1. 『フィールドワークの本質は遠足だと思います』


 アッシア教師のウィーズ教室一行は、山道を歩いていた。
 季節は初夏に入り、太陽の陽射しもそれなりに眩しい。まばらに繁った木の葉がその光線を遮ってはくれるが、それだけではアッシアには足りなかった。いや、もっと言えば、もし太陽が顔を覗かせていなくても、アッシアは今のような状況だっただろう。今のような状況とはつまり、滝のように汗を滴らせ、呼吸は荒く、足取りは重く頼り無く、眼は半分塞がっている。そういった状況だ。黒縁眼鏡の冴えない教師は、山道をふらふらと、実に頼り無い足取りで歩いていた。
「先生、大丈夫ですか? 乗り合い馬車の停留所まで、もう少しですから、頑張ってくださいね」
 アッシア教師の後ろから女の子の声がする。彼女はもう15歳なのだから少女では幼すぎる気がするが、女性と呼ぶにはまだまだの年齢である。外見や言動を見れば、まだまだ少女、と言った方が当たっているだろうか。
 そんな細身の女の子、リーンはアッシアの教室に籍を置く3号生だった。彼女も足取りは軽くは無いが、アッシアほど疲労困憊しているわけでもないようだった。今日は、色素の薄い黒い髪はひと束ねにみつあみにし、先の方に赤の細いリボンをつけて、胸に垂らしている。服装もいつもの制服ローブではなく、赤いチェックのシャツ、黒いベルトにベージュのスラックスと、私服だった。そして、背中には大きいリュックを背負っている。
 リーンの背負うリュックも大きかったが、アッシアの背負うリュックはさらに大きい。リュックはアッシアの総体積よりも明らかに大きい。横幅もある。ちょっとした小山を担いでいるようなものだった。アッシアが後ろを見ようとしても、首を動かしただけでは後ろは見えないだろう。
 とにかく、はあはあぜいぜい言いながら、アッシア達は山を東に下る。どうしてアッシアは小山を背負って山道を行かねばならないのか。その理由を説明するには、一週間前に遡る。



 一週間前の教室。この日も、気持ちよく晴れた日だった。
「えんそく、ですかー」
 ヴェーヌ少女の反唱に、リーンはさらに嬉しそうに言った。
「そ、遠足。我らがウィーズ教室にはね、授業をお休みして、夏休み前に遠足があるのよ。その遠足の後に夏休み。遠足、夏休み。楽しいことが繋がってるのよ。私はこの遠足・そして夏休みセットのためにウィーズ教室に入ったようなもんなんだから」
「うわー、なんだか、楽しそうですねー。」
 金髪の少女は、顎の下で両手を合わせて、僅かに首を傾げてにっこりと微笑んだ。
「楽しいのよー。期間はね、場合によって長かったり短かったりするけど、移動も含めて大体一週間くらいかな。この前なんて、きれーな湖で泳いだりしたんだからー」
「泳いだのは、リーンだけだろ」
 と、会話に割り込んできたのは、赤毛の少年だった。頬杖を突きながら続ける。
「あの行事に水着を持ってくる奴なんて、おまえだけだよ」
「でもパットは魚釣りしてたじゃない。木の枝で即席釣り竿作って」
 即座にリーンは言い返したが、機嫌が良いのか、その声には険らしきものはまったくなかった。パットも赤毛をかきかき、まあな、と同意する。パットとリーンは従姉弟同士で同い年で同じ家名、そしてしばしば息のぴったりと合った行動をするのでこの教室で双子として扱われている。
その双子の赤毛の兄が、何かを思い出すように上を見ながら言う。
「移動中は宿に泊まるし、遺跡につけばキャンプだから食事なんかも皆で作るし、食材も現地調達することもあるな。まあ、楽しいっちゃ楽しいよな。皆とも普段しない話とかもできるし」
「そうそう、それにね……」
 そのとき、ばんっ、と教壇の机を叩く音がした。
「おまえたちは、まったく」
 その音と声に反応して、三人の生徒は一斉に前を向く。
「アッシア先生。そうか、いたんだ」「忘れてたわ」
「そんな、ひどいですよ、お二人とも……」
 ヴェーヌ少女が双子をたしなめる間にも、ばんばんと2回、アッシア先生と呼ばれた黒縁眼鏡の教師が机を叩く。生徒たちはのんびりと私語を交わしているが、実はホームルームの時間だった。
 その音に、教室の窓のところで日向ぼっこをしていた黒猫が、反応した。「クロさん」という、ウィーズ教室で飼われている猫である。しかし一度教師と生徒たちをちろりと見ると、また再び日向ぼっこに戻っていった。興味がないようだった。
「いーか? 一週間後に行くのは、遠足じゃない、フィールドワーク。フィー・ル・ド・ワー・ク。わかるか?」
「似たようなもんじゃないですか」
 アッシアの言葉に即座にリーンが言い返す。違う、全然違うとアッシアがまた言う。その声音には、なんだか苦渋の色が浮かんでいた。
「この教室で言うフィールドワーク、というのは、未調査遺跡に行って調査して、その調査結果をレポートにまとめる、という作業のことだ。そしてそのレポートは古代学の前期試験の代わりになるんだよ。親睦目的の楽しいだけの遠足とは全然違う」
 学術目的なんだ。そう主張するアッシアは、半分教壇から身を乗り出している。しかしリーンは視線を上に向け、白い顎に指を当てて平然と言う。
「でもぉ、半分、というよりも9割以上、先生の趣味みたいなもんじゃないですか。一昨年なんか、先生だけがのめりこんじゃって、自分だけ期間延長してましたよね?」
「う、それは……」
「でもって調査対象がマニアックで難しすぎて、真面目にやってもやらなくてもレポートの内容には差が出ないって言ってたじゃないですか。かろうじてまともなのは学年首席レベルの頭脳を持つレクシアさんのレポートだけなんでしょ? でもそれで皆落としちゃうのは学院の上の方ににらまれちゃうから、結局みんな評価は優。湖で泳いで遊んでいた私ですら優。このよーにもはや前期試験の代用にはなっていないのに、毎年続ける理由は何か?」
「いやだってさ、そりゃ、仕方がないじゃないか……」理由にならない理由を、黒縁眼鏡の教師が苦し紛れに呟くが、リーンはあっさりと無視した。
「やはりこのような行事の本質が、遠足だからではないでしょうか」
 きっぱりと、授業中では見せることのない、てきぱきとした物言いでリーンは主張した。姿勢を正して真っ直ぐ言ってくる少女の主張に、アッシアはあう、と言うだけで反論することもできずに黒板に向けて後退した。
 そのとき、からり、と教室の扉が開いた。
「まったくもー、何くだらないこと真面目に主張してるのよアンタは」
 リーンに向かってそう言いながら入ってきたのは角眼鏡の女生徒だった。
 女性にしては長身な角眼鏡の生徒は、艶やかな長い黒髪を頭頂で結い上げて白い首を露出させていた。彼女はこの教室の副クラスリーダで、レクシア女史と敬称されている。
 臨時補習で遅れました、と一言アッシアに向けて言うと、レクシアは自分の席に座りながら口を開いた。
「前期試験直前の一週間が潰されるってのに、よくもまあ遠足だなんて悠長に言っていられるわね」
「だって私一夜漬けとか得意な人だし、勉強期間が長くても短くてもあんまり関係ないの。レクシアさんだって、そんなこと言う割にいっつもすごく成績いいじゃない」
 リーンの返答に、レクシア女史はさして面白くなさそうな表情をして、日頃の努力よ、と返した。
「それよりも、一週間も学院を離れるから、他の授業の調整が大変なのよ。臨時補習を願い出たりしてね。私がこのホームルームに遅れた理由だってそれよ。今だって、ワスリーもエキアもいないでしょう」
 あまり良い生徒とは言えない黒髪の少女に向けていた苦い声音から一変して、レクシア女史は事務的な口調でアッシアへと言葉を向けた。
「先生、というわけで出張科目の調整がどうしてもつかないので、私は1日ほど出発が遅れます。申し訳ありませんが、遅れて合流することになると思います」
 頷くと、アッシアははあ、と軽く溜息をついた。
「そうか、レクシア女史もか……」
「他にも遅れる人がいるんですか?」
 教師の呟きを聞きとがめて、レクシア女史が質問をする。アッシアはああ、と答えた。
「ちょうどここに居ない奴等だな。ワスリーと、エキアも出発が遅れるらしい。エキアなんかは出発が2日遅れになるから、昼夜通して進む強行軍になるって言っていたな」
 それを聞いて、えーエキア先輩遅れちゃうんですかぁ、とリーンが不満げな声をあげる。そこに、パットが手を挙げて発言した。
「あ、先生。俺も遅れますんで」
「えー! パットが? なんでよー!」
 そう言葉を返したのは呼びかけられた教師ではなく、双子の少女の方だった。目を細くして笑うと、赤毛の男は器用に青い片目を瞑って言葉を返す。
「俺にだって調整のつかない授業くらいあるのさ」
 ぶぅー、と不満げに声を立てる双子の少女の横で、ヴェーヌ少女が挙手して発言する。
「せんせー、こんなにみんなの予定が合わないとなるとしゅっぱつを延ばしたほうがいいんじゃないでしょーかー。」
 その提案はもっともなようにも思われたが、アッシアは首を横に振った。
「駄目だ。出発を遅らせれば帰りもそれだけ遅くなる。今以上試験準備期間を潰すと、上に睨まれるんだ。それに、もう学院に申請は出してあるし、今更予定は変更できない」
「ええー! じゃあ、予定通りに出発するのは私とヴェーヌちゃんだけ?」
 リーンが、形の良い眉尻を下げて唇を尖らせた。
「まあ、たった1日さ。すぐに合流するからさ」
 パットがさらさらの赤毛の後ろで手を組んで、船漕ぎしながらのん気に言う。
「ヴェーヌちゃん、たった二人っきりだけど、私たち強く生きていこうね!」
リーンが、泣き真似をしながらひしりとヴェーヌ少女に抱きついた。



 そして−−フィールドワーク出発初日。
 ひいこら言いながら、アッシアは山道を歩く。次から次へと汗が吹き出てくるので、ときおり首から下げている白いタオルで顔や首筋を拭く。そうやって汗を拭うたびに、アッシアはバランスを崩して左右に揺れるが、だからといって誰かに迷惑がかかるほど交通量のある山道ではなかった。タオルでは拭けないリュックが当たる背中の汗が、この教師にとって実に不快だった。
 山道はセドゥルス学院から幹線街道に出るまでの道のりである。山脈の中という辺鄙なところに学院があるため、街へと出るときはこのように山道を歩かなければならない。不便なところにあるだけに、学院自体は様々な自己供給機能を備え小都市化していて便利なのだが。
 とにかくにも、まだ学院から出たばかりだというのに、アッシアは疲れていた。それは馬鹿の如く多い荷物のせいだったのだが、その疲れは一行の最後尾を行く男子生徒にも同様だった。
「せんせぇぇい。この荷物、いつもの年より多いんじゃないですかぁぁぁ」
 情けない声をあげながら、車輪のついた荷物パックをがらごろと引っ張っているのは、遅れて出発するはずのパットだった。出発の前日、何故か不機嫌そうな顔で、都合がついて予定が空いたから、とアッシアに申告して、彼は通常通りの参加となったのだ。
 パットは上着を脱ぎ、白い半袖シャツをさらにまくって肩の筋肉を見せながら、テントだの寝袋だのが入った荷物をがらがら引きずっていた。
「毎年毎年、荷物重いけど、こんなに重かったことなかったですよぉぉぉ」
「別に多くなぁい!」
 アッシアは返事をする。ただし、背負う荷物が大きすぎて後ろを向けないため、その分大声を張り上げる。
「荷物は野宿一式と調査用器具一式で例年と変わらずいつも通り!」
「そんなぁ、信じられませんよぉぉぉ」
 もはや半無きに近い状態で、パット。
「いつもはぁぁ、エキアに重い荷物を持ってもらってたんだぁ! あいつ、見かけによらず力持ちだからぁぁ!」
「畜生!なんだってあいつ、遅れたりするんだぁぁ!」
 もはや完全な愚痴を、声を張り上げてパットは叫んだ。
「ちょっとー。みっともないわよ。男の子でしょ、頑張んなさいよ」
 軽薄な調子で言ってくる双子の相方であるリーンを、パットはいつもは愛嬌のある目を険しくしてぎろりと睨む。重い荷物を持って歩き続けているので、汗で赤毛がしんなりとして額に張り付き、息も荒れてまるで鬼の如き形相となった。そんな彼の雰囲気に圧されたのか、リーンがやや引きながら言った。
「な、なによ。言っとくけど、手伝えないわよ。私だってもうほとんど限界なんだからね」
 言われて、それももっともだと思ったのか、パットはそれまで無言で歩き通しだった金髪の小柄な少女に視線を向ける。
「わ、わたしも、もうむりですぅ……」
 鬼気迫る視線に気付き、ブルーのリボンのついた帽子の広いつばと白い手で顔を隠すようにしてヴェーヌがうめいた。
ヴェーヌ少女は13歳だが実に小柄なので、体と荷物とで相対的に比較すると荷物の方が大きいような印象を受ける。分担している荷物は多くないが、それでも彼女にとっては限界だろう。だが、屈強な男だったら、荷物だけではなく少女ごと盗んでいけるのではないかと思われたが。
 そしてパットは二人の少女に荷物を振り分けることを断念し、その怪しい光の篭る眼差しを、前方の黒猫へと向けた。クロさんという名前の黒猫は、アッシアのすぐ後ろをてってっと実に身軽に歩いている。もちろん、その背には何も無い。
 その猫を、パットは怨念すら篭めてじっと見つめる。
「いや、それは無理でしょアンタ」
「まさに、猫の手も借りたいっていうじょうきょうなんですねぇ」
 リーンとヴェーヌが、冷静に突っ込みを入れた。
 初夏の空は、どこまでも青い。木々を伸びやかに育てる健康的な光が、苦行の山道に満ち満ちていた。