6.強風の月





 初めてこの花が咲いたのは、三日前だっただろうか?
 はっきりとした日にちを彼女は覚えてはいない。だが、今やこの花々は薄紅の花弁を競わせるように開き、一面に咲き渡っている。この季節に吹くという強い風に吹き飛ばされることもなく、細い葉と鮮やかな花弁を可憐に揺らし、青い空を背にしている。
 また風が吹いた。雲を吹き飛ばす音を立てて、地面にあるもの全てを浚うように風が吹き抜けていく。アグスティア=フラーニアは、巻き上がる豊かなブロンドの髪を、反射的に押さえた。彼女の周りの秋桜は、流れに逆らうこともないが負けることもない。
 ざわ、ざわと鳴る葉擦れの音が止んだ。風を受けて冷たくなってしまった片頬を少し撫でると、アグスティアはまた揺れる秋桜へと視線を移した。秋桜には白や黄などの種類があるが、手入れをしているものの趣味なのだろう。ここに植えてあるものは、すべて紅と薄紅だった。
「秋桜が珍しいですか?」
 突然声をかけられて、彼女は背後を振り向く。ゆっくりと歩いてくるのは、茶色の髪の男。かけている青眼鏡が印象的だ。
 ハノン=トゥーレ家の家宰。バルド=ネビリム。胸にその名前を呟きながら、アグスティアは全然関係ないことを言った。
「……今日も、風が強いですね」
 バルドは笑うように小さく息を吐くと、彼女から3歩程度離れた位置で立ち止まった。
「例年、今ぐらい時期は季節風の関係で強い風がハノン地方に吹き込むんです。土地では、十月を『強風の月』とも呼ぶのですよ」
「冬になっても、こんなに強い風が吹き続けるのですか?」
 いえいえ、とバルドは否定する。
「せいぜい、二週間程度です。あとは、また穏やかな気候に戻ります」
 また風が吹いた。こんどの強風は埃だけでなく小さな砂粒までも舞い上げて二人を襲う。アグスティアは眼を守る為に顔を手で翳す。バルドも顔を右腕で覆う。秋桜は、針の如く細い葉をしならせて身をかわした。
 やがて土埃を伴う風が止まって、眼鏡の男はまったく、と呟いた。
「秋桜よりも、ヒースでも生えている方が今の季節には似合いですね」
 その言葉に、アグスティアはヒースという植物を思い出す。荒地に生えるそれは風に耐える為か背は低く葉は細く一見とげとげしい印象を受けるが、実は意外に可憐な花を咲かせる。ちぎれ飛んでしまうような風に花を揺らすその姿は、この一面に咲く秋桜とさほど変わらないかもしれない。
「そう言えば数年前に」バルドは青眼鏡の奥にある目を細める。視線の先には、秋桜に止まる蜜蜂がいる。「王都でこんな舞台が流行りましたね。強風の中で誰かの名を呼ぶ声が聞こえる。それは死してなお愛する者を求める亡霊の呼び声なのだと……」
「ああ。その舞台なら、私も観ました。……バルド様も?」
 そうアグスティアが呼び水を向けると、苦いものでも口に含んだようにバルドは笑う。
「ずっと観たいとは思っていたのですがね。結局、行けずじまいです。しかし観た人から話を聞いてはいまして、内容だけは知っていますので、つい思い出してしまいました。あの劇の舞台が、確かこんな強い風の吹く場所でしたね」
「こんなに綺麗な秋桜は咲いていませんけどね」
 そのアグスティアの言葉にバルドはかすかに微笑を浮かべ、眼鏡のブリッジを少しだけ押し上げた。
「時間を経れば、変わらないものはありません。それが何であっても。だからこそ、過ぎた執着は人を狂わせる。たとえその執着が、愛と呼ばれるものであっても」
 突然の言葉にその意図を測りかねて、アグスティアはバルドを見る。視線を向けられた家宰は少しだけ肩を竦めて、舞台のあらすじを聞いた感想です、と言った。
「執着は、悪いことでしょうか」
「対象と程度によるでしょうねぇ」切れ者の家宰はさらりと回答を返す。
 対象と程度、小さく呟いて数瞬だけ考えを巡らせるように自分の唇に触れたあと、アグスティアは、尋ねた。
「では、なぜ、ひとは執着するのでしょうか」
「執着する対象が、そのひとにとって大事なものだからですよ」
 打てば響くといった調子で応え、家宰は青眼鏡を押し上げた。
「執着するほど大事なものがふたつあって、けれどそれが成立しないときは、どうしたら良いのでしょうか」
「貴女がいう、それが成立しないとき、とはどういう意味です?」
「大事などちらかを守るために、どちらかを犠牲にしなければならない状況がもしあったとしたら、どうすればいいのでしょうか」
「それは、たとえば、親友と恋人が同時に海に落ちた。だがしかし、あなたはどちらかひとりしか助けることができない。そんな状況ですか」
 言い直したアグスティアの問いを、青眼鏡の家宰は例え話で解釈してみせる。
 はい、とアグスティアは頷いた。強い風に、彼女の金髪が流れている。
「ならば、より大事な方を選ぶことです。簡単でしょう? こういうものは考えれば考えるほど迷いますから、直感的に選ぶことが、コツといえばコツですかねぇ。まあ、考える時間があるのなら、後悔をなるべく小さくするために熟慮に熟慮を重ねるのも、良いのかもしれませんが」
「そうですか……、でも」
 言いよどんだ近衛に、青眼鏡の家宰は微苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
「答えになっていませんか? はは、そうかもしれません。結局、自分にとって大事なことは自分で決めるしかないのですよ。」
「実は私は、未だに何がいちばん大事なものなのかが、よくわかっていないのです。いえ、より正確に言えば、わかっていたつもりだったけれど、最近になって実はわかっていなかったことと知ったのです」アグスティアは、ともすれば風に吹き飛ばされそうになる自分の髪を押さえた。「二十年以上も生きて、おかしいですよね」
 バルドは鋭い眼で一瞬だけ値踏みするようにアグスティアを見たが、すぐに視線を外して、慰めるように言った。
「人生はひとそれぞれです。立ち止まって自分を振り返るというとはいくつになってもあることだと思いますし、そのときに、今まで見えていたつもりのものが靄の中に隠れるように見えなくなるということもあると思います。むしろ貴女の悩みは、ごく自然なものだと思いますよ」
 はい、とうなづくアグスティアだったが、思案顔のままだった。
「――ところで、シェルシマ殿下が襲撃された日のことですが」
 突然、バルドが話を切り出した。こちらが本題なのは明らかだった。
 アグスティアは申し訳無さそうに顔を伏せ、気落ちした声で語った。
「――そのことは、申し訳なく思っております。近衛の自分が至らないばかりに敵による殿下への襲撃を許してしまいました」
「まあ、普通の状況ならばその責任を問うところですが、今回の場合は。貴女の責任が大きいとはいえません。殿下は、夜間の貴女の警護自体を――警護控室を殿下の寝室の隣にすることも、不眠番として扉の前に立たせることも拒否したのですから。あまつさえご自身の自室に鍵すらかけていない。間抜けなことですがね。あえて言うなら、シェルシマ殿下ご自身に一番の責任、またその状況を許した私にも責任の一端があります」
「恐れ多いことです」アグスティアは頭をさらに下げた。
「私が聞きたかったのは、別のことです。つまり、侵入者を手引きしたのは誰なのか」
 アグスティアは緊張の面持ち、畏まった姿勢で答えた。
「――私には、見当もつきません」
 それでは、と青眼鏡の家宰は言葉をつなげる。
 そして、ここに続けられた話は、突拍子もない内容だった。
「このバルド=ネビリムが、侵入者を手引きした、と貴女は考えませんか?」
 胸に手を当て、自らを指し示す青眼鏡の家宰の言っていることが一瞬理解できなくて、アグスティアは眼を数回しばたたせたが、家宰が本気で問いかけていることがわかり、彼女も真摯に問いに応える。
「……バルド様は、この名誉あるハノン=トゥーレ家の家宰にあられる方です。そのようなことは――」
 だが、金髪の近衛の回答を、最後まで言わせずに、バルドは鋭く言葉を挟む。
「何故、疑わないのです? 貴女の役割は近衛です。であるならば、誰がこの家の裏切り者なのかを考え、そしてすべての人間を疑うべきです。私を含めて。
 何故なら、それが職務だからという理由以前に、貴女自身の身が危険だからです。ひょっとしたら、その裏切り者は、シェルシマ殿下を襲う前に、その周辺にある障害、つまり貴女を――取り除こうと考えるのが自然でしょう。従って貴女は犯人の目星をつけ、自衛のためにも毒殺や暗殺に備えるべきです。
 だが、それをしないということは、貴女がよほど自分の実力に自信があるのか――」
 最後に放たれたバルドの言葉には、断罪の宣告のような響きがあった。
 いつもよりもさらに重いバリトン。
「もしくは、貴女がすでに犯人を知っているのか」
 そのときの家宰には、平素の飄げた印象はまったくなかった。
 狼のように、疾く、鋭く、相手の喉笛を確実にえぐり取る冷酷さすら伴っていた。
 青眼鏡の家宰に気圧されて、アグスティアはすぐに応えることができなかった。
 厳粛さすら漂わせる家宰を前に、うろたえる、と言っても良いほどに逡巡する金髪の近衛。そのとき、秋桜をかきわけるようにして、小太りの警士がふたりの元へと走ってやってきた。よほど急いできたのか、口を大きくあけて苦しげに喘いでいる。そしてようようにたどり着くと、まだ息が整いきらないうちから、報告を始めた。
「バルド様、捜索を命じられていた、例の旅商人を発見致しました。任意にですが、当館に連れて参りました」
 そうですか、と応えるバルドを、ご案内いたします、と小太りの警士が招く。
 青眼鏡の家宰はひとつ頷き、身を翻しかけたが、今一度アグスティアへと向き直った。
「話の途中ですが、急用が入ったもので。ここで失礼させてもらいますよ。今の話は、職務上の質問ですから、気にしなくても結構です」
 それを聞いてほっとしたのだろう。アグスティアは安堵したという表情で、素直にはいと頷く。青眼鏡の家宰は立ち去りかけて、そうそう、と手のひらを拳でぽんと叩きながら、また振り返る。
「先ほどの、大事なものを選ぶという話。ひとつ伝えるのを忘れていました」
 はい、とアグスティアは聞く姿勢を取る。
「さきほどの喩え話には、恋人か友人かどちらかしか助けられない、という前提がありました。その前提を覆すために、できる限りあがいてみる、という選択もあるのですよ。もちろん、自分の命も危険でしょうし、最悪の結果もあり得えますが」
「前提を覆すために、あがいてみる……」
「そうです。貴女が何に悩んでいるかは知りませんが、少しは参考になれば幸いです」
 恐れ入ります、とアグスティアは頭を下げた。
 バルドは軽く手を挙げてそれに応え、先行した警士の後を追う。ふたつの人影が館へと向かい、揺れる秋桜の園の中に、アグスティアが一人残る。



                     ■□■



 邸内の赤絨毯が敷かれた廊下を、家宰補佐役のカミルスは、両手に書類束を抱えて憂鬱そうに歩いていた。秀麗な黒眉を中央によせ、悩ましげな縦皺を浮かべている。
 その彼の背中を、軽く小突く者があった。
「カミルス。不景気そうな顔してるのね。今日はこんっなにいいお天気なのに」
「マーシャか……」
 呼び止められたカミルスは、立ち止まって振り向いた。呼び止めた声の主は、白エプロン姿の家事女中。腰に両手を当て、ペールブルーの大きな瞳でカミルスを見返している。
 まあ、と意味の無い曖昧な返事をしながら、カミルスは確かに不景気だと小さく溜め息をついた。

 襲撃者を手引きした人物を探せというのが、カミルスが受けた家宰バルドの指示だった。
 状況から見て、その人物は当時邸内にいた人物、つまり使用人である可能性が高い。カミルスは、家宰の指示に忠実にしたがって、犯人探しをすべく使用人たちの調査を続けているのだが、今のところ一向に目星がつけることができないでいた。
 まずは鍵を開けたと推定される時間帯の使用人たちの行動を確認ところ、対象の時間帯が夜間と言うこともあって、眠っていたという回答しか得られなかった。これでは、すべての人間に犯行の可能性があったことになる。また、不審な物音を聞いたなどという、何かしらを推測させてくれる情報もなかった。何の手がかりもないままでは終われないと考えたカミルスが、食い下がって質問すると、中堅メイドの一人であるグラディスはこう答えた。
「眠っていたから、何もわかりません。話せることなんてありませんよ。同室の子が本当に眠っていたかって? さあ、わかりませんね。私も寝ていましたし、誰かが用足しに行ったことまで、いちいち確認しなければいけないんですかね?」
 誰もが等しく無実であるようにも思えるし、逆に誰もが怪しいようにも思える。この事件の手がかりを見つけ出すことは、藁の山から針を探し出すように難しいことのように感じていた。

「ちょっとカミルス、聞いてる? 眠いの? 昨日、ちゃんと寝た?」
「聞いているよ。大丈夫」
 カミルスはそう答えたが、実際はうわのそらだった。
(いったい誰が、襲撃者を手引きしたんだろう……)
 考えを巡らせていると、ごつっと堅いものがカミルスの額を打った。
 マーシャがまるで分厚い板を打ち抜きでもするように、彼の額を突いたのだ。思いきり腕を伸ばして。
 額を抑え、うめくカミルスの背中に、家事女中の声がかけられる。
「お聞きなさいってば。別にあたしは世間話がしたかったわけじゃなくて、あんたに伝言があるの」

 彼女曰く、例の行商人が、今この屋敷にきているという。

 それは本当の話か、と何度も念を押したあとに、カミルスは礼もそこそこにして、屋敷の廊下を駆け出した。
 ようやく手がかりを手に入れることができた。
 解決の糸口の出現に、廊下をいく家宰補佐役の青年の足は今、風のような速さでまわっていた。