5. 『そしてかの教師は曖昧に笑う』
魔術の無機質な光が洞穴のような通路を照らす。
黒猫は軽いリズムで図書庫へ続く階段を降りている。その後ろについて、アッシアはひたすらに段を飛んでいた。通路は不潔とまではいかないが、清潔とはいえない。魔術の白い光に照らされて、剥き出しの岩レンガに付着する埃にかびに何の汚れかわからないしみ、結露の水滴。光に驚き逃げていく小さな虫までがはっきりと見える。
「こんなところに文献書籍が保管されているとはな……」
「名前は大層ですけど、実質はただの倉庫ですからね」
黒猫の呟きに、黒縁眼鏡の教師は答える。どうやら猫の体の構造ではゆっくりと階段を降りる方が骨らしく、次々に段を駆け降りる黒猫を追って、アッシアは駆け足で進む。
あっという間に、一人と一匹は開け放たれた図書庫の扉に到達する。
「見ろ。どうやら生徒たちはすでにここに来ているみたいだぞ」
「扉ぐらい閉めていけばいいのに。まったく、行儀が悪いなぁ……」
猫は開かれた扉に残る、鍵の外された錠前を見て、アッシアは軽く息を切らしながらやれやれと首を横に振る。そして、音も無く歩く猫に従って、彼は図書庫に入った。
古代のものとことを調べることを専門にしているアッシアは、何度かこの図書庫に足を運んだことがあった。そのアッシアですら、図書庫の広さは改めて圧巻だった。魔術の光を当てればようやく見える天井は、跳ねたぐらいでは到底手が届きそうに無いほどに高い。視線を水平にすれば、白く無機質な光が当たる範囲に陳列棚が並んでいる。古代物を収めた棚たちが自分に向かってパレード行進を進めているような錯覚を、アッシアは覚える。
興味深い古代物を眺めて歩きながら、アッシアは広大な図書庫の照らしきれていない闇を思う。今、魔術の光で辺りを照らしながら生徒を探して歩く自分たちの姿は、闇の海の中を漂うひとつの明かりのようなものなのだろう。
光は微力だ。アッシアはそう思う。
光は闇を照らす。しかし、照らしたところで、何がわかるというのだろう。闇の中のものを見ただけでは真実を知ることはできない。そして、光は人を誤解させる。光は一面しか照らさない。光は、光が当たっていない場所を照らせないのだ。ならば、光によって示されるものは物事の一面に過ぎない。
光は、光を当てた以外の場所を暗くするという能力を持つ。
ならば全てを照らしてしまえばいいかと言えば、そうでもない。明るすぎる光の中では、逆に何も見えない。ホワイトアウト。強すぎる光の中では人は物事を見ることができないのだ。ホワイトアウトの世界では、光と闇の役割は逆転することだろう。闇が光を覆い、事実を見せてくれる。
闇のままでは真実は知れない。しかし光を当てても、見えるのは一面でしかない。
ならば、闇に光を向けることにどんな意味があるのだろうか。
「アッシア。この先に――誰かいるぞ。話し声がする」
数歩前を歩く猫の声で、アッシアは我に返った。
「え、えっと――」
そのとき、意味のないアッシアの言葉は、鋭く強く空間に響いた女性の悲鳴で遮られた。
思わず、アッシアは歩みを止めて闇の天井を見上げた。それで何がわかるというわけではなかったが。
「今のは……レクシア女史?」
「こっちからだ」
冷静な声とは裏腹に、弾けるように黒猫が駆け出した。あっという間に更に小さくなったその後ろ姿を闇に見失わないように、アッシアも慌てて駆け出した。
■□■
「うぅーん」
手燭を前方へとかざして、細身の少女が唸る。彼女がきょろきょろと辺りを見回すたびに、束ねた髪の尻尾がひょこひょこ動く。そして一度屈み込んだ後、棚の裏に回りこんだあと、またひとつうぅんとリーンは唸った。
「調べるって言ってもさー、一体何を調べたもんなんだか。変なものって言ったらここにあるものはみんな変……ってちょっとパット、聞いてる?」
聞いてるよ、と返しながら、赤毛の少年はふわぁとひとつあくびをした。
「あんたさー、さっきから明らかに気を抜いてない?」
同い年の従妹の指摘に、抜いてない抜いてないとパットは手を振って、言った。
「ただ、周りが真っ暗だから眠くてさ」
「物凄い宵っ張りのくせに、何言ってんのよ」
「宵っ張りだから、宵になる前に眠気がくるんだよ」
またくだらない冗談ばっかり――リーンが唇を尖らせる。
「でも真面目な話さ、リーン、あの話ってどこまでが本当なんだ?」
「あの話って――図書庫の怪談話のこと? 全部本当よ。ただ言い回しが違うだけで、カヴリーロさんが言ったまんま」
「じゃあさ」言いながら、パットは棚と棚の間の細い通路へと折れる。「お前はどこらへんまで本当だと思った? 図書庫の管理人の――カヴリーロの話を」
「どこら辺って……」眉根を寄せながら、リーンはパットの後に続いて歩く。「全部かなぁ、やっぱり」
「全部ってことはないだろ」パットは簡単に否定する。
「全部は全部よ。だいたい、カヴリーロさんはそんな嘘吐くような悪い人じゃないわよ」
「でも、わざわざ図書庫まで足を運んでくれた15歳の女の子に、ちょっと面白い話をしてあげようと思うくらいのサービス精神の持ち主ではあるだろ?」
そりゃ、まあ、ねぇ。そうリーンが答える。
「だったら、そこら辺から推測して、話が誇張されすぎてた心当たりがリーンにあるんじゃないか、って聞いてるのさ俺は」
「気に入らないわね、そういうの」リーンが、ぼつりと呟く。
「何がさ?」パットが聞き返す。
「そーやって疑って、楽しい気分をぶち壊しにしようとしてるじゃない。そういう考え方って面白みが無いわよ。黙って騙されてやろうとか、そーゆー器が無いわけアンタには?」
「現実は往々にしてつまらないものだと思うけどな」
「そういうのをぐっと飲み込んで騙されてこそ……って、ねぇパット」
擬似双子の妹が、後ろから無造作にぐっと兄の襟首を掴む。急な張力に喉を閉められた同い年の兄が、ぐぇっと不恰好に喉を鳴らした。げほげほと咳き込んで気管の回復を待つパットに、リーンが言う。
「あれ、なにかな」そういって、彼女は白い指を伸ばした。
「おまっ……ごほっ、ごほっ、畜生、ごほっ。……ん何だよ、急に」
「こんなときにゴリラの真似なんてしなくていいから。ほら、あれよ、あれ!」
彼らがいる場所は本棚が途切れ、横糸となる通路と繋がる細い十字路だった。その横糸となる通路にひとつ、本棚に立てかけて、人がうずくまったような形の影がある。パットは手燭の光を投げかけるが、擬似双子たちの居る位置からそれがなんであるかを判断できるほど、光は強くなかった。
近づいて調べてみよう、と言ってパットは黒い影に向かって進む。それについて行きながら、リーンが口を開く。
「あ、それから、さっきのゴリラの真似、似てなかったからみんなの前ではやらないほうがいいと思うよ」
「そういうやんちゃ過ぎる感性は、早めに治したほうがいいと思うぞ……」
振り返って、パットは同い年の妹を一度睨んだ。
そんなやりとりの数歩で、双子たちは黒い影の正体の前へと立った。
「これって……袋よね」
「まあ、袋だよな。それ以外にはちょっと見えない」
まるで本棚の陰に隠すように、麻糸で織られた袋が無造作においてあった。袋の口は麻の紐でぐるぐる巻きにして縛られている。
こうした無造作な置き方からして、図書庫の保管品では無さそうだとパットは思った。
「あれ」くんくんと、リーンが鼻を鳴らす。「臭うね、これ。なんだろう……すえた臭いがする」
「本当だ」赤毛の少年はリーンと同じように鼻を鳴らす。「何が入っているんだろうなぁ」
「開けてみよっか」言うが早いか、リーンは屈みこんで袋の口の紐をほどきにかかっている。
「袋を開ける、って路線には賛成だけど」言いながら、パットはふわふわと赤毛を弄る。「袋の中に入っているのは幽霊の種かもしれないからね」
赤毛の少年の言葉に、細身の少女はぴたりと動きを止める。顔を同い年の兄へと向ける。
「それって…………死体が入っているってこと?」
「さあ?」パットはわざとらしく一拍置いた。「まあ、入っていてもおかしくない大きさだよね、この袋」
黙って、リーンは立ち上がった。
「パット、開けて」
「なんでだよ。だいたいお前が開け始めた……」
「お願い」
弓形の眉を中央に寄せて、リーンはまるで子犬のような表情をした。パットは肩を竦めると、手燭を床に置いて、袋をほどきにかかった。
しばらくして、はらりと紐がほどけた。
パットは袋の口をしっかりと支えて、リーンに命じる。
「リーン。明かりくれ。中が見えない」
言われたリーンは手に持つ手燭の光が袋の中に落ちるようにしながら、おずおずと袋の中を覗き込む。
がさがさと、しばらく袋を揺すってから、ぽつりとパットが結論を口にした。
「生ゴミだな」
「林檎の芯に豚の骨に……確かに、生ゴミね。生活感たっぷり」
嫌悪を表情にはっきりと見せながら、リーンが同意する。そして、双子は呟く。
「「……どうして、こんなところに?」」
うーん、と両者は首を捻る。
図書庫中に響き渡ったレクシア女史の悲鳴が二人に聞えたのは、このときだった。
■□■
薄闇の中で刀を振り上げて、蓬髪の男は笑っていた。頼り無い灯りに照らされて、ぼうと闇に浮かび上がる刃は肉厚の、長い鉈ともいえる形をしていた。高く高く振りかぶられた刃が、骨を断とうかという勢いで、小柄な少女の背に向けて振り落とされる。
「ヴェーヌ、跳んで!」
そのとき、レクシアに出来たことはそう叫ぶことだけだった。
セドゥルス魔術学院は、魔術の平和利用をその創立理念に掲げている。
が、しかし、現実には世間では魔術は有効な武器として扱われている。立派なお題目を唱えるこの学院でも、その現実は無視することはできなかった。
故に、この大陸西部にある他の魔術教育機関と同様に、この学院においても武術一般は必修科目になっている。強力な火力である魔術の使い手は、強力な戦闘者でもあるという一般の常識の呪縛がいかに強いかの証左でもある。
現在6号生であるレクシアとて、約5年という長い時間を通して、一通りの戦闘訓練を授業科目として学んできていた。どんなときでも咄嗟の対応ができる――そのはずだった。
蓬髪の男を見ることができた。彼女の視界は明瞭だった。
しかし、レクシアは体を動かせなかった。指一本ですら。
――狼狽している。
そう認識することが第一歩だった。それでようやく、体が動いた。
その間に、刃が小さな天使とも思える少女へと振り下ろされる。
その刃は、ひどくゆっくりと動いているようにレクシアには思えた。
肉厚の長い鉈が闇に描く軌跡まではっきりと認識できた。
ほぼ垂直の軌道。
刃を闇に走らせる蓬髪の男は、血走らせた目を大きく見開いている。
――きゃっ
短く叫んで、ヴェーヌが地面に転がった。
同時に、ぎぃんと音がして、男の刃が石の地面に跳ねた。
青い火花が散った。
ヴェーヌは男の刃をかわしたのだ。
レクシアは素晴らしき僥倖に感謝しながら、片手をついて閲覧机を飛び越えた。
僥倖は二度は無いと思いながら。
「ヴェーヌ!」叫ぶ。
蓬髪の男は、二撃目のために再び刃を振りかぶる。
ヴェーヌはまだ立ち上がれない。
――間に合わない!
直感のまま、レクシアはヴェーヌを庇うように蓬髪の男の前に立った。
そこでレクシアの持ち時間が終わる。
レクシアはこれから来る痛みを覚悟して、目をきつく瞑ろうとした。
ごつっ、と音がした。
そして、蓬髪の男は刃を振ることもせずに、ぐらりと揺れた。
(――な、何?)
レクシアには何が起こったかは理解できなかったが、
(とりあえず――)
そう胸の中で呟きながら、蓬髪の男の腹に正面から蹴りをくれてやった。
男はぐはっと空気を吐き、よろよろと三、四歩下がった。その男を、さあっと白い魔術の光が照らした。光が飛びこんで来た方向に、ひとつの人影。
「アッシアせんせぇ!」
ヴェーヌが、歓喜の声で現れた人影の名前を叫んだ。
「や、やぁ……」
絶好の時機で登場した教師は、何故か歯切れ悪く、冴えない返事を寄越した。
角眼鏡の女生徒は、自分の足元に分厚い一冊の本があることに気が付いた。彼女は、おそらくアッシア教師がこの本を蓬髪の男に投げつけてくれたため助かったのだと察した。彼女は一度教師に感謝の視線を向けると、すぐさま警戒の視線を長鉈を持つ男に向け、大きく息を吐いて自分の鶴の如き首をつるりと撫でた。時間の流れが正常に戻ったことを、彼女は感じていた。
何故か足元に黒猫を従える学院教師は、右掌を蓬髪の男へと向けた。そしてめいっぱいに声を重くして、警告を発した。
「セドゥルス学院教師、アッシア=ウィーズだ。……学院教師特権に基づき、君を不法侵入……と、対生徒傷害未遂の現行犯、そして学院所有物窃取の疑いで捕縛する。君は、抵抗しなければ危害は加えられることはない――」
そんな学院教師の精一杯威厳をつけた言葉は、突然の叫びで中断された。
「ウォ……ウォォォォオォ!」
まるで獣のような声かすれた高音でひと哭きすると、蓬髪の男はアッシア教師に向けて切りかかった。
「うわ?」
ふいをつかれた学院教師は、ややへっぴり腰で後退し、屈み、仰け反りして男の刃をとにかくかわす。標的にかわされた肉厚の刃は石畳にぎぃんと火花を散らし、閲覧机を削り、最後に本棚の本を斬った。ばらばらと日に焼けた紙が床へと舞い散る。
蓬髪の男は血走らせた目で教師を睨んだ。
アッシア教師は再び制止を試みる。
「ま、待て――君の目的は――うわっ?」
制止の言葉を吐きながら鉈の一振りをさらに後退してかわして、アッシアは床の紙に滑った。咄嗟に本棚を掴んで転倒は防いだが体勢を崩して隙を見せたことを彼は自覚する。
そしてその隙を逃さず、蓬髪の男は宙を漂う文字の載った紙ごと、刃を振り下ろそうと振りかぶる。
しかしその瞬間、教師が従えていた黒猫が、蓬髪の男の顔面に飛び掛った。
男はうろたえ、また獣の如く唸り、顔にしがみつく猫を空いた手で振りほどこうとする。
「ウ、ウゥゥウウゥォォォォ!」
その声に負けじとしたのか黒猫が、
「フニャァアァ!」
そうひと鳴きすると、黒猫は男の顔面から飛び降りて、ふわりと優雅に閲覧机に降り立った。
その黒猫の動きを、蓬髪の男は首を動かして視線で追う。そうして猫が長鉈の届く範囲にいることを確認して、彼は鉈を振りかぶる。そして蓬髪の男の膝が――突然、がくんと揺れた。
長鉈を持つ男の動きが止まったその一瞬に、アッシア教師は魔術文様を空中に展開した。周囲を傷つけないように配慮された、威力が絞られた魔術。
文様に魔力が注がれ、発動準備完了を示す淡い光が灯る。
「――飛槌の衝撃!」
アッシア教師の呪文と同時、衝撃波が蓬髪の男を揺らし、震えさせ、最後に吹っ飛ばした。男の体が派手な音を立てて後方の本棚へとぶつかり、重量ある頑健な書棚を揺らした。
魔術の直撃を喰らって男は気を失ったのか、口元からだらしなく涎を滴らせ、糸が切れた操り人形のように冷たい床に崩れ落ちた。
それに少し遅れて、同じように吹っ飛ばされて本棚に突き刺さっていた長鉈が石床に落ちる。
からぁん、と乾いた音が静かな空間に響いた。
「これが幽霊の正体、ってわけか……。とんだ枯れ尾花だな」
やれやれと、アッシア教師が呟いた。
再び訪れた静寂を乱すように、遠くからばたばたと足音と双子たちの声もする。距離があるのか、反響して何を言っているかまでは聞き取れない。
「申し訳ありません……助かりました、先生」
「ありがとうございましたぁ」
ほっとした調子で、レクシアとヴェーヌが頭を下げた。
「ま、まあ……はは」
生徒たちに頭を下げられたアッシア教師は、何故か、曖昧に笑った。
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