４． 旅先の夜、教師と生徒が
振るった手刀が、虚空を真横に切り裂く。
続けて吐息と共に左手を突き出し、間をおかずに放った蹴りは雑草の頭を撫でた。じっ、と擦れた音がした。そしてすぐさま後退して距離を開き、魔力を注いだ攻撃魔術の文様を展開する。相手に決定的な打撃を与えることができる攻撃手段。魔術。
と、そこで魔術は放たずにヴィー・ズィーは動きを止めた。
ふぅ、と息をついて額の汗を拭う。秋ではないので虫が鳴く訳ではないが、その辺を漂う小さな羽虫がうっとおしかった。こんな旅先にダンベルなど持ってきているはずもなく、かといって雑草の中で腕立て伏せもしたくないので、結局彼女は体を動かす手段としてシャドウトレーニングを選んだのだった。仮想の敵を頭の中におき、組み手を行う。
シャドウトレーニングでいつも彼女が想定する敵は、顔のないただの影だ。それには当然人格も無いし、感情も無い。しかし、今夜は違った。自分の担任教師に紹介された、あの冴えない印象の男性教師。その男が、自然と思い浮かんだ。
（アッシア=ウィーズ。レイレン=デインかもしれない男）
『かもしれない』という単語は必須だった。まだ確定したわけではない。しかし、自分の仇に至るための手掛かりが他に何も無いという現実が、ヴィー・ズィーの心をはやらせていた。感情の中で保留に予断が勝つようになっている。つまりは、『かもしれない』がさしたる根拠もなく、『そうに違いない』に変わりつつあった。
だが、それも当然だとヴィー・ズィーは思う。７年間憎みつづけてきた相手、その当人かもしれない人間が、突然登場し、同じ屋根の下にいるのだ。平静でいられる人間のほうが、きっとどうかしている。
そう考えながら、冷たく透明な夜気に向けて、突きを打つ。蹴りを放つ。ヴィー・ズィーはとにかく無心になるべく体を動かしていた。
だから、その男が月明りのもと、白くペンキを塗られた宿の陰から出てきたときは本当に驚いた。最初見たときは、ヴィー・ズィー自身が作り出した幻かと思ったほどだ。
どうやら、その男性教師は風呂上りに黒猫を連れて、夜の散歩を楽しんでいたようだった。まだ生乾きの黒髪に手を遣りながら、やあ、と挨拶をしてきた。ヴィー・ズィーが答えずにいると、下草を踏みながらヴィー・ズィーの方に近寄ってきた。
「こんばんは。こんな夜中に宿の裏庭でトレーニングなんて、熱心だね。ええっと……」
「……ヴァルヴァーラ=ズボォーチカです」
「そう、ヴァルヴァーラ。すまない。別に悪気は無いんだけど…」
「良いんです。名前を覚えて貰えないのには慣れてますから。アッシア教諭も私のことはヴィー・ズィーとでも呼んでください」
アッシア教師は苦笑したような顔を見せて、じゃあそう呼ばせてもらうよ、と言った。
「その……さっきも言ったけど、ヴィー・ズィーは本当に熱心なんだね。こんな旅先に来てまでトレーニングだなんて」
「力が要るんです」ヴィー・ズィーは射抜くように黒髪の教師を見る。「どうしても」
「力が？ どうして？」
「私の父を殺した男を殺すために」
「……復讐？」
「そうです」
そうか、と言って男性教師はヴィー・ズィーから視線を外した。その視線の先には、宿の裏庭にある疎林と、欠けはじめた月がある。
教師の視界に入っていないことを良いことに、ヴィー・ズィーはアッシア教師を観察する。先程はあたふたとして落ち着きの無い印象だったが、今こうして改めて見るとそうでもない。薄茶の眼には静かな光があるし、一枚着ただけらしい白いシャツを通してそれなりに鍛えられた筋肉が見える。そして決して大柄ではないが、小柄でもない。中肉中背、標準的な体格だと言えるだろう。
そこで、ヴィー・ズィーはふと思った。この男に訓練を装って攻撃を仕掛けてみたらどうなのだろう、と。エマ先生に先程聞いたところによれば、アッシア教諭は必修科目である武術格闘の授業を担当していないらしい。しかし見たところでは、武術格闘に向かないような体つきをしているわけではない。
弱いのならば問題無い。しかしそこそこ強いのであれば、それは何故強さを隠すのかという疑問に繋がる。その疑問は、この男がレイレン=デインであるという疑惑に繋がるものなのではないだろうか。
その仮説を確かめるべく、ヴィー・ズィーは口を開いた。やってみるぐらいの価値はあるだろう。
「……アッシア教師。お願いがあるのですが」
「ん？ 何？」
どうやら彼も何かを考えていたようだった。ヴィー・ズィーの言葉に急にこちらの世界に引き寄せられたようで、少しの間だけ目の焦点が充分に合っていなかった。
「先程からイメージトレーニングをしていたのですけれど、どうも上手くいかないんです。それで、アッシア教師に組み手のお相手をお願いしたいんです」
「組み手？ 今、ここで？ い、いや、僕は古代学が専門だから、そういったものは……明日、エマ教師にでもお願いしたらどうだい？」
そうアッシアは言った。しかし、ヴィー・ズィーはその提案を受け入れようとはしなかった。黒い瞳に意志を篭めて、アッシアを強く見つめてくる。小さな褐色の左手を握り締めて、右手で自身の柔らかそうなベージュ色の運動服を掴んでいる。
態度は控え目ながらしかし、強い意志で要求してくる少女に、アッシアは心中で溜め息をついた。
恐らく彼女は、学院教師であれば武術一般に通じているのだと思い込んでいるのだとアッシアは思った。そしてその認識というのは概ね正しいとも彼は思う。
魔術師とは強大な武力である魔術を行使するものであり、その強大な武力を充分に生かすために体術などの武術も学ぶのが通例である。だから、一般には優秀な魔術師、学院教師、強力な戦闘者の三項は等号で繋がれる関係なのだ。
けれど、例外もある。
アッシアはその例外だった。アッシアには戦えない理由がある。
「すまない、僕は、そういうのは駄目なんだよ」
アッシアの拒否は、ヴィー・ズィーの持つ疑惑をさらに深めた。
拒否してきた。しかしこれは予測できたことだ。
ヴィー・ズィーの頭の中でそう声がする。
こうなったら、無理矢理にでも。そう、どうあっても正体を確認するのだとヴィー・ズィーは決心した。
「いえ。是非、今、ここで。お願いします」
ヴィー・ズィーは腰を落とし、半身になって左手を上げ、構えをとった。
「否、ちょ、ちょっと待って」
「……いきます」
そして、ふっ、という息吹と共に、ヴィー・ズィーは下草を蹴った。
■□■
二人の間にあった距離は、およそ三歩ほどの距離だったとアッシアは思った。
その距離を、褐色の少女は一瞬で無にした。そして突撃の風を纏ったままで、褐色の左掌を抉るようにアッシアの脇腹に突き込んできた。それをアッシアが何とか右肘で防ぐと、ベージュの運動服が踊るように跳ね上がり、少女の身体が腰を軸にして独楽のように縦に回る。頭上からまるで袈裟切りのように肩口に向けて打ち込まれてきた少女の左足を、アッシアは左篭手を右手で支えて受けた。
みしり、という骨が軋む音が聞えるかのような、重さが乗った回し蹴りだった。
その音と共に、アッシアは、自分の記憶の蓋がずるりと開くのを感じた。
頭の中に、過去の声が、過去の風景が、展開される。
――ここが戦場だ、アッシア。ここが、お前の居場所になる場所だ。
――儂も、お前の兄も、お前も、ここで生き、ここで死ぬ。
血が。屍が。主知らずの手が。剣が。
見開かれたまま、閉じられることないの目が。
動かぬすべてが僕を見る。
「ちょっ……」
次の少女の攻撃まで一瞬の間があったが、アッシアが一言放つ時間まではなかった。蹴り足を受けられた少女はその姿勢から身体を反回転させて、右肘を叩き込んできた。アッシアは半歩後退して、どうにかやり過ごす。
掠めた肘に、アッシアのシャツの釦が飛んだ。
しかし、その間にも、過去の記憶がアッシアを襲う。空耳が聞える。
――我が家に生まれた者の、運命だ。
「ま、待っ――」
あっという間に荒げさせられた息のせいで、コミュニケーションが素早く取れないのは、アッシアにとって致命的だった。もっとも、言葉を発すことができたたとてヴィー・ズィーと自称する少女が聞き入れるかどうかは別だったが。
そんなことを頭の片隅で考えている間にも、ずれてしまった記憶の蓋から、染み入るように次々に、映像がアッシアの意識に流れ込んでくる。
身を焦がす炎に悶えながらも、その男は手を伸ばしてくる。
――帰れるはずだった……お前さえいなければ。
その男の頭髪はすでに焼けて無い。
服も燃えつき、身体には既に炭化している部分もある。
死んでいてもおかしくない。むしろ、死んでいなければおかしい。
気付けば、頭髪だけではなく、唇も無い。瞼も無い。鼻も無い。皆焼けた。
しかし、白目を大きく露出した黒い目だけが、爛々と輝いてこちらを凝視する。
――お前さえ、居なければ
何故だ。何故こうなった。僕は、捨てたはずじゃないか。
――我が家に生まれた者の、運命だ。
違う、僕は家の名など捨てた、逃げ出してきたはずなんだ、なのに――
――どうしてこうなった？
ふっ――という息と共に打ち込まれて来たのは、少女の右掌だった。それを左肘で払うと、アッシアは反射的に払ったばかりの少女の手首を掴んだ。容易くは逃げられないように、握る手に力を込める。同時にアッシアは自分の唇を強く噛む。
褐色の少女の黒い瞳が、驚きの色に染められて、大きく見開かれた。
■□■
利き手を塞がれてしまったが、ヴィー・ズィーはそれに構わずに前に出ていたアッシア教師の右足を踏みつけた。いきなりの痛みに教師はその足を引く。
同時に腕を掴む力が緩んだのを感じると、右腕をつかまれた姿勢のままヴィー・ズィーは身体を沈め、鋭い足払いを仕掛る。それを、アッシア教師は両足で垂直に跳んでかわした。
手がつながれたまま技を出し、また捌くその二人の姿は、傍から見ればダンスでもしているように見えただろう。
馬鹿にされたような気がした。
そんなむっとした怒りを胸に感じながら、ヴィー・ズィーはかわされた左足を戻すと、今度はは中段に横蹴りを放った。
（これでどう？）
手を掴んだままでは絶対にかわせない蹴りだ。アッシア教師に手を放させるのが目的だった。しかし、かの教師は手を放して後退するでもなく、空いた手でガードするでもなく、ただ前に出た。ヴィー・ズィーの左腿が、黒縁眼鏡の教師の腰に当たった。蹴りをかわさずに相手の懐に入ることで、アッシア教師は蹴りの威力を大きく減殺させたのだった。
「くっ？」
右手が封じられさらに身体が密着する姿勢になって、自然、ヴィー・ズィーの取れる攻撃手段は圧倒的に少なくなる。どう攻撃するか一瞬迷ったが、間を与えないことが一番良いと素早く判断する。唯一自由になる左手を抜き手にすると、それをアッシア教師の喉めがけて突き出した。鋭い突きだったはずだが、それを黒髪の教師は目前で掴んで止める。
ヴィー・ズィーの、両手が塞がれた。
静寂の夜の空気に、二人の人間の荒い呼吸音だけが満ちる。しかし、緊張は解けていない。荒い呼吸の音が次の行動に備えるべく、なだらかな坂を下るように静まって、逆に緊張感に空気はどんどん硬化していく。
時間にすれば、一秒に満たない。
「さすが。でも、これで終わりだなんて、思わないでくださいね」
「ま、待ってくれ、も、もう……」
ヴィー・ズィーは、足をアッシア教師の膝に腹にと当てて、両手を封じられていることで生じる張力を利用しながら、一瞬の間に男の身体を駆け上がる。そして身体が地面と水平になった瞬間で、ボールでも蹴り飛ばすかの如く、アッシア教師の顎めがけ蹴りを放った。
しかし手応えは無く、蹴りは星浮かぶ天空を蹴った。
だが掴まれていた手を振り解くことには成功した。天を蹴った勢いのまま肩を軸にして、その場で宙後転して着地すると、ヴィー・ズィーはすぐさま次の行動に移るべく体勢を整える。
だが、黒縁眼鏡の教師は彼女の目の前にはいなかった。
背の低い下草が、冷たい微風にわずかにそよいだのが見えた。
身体を回転させた間に死角に回られたのかと思い、首を振って、さらに身体の方向も変えて、四方を見渡す。しかし、どこにも組み手の相手であった教師の姿は見えなかった。
「……逃げた？」
まさが学院教師になるような魔術師が、とヴィー・ズィーは思った。しかも口惜しいことだが、ヴィー・ズィーはまだアッシア教師に有効打をたったの一撃も与えていない。逃げるようなどこにも理由は無い。だが、他に現在の状況を説明できる仮説は無い。
「……どういう、こと？」
誰かが答えてくれるのを期待したわけではないが、ヴィー・ズィー呟いた。と、そのとき宿の裏庭に広がる疎林の茂みから、蛙が踏み潰されたときの鳴き声のような音と、猫の声がした。
不審に思い、ヴィー・ズィーは茂みの裏へと草を散らして駆けた。
するとそこには、先程まで拳を交わしていた男性教師が、茂みに向けて胃の中のものを吐き出しているところだった。
その傍には、闇に目を光らせた黒猫が、介抱するが如く寄添っている。
「……どういう、こと？」
ヴィー・ズィーは、また吐き気をもよおしたらしく、繰り返しえずく教師を見下ろしながら、先程と同じ返事の無い問い掛けを我知らず呟いていた。
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