集まってきた各地の鳥の代表を前に、女神は凛として強く迫った。「鳥の一族よ、どちらかを選びなさい。貴方がたが持つ、空を翔ける翼と、翼を休めるための足と、どちらが貴方がたにとって真に必要なのかを。天と地と、どちらが貴方がたにとってより重要なのかを」






7.『蒼穹と大地と』



「面舵だ、早くしろ! 三角帆を出せ、風を受けるんだ……ばかやろう、違う、そっちの帆は風を抜いておくんだよっ!」
「避けられんっ、当てられる!」
「のろまノーヴめ! やっぱり、陸のやつは陸に居りゃあいいんだよっ!」
 その口の悪い船乗りは、ノーヴ旗艦の船乗りで、レンザ同盟から傭われている男だった。そして彼の言葉を最後に、ノーヴ帝国艦隊旗艦『クロニクル』の横っ腹に、ヴァレス王国旗艦ラティーナの舳先が激突した。
 舳先に仕込まれていた鉄杭が食い込み、ふたつの軍艦が接続された。続けて、ヴァレス王国の旗艦から、次々と鉤付きのロープや梯子・渡り板が放られ、二船のつながりはますます強くなっている。
 口の悪いノーヴ旗艦の船乗り、オーデン=バルトロは屈辱に歯噛みした。こんなに無様に船をぶつけられたのは初めてだったからだ。歳は10を少し越えたころから船に乗り始めた彼は、若いながらに操船技術に長け、めきめきと頭角をあらわして、20を越える前に小さい船ながらも船長を任されるようになった。別に船員たちに好かれるタイプではなかったが、的確な判断力と冷静さで信望は厚かった。
 その彼が、ノーヴ艦隊の旗艦に乗ることになったのは、少しの転機があった。彼の母国が、ノーヴ帝国と従属同盟を結んだのだ。
 彼の母国は大陸西部の北側にある海洋沿岸にある小国だった。その近辺の国々はレンザ同盟という商業同盟を形成していて、海運通商が盛んだった。一方で、完全な内陸国家だったノーヴ帝国は、海洋に関する知識も経験も技術保有者も不足していた。そこで、ノーヴ帝国は従属させた国家の中で、海洋技術に詳しいものを集め、傭いあげた。口の悪いオーデンも、そのひとりだった。歳は、30になるかならないかの頃だ。
 その意志に沿わないながらも、傭われたオーデンに与えられた任務は、操船経験者としての旗艦の操縦指揮だった。船長は、別にノーヴ帝国の士官が務める。そして、同じようにして半ば無理矢理に傭いあげられてきたレンザ同盟の船乗りは他にもかなりの数がいた。ノーヴ艦隊旗艦クロニクルに限って言えば、船乗りの3割はレンザ同盟出身者が占める。残りの7割は、ノーヴ帝国の人間だった。
 彼は、ノーヴ帝国が嫌いだった。理由を挙げようと思えばいくつでも挙げられそうだが、彼はそれをしない。ノーヴ帝国が嫌い。故に命を預けるに値しない。それ以上の理論は、彼には存在しなかった。いつでも命がけの船乗りの理論は、数が少なくそして単純であればあるほど良いと彼は思っていた。
 いいや、彼だけではない。このノーヴ艦隊に搭乗するレンザ同盟出身の連中は、表向き従順を装っていたが、すべからくノーヴ帝国を嫌っていた。
 船乗りオーデンは今、旗艦クロニクルに、ヴァレス王国海軍が続々と乗り込んでくるのを目の当たりにしている。そして、そのヴァレス軍を迎え撃つべく、ノーヴ帝国軍が盾と矛を構えている。
「俺には関係ないね」
 レンザ同盟出身の船乗りオーデンは呟いた。ノーヴ帝国は嫌いだし、ヴァレス王国は同じ海洋国家として共感はあるが、命を呉れてやるほどの義理もない。どちらが勝とうが負けようが、興味もない。ただ、戦闘に巻き込まれて自分が命を落とすはめになることは心配だった。
「おい」
 傍らにいた同じレンザ同盟出身の船乗りに、指だけで指示をする。それだけで相手は委細を承知したようで、頷いて駆け出した。オーデンもその後を追う。彼らは、仲間を集めて、緊急用の短艇で脱出するつもりだった。


                            ◆◇◆


 まさか、という想いでセレーネは目の前の光景を見ていた。ぶつかってきたヴァレスの旗艦から、白兵戦を挑むべく兵が乗り込んでくる。そしてたちまちに、そこかしこで剣戟の音が鳴り、魔術の応酬が始まった。
「予想外ですな」
 傍らの参謀長が言った。それはセレーネも同じ気持ちだった。ヴァレス王国軍が、まさかここまで乾坤一擲の勝負に出てくるとは、思ってはいなかったからだ。両軍の旗艦同士の一騎打ち。陸戦に直せば、総大将同士の一騎打ちということになるだろう。通常は、こんな危険が大きい戦術は選択しない。これでは、博打そのものではないか。
 そして、セレーネが、ヴァレス王国軍の中に彼女らしき者の姿を艦橋から見止めたとき、背筋が凍るほどの衝撃を受けた。
 彼女。ファリナ=ヴァレス。セレーネの妹にして、現ヴァレス神聖王国国家元首。
 国家元首が一騎討ちに加わるなど、もちろん、常識では考えられない。異常という言葉でも語れない。つまり、今目の前にある光景は、異常を通り越すような事態だ。
「無謀すぎる――」敵の事ながら、思わずセレーネは呟いた。
 それとも、何か考えがあるのか。セレーネは考えを巡らせる。かつて、川を背にして陣を布き、兵を死に物狂いに追い込むことで、1万の兵をもって敵の10万の大軍を破った名将がいた。ファリナは、その真似をしているのかもしれない。
 その考えは、すぐに確信に変わった。敵旗艦ラティーナの船尾から、炎があがったからだ。おそらく、自ら火を放ったのだろう。退路を無くし、自分たちより限界まで追い込もうとしている。
「……そこまでして、私の首が欲しいのね」
 余人には聞こえないように、小さな声でセレーネは呟いた。
 彼女が居る艦橋の下では、戦いが続けられている。ヴァレス王国軍の士気は旺盛だった。兵たちは仲間を討たれても、その死体を乗り越えて剣を振るう。
 そこに、報告が入った。
 レンザ同盟から傭っている船乗りたちが、反乱を起こしたという内容だった。旗艦から脱出しようとしていた船乗りたちをノーヴ帝国の士官が見咎め、押し問答の末、今は武器を手にしながらの揉み合いに発展しているらしい。
 セレーネの周りにいた参謀士官たちはさすがに動揺した。いかにノーヴ帝国軍が強いとはいえ、中に火種を抱えたままで外敵と戦うのは困難を極める。そして、火種のうちに消し止めなければ被害が大きくなる可能性がある。
 だが、セレーネはこの報告で逆に冷静になれた。戦うノーヴ兵たちに迷いがある気がしていたが、その謎が解けたからだ。
 この旗艦だけでも、レンザ同盟出身の船乗りは、300人はいる。彼らにこのタイミングで一斉に蜂起されれば、鎮圧には時間がかかるだろう。
 ならば、多少の戦力低下に目を瞑っても、反乱分子を切り離した方が、結局は効率がよい。
「彼らに一時離船を認めます。ただし、離船の際、非戦闘員や傷病者の退避任務を条件とすること」
 セレーネがそう命じたとき、他の参謀士官はあっけに取られた顔をしていたが、報告兵は敬礼したまま命令を復唱し、急ぎ身を翻した。事態が長引けば大ごとになると報告兵なりに肌で感じていたのだろう。
 そして、セレーネは、
「出ます」
 そう短く宣言すると、セレーネは、戦場に行くべく艦橋を降り始めた。レンザ同盟の船乗りたちが離船し、戦力は減り、士気も低下している。師団長自らが兵を励まし、指揮を取る必要を感じていた。
 そして、セレーネの省略された宣言の内容を理解した参謀士官たちが、慌てて彼女の後を追う。


                           ◆◇◆


 ファリナは、わずかな近衛兵に守られながら、敵旗艦クロニクルの中を移動していた。船内は敵味方入り乱れての混戦の状況を呈していた。ファリナは何度か声をあげて味方の兵士たちに檄を飛ばした。この女性国家元首直々の激励に感激し、戦闘員である兵士たちだけでなく、非戦闘員として旗艦ラティーナに乗っていた水夫たちも、武器をとってノーヴ帝国軍に戦いを挑んでいる。ヴァレス王国軍の士気は異常に高く、旗艦同士での戦いは、ヴァレス王国軍がやや優勢だった。
「ファリナ様、あまり前に出過ぎないでください」
 声とともに盾を構えたジークヴァルドが前に出て、敵兵が繰り出してきた斧撃を受けた。そして盾の表面で刃を滑らせて相手の体制を崩すと、接近戦用の剣であるグラディウスを横に一閃した。その長くも短くもない中途半端な長さの剣は、敵の喉笛を切り裂いた。血飛沫をあげて敵が倒れる。
 ファリナは腰に添えていた右手を離した。腰には、鈍く黒光りする鉄の塊がある。火薬銃だった。魔力ではなく、火薬で放つ型のものなので、魔術を使える者でなくとも誰にでも使える。ファリナは魔術を使うことができるが、魔術器具よりも誰にでも使える機構の道具を好んでいた。
 そして、剣戟と血の喧騒の中、ファリナは見覚えのある姿を見つけた。周囲にいるのは士官だろうか。『彼女』は、揃いの黒の軍服を着た男に守られるように周囲を固められていた。
 そして、『彼女』も、ファリナに気がついたようだった。
 同時、ファリナの周りにいた近衛兵たちと、『彼女』――セレーネの周囲にいた参謀士官たちとが、各々の得物を手にして飛び出し、切り結び始めた。互いに至近距離のために魔術は使えない。
 ファンファーレのように始まった戦闘の騒ぎを背景にして、二人のかつての姫君は静かに見詰め合った。
「――来たのね」
 セレーネは自分の髪に手を入れ、言った。指を離した髪が、音が聞こえそうなほどにさらさらと落ちる。
「ファリナ。貴女なりの、答えが出たのかしら?」
 ええ、姉さま。
 ファリナは意志のこもった迷いの無い目で頷く。
「人間が主役として生きる姉さまの理想。ある意味で正しいと思った。正直、魅力的だと思ったし、実際、その理想に惹かれもした」
 ファリナは、正直に気持ちを吐露した。そして何かの迷いを振り切るかのように大きく息を吸い、緊張で固くなっている肺を膨らませた。
「けれど、私たち人間は、万能じゃない。だから、神に祈るしかないときもあるし、祈ってすがるしかないこともある。そして、そうやって神に祈って日々を過ごすひとがこのヴァレス王国に数多くいることを知っている。――だから、私は姉さまの理想には従えません」
 ファリナは真っ直ぐに姉を見据えている。セレーネは黙っているが、語り続ける妹から視線を逸らしていない。
 ――ファリナは、言葉を続ける。
「そして、何より、信じるものを放棄することは、誰かから押し付けられるものじゃない。ただ自分の自由な心で、信じるものを決めるだけなの。――私は、その自由な心を守らなければならない。守りたい。だから――」
 そうして、ファリナは腰の剣を抜き放った。細身の刺突剣が、しゃらりとかすかな金属音を立てて陽光を浴びた。
「だから、わたしの出した答えをかなえるために、あなたを討たねばなりません」
 対するセレーネも、腰の剣を抜いた。やや反りが入った片刃の剣には、細かな彫り細工が施してあった。こつり、こつりと軍靴の踵を響かせながら、戦うのに充分な空間を取るべく移動する。
「神は、ヴァレス王国に昔から存在し続けてきたわ。そして、今、この国に生きるひとたちにとって、神という存在は自分自身と不可分になってしまっている。長く一緒に居た為に、もうわけることができないほど一緒になってしまっている。けれど――」
 語気強くセレーネは叫ぶ。
「それを振りほどき、一歩を踏み出さなければ人間は独立できない! 自由を得ることができない! 子が親の庇護から離れるように、神のその手を振り解く強さが人間には必要なのよ!」
「それは、誰にでもできることではないわ。私は守りたいだけよ、姉さん。もはや神とは別れることができないほどの時間を生き、神に祈る人々の、その気持ちを」

 言って。
 ファリナは爪先で分厚い木甲板を蹴った。
 突き出した刺突剣はしかし。
 セレーネに軽くいなされる。
 きぃん、と金属同士が撃ち合わされる音がした。
 ファリナは青色のマントを翻し、立ち位置を変えて、再びセレーネと相対した。

「それは、弱さだわ。弱さを認め受け入れいては、前に進めないのよ、ファリナ」
 体は自然体、剣は右手に下段に構えて攻撃の体勢ではないが、しかしセレーネの目は鷹のように鋭くファリナの動作を捉えて離さない。ファリナは、自分の動悸が早まるのを自覚する。それでも、言葉を口にする。
「そう、彼女たちは弱いのかもしれない。でも、私は彼女たちの選択が、自分の心から出てきたことを願うの。今この時間に、大地で、生きて、笑って泣いて、それでも一生懸命に日常を過ごすひとたちを。姉さん、貴女がかつて捨てた人々を−−」
「ファリナ」セレーネの声が、威圧するように重くなった。「貴女は、どうして理想を追わないの? ただ生まれて、ただ生きて、それで満足? それが自分の生だと胸を張って言えるような、輝ける生き方なのかしら? 人は理想を持たなければ禽獣同然だと、何故思わないの?
 貴女ならば、この世界の歴史を変えることもできるはず。それだけ恵まれた地位と力を持っているわ。なのにどうして、それをしないの?」
 セレーネは下段に持っていた剣の切先を持ち上げ、すっとファリナへと向けた。
 そして断罪するかのように、セレーネは発問した。
「才能の怠慢は、罪よ! 万里を翔ける翼を持ちながら、広大な蒼穹を飛ばない鳥が居て?」

 セレーネの詰問と同時。
 ファリナは体勢低く飛び込み、渾身の力を篭めて切り上げた。
 セレーネは剣を鋭く振り下ろす。
 鋼が交錯し、切り裂くような高い金属音と、青白い火花が飛んだ。

「貴女は空を見ていない」
「姉さまは地を見ていない」

 互いの言葉が、そして互いの射抜くような視線が、互いを強く貫く。続けてファリナは、2、3度と細身の刺突剣を突き出したが、いずれもセレーネに軽くいなされた。
 8年前に国を出奔した当時から、セレーネは『剣姫』の異名を取るほどに剣技に優れていた。この剣姫にとって見れば、それなりの訓練をしたことがあるとは言え、ファリナの剣など素人同然だろう。それはファリナ自身でも感じているところでもあった。
「まだまだっ!」
 叫ぶと、セレーネは続けざまに剣を2閃した。ファリナはかろうじてそれを弾くと、慌てて後ろに退がった。――相手は剣姫だ。剣で対抗するのはまずい。
 そのことをファリナは、頭ではなく生物としての根源的な次元で理解した。背筋に恐怖が張り付くように切迫する。自分の体が、切られれば壊れるものだと当たり前のことを再認識する。今は警鐘とばかりに激しく脈打つ心臓が、他人に容易く止められてしまうものだと自覚する。そして、心臓が止められたことすら自覚できないことがあるのだと思う。他人から殺害されるというのは、つまりはそのようなものだ。
 だが剣姫は、小鳥を捕食する猫のように、退がったファリナに容易く追いついてきた。剣姫のふたつばかりの歩みで、ファリナはセレーネの攻撃範囲に入る。
 追い詰められた。ファリナは咄嗟に、持っていた刺突剣を――投げた。
 セレーネは俊敏に反応し、投げつけられた剣を叩き落とす。
 投げた刺突剣は牽制。
 ファリナは腰のホルダーに素早く手を回すと、銃を振り上げ、セレーネに銃口を向けた。
 照準する暇はない。
 引き鉄をひく。
 火薬が炸裂する意外に軽い音がするのと、セレーネがファリナの脇をすり抜けたのは、ほぼ同時だった。
 次の瞬間、ファリナは自分の左腕に猛烈な熱さを感じた。どくりと体中の血が波打ち、足元からちからが抜ける。

 どさりと奇妙に重さのある音を立てて、すれちがいざまにセレーネに切り落とされた、ファリナの左腕が落下した。

 白い肌から流れ出した熱い血が、甲板に広がっていく。
 まるでお茶の入ったグラスを落としましたとでもいうように、血の動きは劇的でもなんでもなかった。ただ、ファリナは何が起こったかを理解することで必死だった。そして理解するごとに、左腕の違和感が激痛に変わっていく。
「ああああっ!」
 残った左腕の二の腕を抑え、ファリナが悲鳴をあげて膝を折った。
「――もう、お芝居は幕ね」
 セレーネは言って、ファリナの血糊が残る片刃の剣をゆっくりと振りかざした。