3. やりたいことを、思ったときに





(――どうする? ここは2階だから、南の階段を降りる? いえ――)
 そうして、アグスティアは左足を軸足にして、腰を捻った体重を右側に傾ける。全力疾走から急停止。そして方向転換。ぐぐっ、と廊下の絨毯が彼女の左足の跡をつけてたわむ。
(ここのバルコニーから飛び降りれば、先回りできるっ!)
 豊かなブロンド。黒い瞳。相変わらずの黒い軍服。アグスティア=フラーニアは、ハノン候爵邸内を今日も走っていた。階上から飛び降りてきた人影に、庭にいた家事女中が、きゃっと可愛らしい声で驚く。
「ごめんなさいっ」
 謝罪もそこそこに、アグスティアは軍靴に力を入れてさらに加速。
 かちゃかちゃと腰の剣が鳴る。
 裏の厨房へ回ると、外へ出る。そこにあるのは小規模な菜園。ナスやらトマトやらが夏の陽光を浴びて濃緑の葉を繁らせながら、たっぷりとたわわな実をつけているが、今のアグスティアの目には入らない。不快なくらいに照りつける強い陽光を受けながら、そのまま菜園を駆け抜ける。
 菜園は白い漆喰壁で囲まれているが、一箇所、潜り戸がある。夜間は施錠されているが、日中は鍵が開いている。アグスティアは苦も無く潜り戸から外へ出た。
 そして彼女は白い壁沿いに走る。白い壁は彼女の背よりもよほど高く、天辺には侵入者よけのために、尖った鉄槍杭が天を向いて規則的に並び、その間には鉄線が張られている。ちょうど城壁のような白壁が終わり、道が角を曲がったところで侯爵邸自慢の薔薇園にぶつかる。彼女は躊躇せず、薔薇の畝の隙間を選んで、花園に飛び込んだ。
 体を横にしながら小走りになって園を抜ける。時折、胸に華が当たるが気にしない。迷路のようになっている園を抜け、慣れ親しんだ小道に降り立った。
「うおっ?」
 ちょうどそのとき、小道を歩いていた人物が、驚きの声をあげる。さらりとした銀髪は陽光を跳ね返し、紅い目は丸く見開かれている。すらりとした長身で剣帯した人物は、この館の持ち主、王弟にしてハノン候であるシェルシマだった。
「お、おまえ、いったいどっから湧いて出てきてんだよ」
「ひ、ひとを、虫みたいに言わないでくださいっ」
 さすがに真夏の全力疾走のあとなので、アグスティアも息があがっていた。
「いったい、誰のせいで……ふぅ」
 愚痴りながら息を数秒で整えると、体をシェルシマの真正面に挑むように向けて、彼女は立った。そして近衛兼お目付け役の威厳をたっぷりと出して、
「さあ殿下。今日は古典文学の日ですよ――」
「ヤダ」
 シェルシマは拗ねるように言って、ぷいと横を向く。
「やだ、ってそんな子供みたいな――」
「だってよ、毎日毎日講義だぜ? そりゃあ嫌にもなるさ!」
「殿下は毎日毎日抜け出していらっしゃるじゃないですか! 嫌になりようがないでしょう!」
 怒鳴り返して、ふう、とアグスティアは息をつくと、やれやれという調子で続ける。
「まったく、この前は繋ぎ合わせたシーツをつたって窓から逃げ出しているし、その前は変装して逃げているし……どうしてそこまで怠けることに情熱をかけられるのか、私には理解できません」
 すると、シェルシマは、
「それだっ!」
「え?」
「それだよ。アグスティアは、どうしてオレが講義を抜け出すのか理解できない。それは、君が普段怠けたりしたことがないからなんじゃないか?」
「え、それは、まあ……」
 早口でまくし立てられて、彼女は大きく見開いた目をしばたたかせた。赤眼の殿下は、そんな彼女へと得意そうに告げる。
「君も、怠ける人間の気持ちをわかっていた方がいい。そう、一緒に抜け出してみればわかる」
 良い発案だとひとりでうんうんと頷く赤眼殿下。
(ああ、このひと本当に馬鹿なんだ)
 アグスティアは心の中で思う。いや、もう思ったことを言葉にしてもいいかもしれないとも彼女は思う。屋形に来て3ヶ月が経つが、もう主君だとは思いがたいぐらい、赤眼殿下は気の置けない相手になっている。
「そんなことを言われても、騙されませんよ。さ、戻りましょう」
 しかし、素直に言うことを聞くような赤目殿下ではない。
 仕方がないな。シェルシマは呟くと、一回、鋭く指笛を吹いた。
「い、今のはなんの合図です?」
「さあ?」
 軍服の女が聞くが、シェルシマはとぼける。
 嫌な予感がして、アグスティアが主君を無理やり連れ戻そうとした、そのときだった。
 空馬が、ふたりめがけて駆けてきた。蹄が小道を蹴り、土埃をまきあげている。
 その空馬に、シェルシマが身軽に飛び乗って、そのまま馬を駆けさせる。
「それじゃあな! 夕刻には戻るからさ!」
「な、ちょっ……待ちなさいっ!」
 アグスティアは、絶叫した。





「ほれ、冷たい水だ。飲め」
「あ、ありがとぅ、ございます……」
 はぁはぁと息を切らしながら、アグスティアは水の入った金属の器を受け取った。そして、水を一息に飲み干し、器をシェルシマへと返す。
「もう一杯いるか?」
 シェルシマが問いかけると、緑の葉がつくる日陰の地べたに腰を下ろしたままのアグスティアは、こくんと頷いた。赤眼殿下が水差しからもう器に一杯を注ぎ、疲労困憊の彼女に渡すと、それも一息で飲み干してしまった。
「しかし、走る馬を、人の足で追いかけるなんてなぁ……お前もたいがい、無理するなぁ」
「だ、誰のせいですか……」
 息を切らしたアグスティアにとって、それが精一杯の反論だった。
 ハノンにも繁華街のような場所があり、酒堡が立ち並ぶ場所がある。そこから少し離れた商店が並ぶ通りの木陰に、ふたりはいた。
「何か、甘い匂いがしますね」ようやくあがりきった息が整ってきたアグスティア。
「この辺は屋台がいろいろあるからな……何か食べるか?」
「いえ」
 そうブロンドの近衛は遠慮したのだが、シェルシマは道端の屋台へと近づいて、そして、ふたつの包みをもって帰って来た。
「甘いものは好きだったろ?」
 そう言って赤眼殿下がひとつ差し出したのは、薄く焼いた小麦粉で甘いクリームを包んだ菓子だった。
「他の地域じゃ、中に魚や肉を入れて主食として食べるところもあるらしいが、ここじゃこういう食べ方が主流だな」
 言って、シェルシマは手に持っていた自分の分を齧る。そうして、食べれば? というように角がかけてしまったそれを掲げて見せる。
 アグスティアは意を決したように自分の分に口をつけると、ひとくちを齧りとって口中で砕き、転がしたのちに飲み下す。そして感想。
「……おいしい」
 それはよかった、と言って、二口目を齧る為にクレープを口に近づけながら、シェルシマが尋ねた。
「アグスティアは、王都の生まれなのか?」
 ええ、とブロンドの近衛は頷いた。
「実家は商都ジェノガなのですが、生まれも育ちも王都です。13歳で騎士見習になって、それからもずっと王都でした」
「王都とジェノガか」呟くように、シェルシマ。「そんな都会ばかりに住んでいたんじゃ、こんなハノンみたいな田舎は退屈だろ?」
「いえ……王都でも剣ばかり振っていましたからね。都会だからどうだとか、そういう風に感じることはありません。でも……そうですね。こちらに来て、空気がすがすがしいと感じます。朝は特に」
 そんなもんかねと赤眼殿下は呟く。
「オレは断然都会派だな。仲間たちと遊び回っていたスクール時代が懐かしい」
「王都のスクールに通っていらしたんですか? あの有力貴族の子弟が集まる」
 少し意外そうにアグスティアが言うと、シェルシマは、
「そりゃそうさ。それに、当時まだ第2王子がいたんでオレは第4王子だった。だから、結構自由にやっていたよ。気の合う仲間とつるんで、いろいろやって。今ウチで家宰をやってるバルドとはそこで知り合った。俺たちと一緒になって遊んでいたが、どういうわけか、あいつだけは成績が良かった。要領のいい奴ってのはいるもんだよ」
「その頃から、よく講義を抜け出していたんですか?」
「まぁね」
「威張って言うことじゃないと思います」
「威張ってはいないさ。反省もしていないけど」
 言い切ったシェルシマは、隣の近衛を見遣る。
 アグスティアはそうですかとうわのそらで返事をし、夢中で菓子をぱくついている。
(こいつ、よっぽど甘いものが好きなんだな)
 自分の分を齧りながら、シェルシマは思う。謹厳実直な女近衛が、頬にクリームをつけながら菓子を食べていると、まるで10歳の少女のようだ。
 赤目殿下が、聞いてみる。
「よかったら、またこの店に連れてきてやろうか?」
 えっ、とアグスティアは驚いた表情を見せた。そうしてしばらく逡巡し、時間をかけて最後のひとかけらを飲み込むと、警戒しながら、
「――そんなこと言って、授業を抜け出すのをごまかすつもりでしょう」
 そんなことないよ、とはぐらかしながら、シェルシマは心の中では別のことを思う。
(絶対にこの菓子でごまかせるな)
 あのひねくれた眼鏡家宰バルドとなんという違いだろう。まるで感慨にふけるように、赤目殿下は、彼女のわかりやすい単純さを好もしく思う。今まで一筋縄ではいかない奴ばかり相手にしてきたために、このブロンドの近衛の反応は新鮮だった。そして、シェルシマはまだ半分以上残っている、自分の菓子を差し出してみる。
「これ食うか?」
「……。……。……。いえ、いいです」
 未練たっぷりに、アグスティアは遠慮する。シェルシマは吹き出してしまいそうになるのをこらえながら、
「遠慮すんなよ。甘いもの、嫌いじゃないがたくさんは食べれないんだ」
「……」
「食べなきゃ捨てるけど」
「ダメです! 食べ物を粗末にするなんて、そんなもったいないこと!」
 決まりだな、とシェルシマが菓子を差し出すと、アグスティアはそれを受け取って、黙々と口に運ぶ。満足そうな表情をしている。
(少なくともあと3回はここの菓子で機嫌がとれそうだ)
 そうシェルシマは確信した。



 トゥーレ王国の北西の端のほうに位置するハノンという土地は、盆地帯である。
 寒冷な土地ではなく温暖だが、地質には石灰岩が多く、そのため土は肥沃でなく農耕に向かない。北の山は険しいが、残りの3方を囲む山は里山で、まばらではあるが人家がある。北の山からは川が流れており、その流れはハノンを南流し縦断している。
 西と北東、そして南東に向けてハノンから街道が繋がっており、特に幹線道路である南東の道を5日ほど進むと、王都にたどり着ける。
「決して豊かな土地とはいえないから農業が盛んなわけじゃない。隣国と接していたりするわけでも、たくさんの街道でつながれていて人が集まるというわけでもないから、流通や商売もさかんじゃない。王都とは幹線道路で繋がっているけれど、それだけだ。王都からやたらと伸びている幹線道路の枝に、なんとかひっかかってくれているという感じかな」
 眼下の景色を弓手で指し示しながら、シェルシマは自領について説明した。
 どうせ今日は授業にならないから、と領地が一望できるという丘に、ふたりは来ていた。
 赤目の主君に並ぶアグスティアは、軽く頷いて同意を示した。興味があるのかないのか、わからない態度。だが表情は少し張り詰めている。
「その代わりと言っちゃなんだが、牧畜は盛んだ。だから、ほら」
 とシェルシマはすぐ近くを指差す。
 指の先では、何頭かの牛が、斜面で草を食んでいる。
「……こんなところにまで、牛がいるんですね」アグスティアが言った。
 背後には切り立つように聳える岩山がある。しかし彼らが立っている場所は岩がところどころ迫り出していて急斜面ではあるが、牧草が繁っている。
 近くの誰かが放している牛と牛を追う犬は居るが、牛飼いの姿は見えない。
「ここには、よく来る。ハノンが一望できるからな」
 シェルシマが独り言のように呟く。アグスティアはそれには答えず、ただ眼下に広がるハノンを見下ろしていた。左手で、腰の剣の柄をさすっている。そして彼女はぽつりと、
「誰もいませんね」
 シェルシマは、ああ、そうだなと言ったあと、
「誰もいないな。今なら牛泥棒をしようと思えば簡単にできる」
 牛の番をしているはずの犬は、先ほどシェルシマが投げ与えた干し肉を必死でむさぼっていた。

 もー、と牛が鳴いた。
 アグスティアは相変わらず剣の柄を弄びながら、
「いまなら、邪魔がはいることは、無いですね」
「じゃま?」
 シェルシマは聞き返した。
 どこかでまた牛が鳴いた。

 アグスティアは軽く俯けていた顔をあげ、黒目がちな大きい瞳で、真っ直ぐにシェルシマを見た。何かしら決意めいた彼女の瞳は、光の加減で、薄茶色に見えた。
「ひとつ、提案があります」
 なんだ、と赤目殿下が答える。傾いてきた太陽を背にしている為、彼の輪郭が黄金色に輝いている。ブロンドの近衛は、一度視線を落とし、そして、
「決着をつけませんか? 初めてお会いしたときの」
「決着?」
「初めてお会いしたとき、剣闘をして、引き分けたままです」
「剣闘を、いま、ここで?」
「はい。あのときと同じように、真剣を使って」
 そこでアグスティアは言葉を切って、シェルシマを見た。
 真っ直ぐな瞳だった。冗談とも思えない。
 風が吹いて、シェルシマの銀髪がさらりと揺れた。
 アグスティアのブロンドも、ゆらりと揺れる。
 風は緑の牧草を揺らして、西へ去っていく。
 しばらくの間、シェルシマは真っ直ぐな彼女の瞳を見返していたが突然、ぷっと吹き出し、笑いだした。
「アグスティア、お前、ひょっとして戦闘の偏執狂なのか?」
「なっ……。そ……そういうわけではありませんが」
 シェルシマの反応が予想外だったからか、アグスティアは少しうろたえる。
 微笑いながら赤眼殿下は言う。
「どっちが強いか、試してみたいってか? どこぞの少年が好きそうな巷間の騎士物語みたいだな」
「ちっ、違います!」
 ただ、その、と口中で呟くアグスティアの言葉は、だんだんと小さくなっていく。
 面白い、と呟いて、シェルシマは口の端に笑いを残しながらも彼女から視線を外し、目の前に広がるハノンを見る。
 この1年で、だいぶ見慣れた景色だった。1年より前は、知らない景色だった。
 彼はいつものように腰に差している遠眼鏡を取り出すと、目に当てた。金属輪を回して、焦点を合わせる。
「なあ、アグスティア」彼は相変わらず遠眼鏡を覗いたまま、もう沈黙してしまった彼女に尋ねる。「お前、どうして剣を始めたんだ?」
 何かを考え込むようにしていたアグスティアは、驚いたように顔をあげ、すっと一度だけ黒い瞳を横に動かす。そうして、躊躇うようにふっくらとした唇を少し開いた。
「私の場合は……両親が騎士だったんです。だから、私も気がつけば自然に剣を始めていました。別に、両親が強いたわけではないのですが……ただ両親の真似がしたかったんでしょうね。他の選択肢なんて何も考えず、自分から進んで剣を取りました。16歳になったときに騎士見習になって、あとは……」
「剣一筋に生きて、今に至る、というわけか」
 シェルシマがあとの言葉を継いだ。
 彼女は特に否定はせず、ただ頷いた。
「シェルシマ殿下は、どうなのです?」
 興味深そうに遠眼鏡を覗いたままで、シェルシマは答えた。
「オレ? オレは簡単さ、才能があったからだよ」
 さようですか、と少し興ざめたようにアグスティアが言った。シェルシマは続ける。
「小さい頃から、一通りの習い事はさせられたんだよ。でもオレも一応は王子だからさ、習い事の中ではよく講師に誉められる。特別扱いもしょっちゅうだ。でもそれはうわべの話だけ。実は内心では見下されている、それも良くある話だ」
 アグスティアは黙ってシェルシマの話を聞いている。
「でも剣ではそれがなかった。誉められればそれは本心からだってわかった。だからオレは剣に励んだ。年に数度しか顔を見ない父上にも誉められたこともあったんだぜ。オレはお調子者だからな。誉められるたびに舞い上がって、剣術留学までした。そして今に至る、ってわけだ」
 ようやく、遠眼鏡から目を離して、シェルシマは隣のアグスティアを見た。
 使うか?
 彼は遠眼鏡を掲げてみせる。
 しかし、近衛の彼女は首を横に振る。
「オレは、王になろうともなりたいとも思ったことがないよ。だから、剣は楽しいからやってた。学問は嫌いだからやらなかった。それだけだよ」
 手の中で遠眼鏡を弄びながら、殿下は近衛へと近づく。
「単純なのですね。興味があることだけをする」アグスティアが言った。
「そう。単純なのさ。やりたいことを、やりたいときに。人生は単純な方が良いと思っているクチの人間だ」
 言いながら、単純な殿下はアグスティアに手渡すように、鼻先へと遠眼鏡を突き付ける。だが、近衛は改めて、首を横に振って、いらない、の意志を示した。首を振ったときに、豊かなブロンドがシェルシマに当たった。それだけ近い距離だ。

 斬時、ふたりの視線が交錯する。
 そして突然、殿下が盗むようにして近衛の唇に口づけた。
 触れただけ。
 わずかな時間。

 弾けるように体を離し、シェルシマはおどけるようにして微笑む。
「戯れだよ」
「はい」
 ものわかりの良いアグスティアの返事だったが、ちからのある声とは裏腹に、黒い瞳から一粒の涙が零れ出た。
「その……ごめん」
「いえ、謝らないでください。その、その……」近衛は涙の理由を説明しようとするが、涙が次々にあふれてくる。「すみません。複雑で説明できません」
「アグスティア」
「なんでもありません、なんでも……。大丈夫ですから」
 涙を拭い続ける彼女に、シェルシマは何か声をかけようとしたが、彼女に先に制された。
「本当に大丈夫です。でも……今日のところは先に帰っていていただけませんか?」
 シェルシマは逡巡したが、結局、わかったと放してあった馬の方へと向かう。鞍に飛び乗るようにしてまたがり、そして、
「アグスティア。また、してもいいか?」
 声をかけた。
 けれど、彼女は肯定も否定もしなかった。応える言葉があるわけでもなく、首を振るわけでもない。ただ手布で目を覆っている。
 殿下は、拍車を入れ、仕方なく馬を走らせ始めた。