陽 3名
常陸 3名
伊豆 2名
丹波 2名
筑後 2名
飛騨 2名
豊後 2名
肥後 1名
若狭 1名
佐渡 1名
松前 1名

参考文献 諏訪義譲著「尾張先学者考」文光堂

本法院義譲(ほんぽういん ぎじょう)

当寺12世恵澄の遺弟 本法院義譲師は、大谷派講師となり名声高く、三河源徳寺(吉良の仁吉の墓があることで有名)に住した。諏訪義譲著 『尾張先学者考 』に「講師は純粋な学階でなく一宗一人の学職であって、宗主より親しく任命され、学僧として栄誉この上もなかった」と記している。源徳寺には京都から三河まで乗って帰ったという輿が残っていて、当時の地位の高さがうかがえる。
義譲師から18世道仙宛ての手紙(本法院義議の書輪集壱巻)が当寺に残されている。

学業
『大谷派先輩著述目録』
1 二種深信講義、二(刊)
2 往生礼讃乙卯録、三(真宗全書)
3 選択集講義、三
4 歩船鈔甲辰録、二(真宗大系)
5 助給続不続論、一
6 改邪鈔丙午録、二(真宗大系)
7 往生礼讃考、二
8 御文大網、一
9 信行両一念記、一
10 諸神本懐集講義、三(真宗全書)
11 諸神本懐集 引拠、二
12 三部経異本校訂捷覧、一(刊)
13 八宗綱要講義、三
14 通俗三世因果実験録、七(刊)
15 倶舎論記、七
16 七十五法聞響記、一
17 高僧和讃記、五
18 神明三ヶ条御文記、一

以下『続大谷派先輩著述目録』
19 往生礼讃聞記、一二
20 観経玄義分聞記、一〇
21 諸神本懐集聴記
23 成唯識論講説
24 浄土論聞書、六
25 真宗示諭録(刊)
26 能登頓成再往教諭書、六
27 二種深信略録、四
28 二種深信正因弁
29 八宗綱要聞記、二
30 八宗綱要講義、八
31 歩船鈔講義、四
32 無量寿経五悪段記

遺弟

『大谷先輩学系略』

探励-徳龍
   -霊曜--義門
   -秀存 -義譲--晃曜(三河。因明院講師)
              -潜龍(美濃。冷香院講師)
              -了慧(信濃。即得院嗣講)

他に
円純(飛騨。昨夢院。講師)
黙慧(加賀。瑞応院。嗣講)
浩然(三河。染香院。贈嗣講)
慧鎧(三河。宣忠院。贈嗣講)
三応(美濃。香覚院。擬講)
智学(能登。照明寺。擬講)
周観(三河。深楽庵。贈擬講)

『遊僊窟入社隷名録』 (本法院の社中名簿 遺弟周観師が自坊三河の藤川伝誓寺に伝える) 
三河 112名
尾張 34名
越後 22名
美濃 16名
能登 12名
大阪 9名
出羽 9名
遠江 7名
近江 7名
播磨 7名
伊勢 6名
越前 6名
越中 5名
江戸 5名
奥州 4名
加賀 4名
摂津 3名
洛陽 3名
常陸 3名
伊豆 2名
丹波 2名
筑後 2名
飛騨 2名
豊後 2名
肥後 1名
若狭 1名
佐渡 1名
松前 1名

参考文献 諏訪義譲著「尾張先学者考」文光堂

本法院義譲(ほんぽういん ぎじょう)

当寺12世恵澄の遺弟 本法院義譲師は、大谷派講師となり名声高く、三河源徳寺(吉良の仁吉の墓があることで有名)に住した。諏訪義譲著 『尾張先学者考 』に「講師は純粋な学階でなく一宗一人の学職であって、宗主より親しく任命され、学僧として栄誉この上もなかった」と記している。源徳寺には京都から三河まで乗って帰ったという輿が残っていて、当時の地位の高さがうかがえる。
義譲師から18世道仙宛ての手紙(本法院義議の書輪集壱巻)が当寺に残されている。

学業
『大谷派先輩著述目録』
1 二種深信講義、二(刊)
2 往生礼讃乙卯録、三(真宗全書)
3 選択集講義、三
4 歩船鈔甲辰録、二(真宗大系)
5 助給続不続論、一
6 改邪鈔丙午録、二(真宗大系)
7 往生礼讃考、二
8 御文大網、一
9 信行両一念記、一
10 諸神本懐集講義、三(真宗全書)
11 諸神本懐集 引拠、二
12 三部経異本校訂捷覧、一(刊)
13 八宗綱要講義、三
14 通俗三世因果実験録、七(刊)
15 倶舎論記、七
16 七十五法聞響記、一
17 高僧和讃記、五
18 神明三ヶ条御文記、一

以下『続大谷派先輩著述目録』
19 往生礼讃聞記、一二
20 観経玄義分聞記、一〇
21 諸神本懐集聴記
23 成唯識論講説
24 浄土論聞書、六
25 真宗示諭録(刊)
26 能登頓成再往教諭書、六
27 二種深信略録、四
28 二種深信正因弁
29 八宗綱要聞記、二
30 八宗綱要講義、八
31 歩船鈔講義、四
32 無量寿経五悪段記

遺弟

『大谷先輩学系略』

探励-徳龍
   -霊曜--義門
   -秀存 -義譲--晃曜(三河。因明院講師)
              -潜龍(美濃。冷香院講師)
              -了慧(信濃。即得院嗣講)

他に
円純(飛騨。昨夢院。講師)
黙慧(加賀。瑞応院。嗣講)
浩然(三河。染香院。贈嗣講)
慧鎧(三河。宣忠院。贈嗣講)
三応(美濃。香覚院。擬講)
智学(能登。照明寺。擬講)
周観(三河。深楽庵。贈擬講)

『遊僊窟入社隷名録』 (本法院の社中名簿 遺弟周観師が自坊三河の藤川伝誓寺に伝える) 
三河 112名
尾張 34名
越後 22名
美濃 16名
能登 12名
大阪 9名
出羽 9名
遠江 7名
近江 7名
播磨 7名
伊勢 6名
越前 6名
越中 5名
江戸 5名
奥州 4名
加賀 4名
摂津 3名
洛陽 3名
常陸 3名
伊豆 2名
丹波 2名
筑後 2名
飛騨 2名
豊後 2名
肥後 1名
若狭 1名
佐渡 1名
松前 1名

参考文献 諏訪義譲著「尾張先学者考」文光堂

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