8. 『復讐』
大事な話があるんです――。
「うん?」
ヴィー・ズィーに言われ、アッシア教師の発した声は、意味の無い音だった。事態を認識していないものが放つ種類の、平坦な声だった。ただアッシア教師と一緒に居た猫が、立ち上がってどこかへ去った。
ヴィー・ズィーはまず空気を吸って胸に塊を作った。心は意外なほど平静だった。そして彼女は、その塊を少しずつほどいて声にする。
「……先生は、誰かを殺したことがありますか?」
「ころした?」
その単語が理解できないとでもいうような驚きを含んだ声で、アッシア教師が繰り返す。当然といえば当然だろう。突然出てくるには、ふさわしい話題とはとてもいえない。
けれど、アッシアが驚き戸惑うその短い間に、ヴィー・ズィーは一歩、距離を詰める。
「7年前」そう言って、褐色の少女は立ち止まった。「7年前、教師になる前、先生は何をしていましたか?」
「……7年前?」
アッシアの表情が明らかに歪んだ。視線から力が無くなり、ヴィー・ズィーから目を逸らした。
「北王戦争が、ちょうど始まる頃です」
そのころは……、というアッシアの言葉を遮って、ヴィー・ズィーは言葉を続けた。
「質問を変えます。先生は、ドルカ=ズボォーチカという人間を知っていますか?」
「いや、し、しらない」
アッシア教師の言葉の動揺が、ヴィー・ズィーの疑念の昂揚を誘う。彼女の語気は荒くなった。
「では、先生の右腕には古傷がありますよね。火傷の痕。その傷はどうやってついたんですか?」
「こ、この傷は……」
僕の罪の証だ。
小さな声でそういうと、アッシア教師は視線をさらに伏せた。やや虚ろな目をして、右腕を左手で覆った。ヴィー・ズィーは顔を紅潮させながら、質問を畳み掛ける。
「では、先生は今まで何人の人を殺しましたか? そのひとたちはどうやって殺したんです? やはり魔術ですか?」
アッシア教師は無言で立ち上がった。表情に浮かんでいたのは驚愕と ――恐怖。
「どんな魔術を使うんです? 人を効率よく殺すために。やはり人体の急所を一撃で貫くような魔術なんですか? 」
自分の発する言葉で、どんどん感情が激していくのをヴィー・ズィーは感じていた。脳の一部が、焼けきれるかと思うほどに熱い。
「急所ってどこを狙うんですか? どこを狙うのが好きなんですか? 心臓? 頭? それとも首ですか? 魔術に飽きると、武器を使ったりもするんですか?」
「君は、ひょっとしてあの時の――彼らの――」
そう言ってアッシアはヴィー・ズィーに視線を向けた。雨に打たれた咎人のような、後ろめたさを持つ者の瞳。
直感的に広がる確信に、ヴィー・ズィーの感情が爆発して理性を吹き飛ばした。真っ白なイメージが彼女の脳内に広がり、頭の支配を失った体がただ激情の思うがままに衝き動かされる。
「やはり ――あなたが、私の父を殺したッ! そして私の――」
すべてを奪ったッ!
言葉と同時、仇と信じる男へ向けて、ヴィー・ズィーは跳躍した。
褐色の少女はたったの一息でアッシア教師の懐に飛び込み、彼の鳩尾に向けて、背筋の力をすべて伝えた両掌を押し出した。全身をバネにしたかのような衝撃を受けて、黒縁眼鏡の教師は後方へと大きく吹っ飛んだ。
(手応えが薄い! 自分で後ろへ跳んで勢いを殺したか、姑息な!)
ヴィー・ズィーの観測通り教師の受けたダメージは殆ど無いようだった。草の上を二、三度転がると、すぐさまアッシア教師は立ちあがった。
「ま、待ってくれ!」
「問答無用っ!」
アッシア教師がとった距離を無効にすべくヴィー・ズィーは既に駆け出していた。教師に届く二歩手前で背を覗かせて跳ね上がり、体を捻って左足の踵で教師の肩口に切りかかった。少女の蹴り足をアッシア教師は体を反らしてかわしたが、続く右足の第二撃に、彼は慌てて後退した。二歩、三歩、……五歩。
(距離を取ったって、無駄よ!)
ヴィー・ズィーは左手で肘を固定するようにして、右手を前に出した。魔術文様を空間に描画し、魔力を注ぐ。魔力を注がれた文様が、淡く紫色の光を放つ。
黒縁眼鏡の教師が投げつけてきた石つぶてを上半身の動きだけでかわすと、ヴィー・ズィーは魔術を放った。
「白き咆哮よ!」
ごぅっ、と音を立てて白い熱衝撃波がアッシア教師を襲う。白い輝きを破裂させて熱衝撃波は爆発を起こした。森の深淵を裂く眩い光に、ヴィー・ズィーは目を細める。魔術に手加減はしなかった。もし直撃したのならば、死んでもおかしくない威力だった。が――
「縛れ、戒めの鎖よ」
声がしたほうに顔を向けると、魔術で作り出された金鎖がヴィー・ズィーに向けて飛んで来ていた。
それを横っ飛びにかわすと、地面を転がって移動しながらヴィー・ズィーは新たな魔術文様を頭の中に編む。それを空間に展開し両手を突き出して、叫ぶ。
「狼牙の群れを!」
褐色の少女の掌の前に突如浮かんだ球から、魔力で作り出された鞭のようにしなる薄刃がいくつも飛び出して、前方の空間を滅多切りにするように叩いた。魔力の薄刃に薙がれ割られ抉られて、枝が落ち、土と共に下草が舞い、木が倒れる。
だが、この魔術をもアッシア教師はかわしたようだった。暗い森のどこからか、男の声がヴィー・ズィーへと呼びかけてくる。
「待ってくれ――話を聞いてくれ!」
「何を今更――」
叫んで辺りを見回すが、アッシア教師の気配はうまくつかめなかった。ヴィー・ズィーは歯噛みしながら、森の闇へと目を凝らす。
「あのときは――仕方なかったんだ! 僕だって――望んだことじゃなかった」
「五月蝿いッ!」
そう言ってから反射的に、ヴィー・ズィーは近くの茂みへと身を隠した。闇の中、アッシア教師は移動しながら喋っているようで、正確な位置を特定することができない。だが、アッシア教師はヴィー・ズィーの位置を把握しているようだった。自分の不利に、彼女は唇を噛んだ。そうして、前方の闇を見遣る。アッシア教師の生徒たちが居る、テントのある方向。
(手段なんて、選んでいられない)
この瞬間のためだけに、生きてきたのだ。
そう思うと同時、ヴィー・ズィーは魔術文様を思い浮かべて展開する。この魔術は脅しだ。威力は要らない。小さく、呟く。
「咆哮よ」
どうっ、と熱衝撃波が星空へと向けて飛び出す。小川を越え、生徒たちのテントの遥か上を越えてさらに行ったところで、有効射程を脱した魔術は淡く輝いて音も無く霧散した。
そして、ヴィー・ズィーは闇に向かって声を張り上げる。アッシア教師にならって、藪を伝いながら。
「さっきの魔術の意味はわかるわね――おとなしくでてきなさい!」
「君は――そこまでして ――」
また、どこからかアッシア教師の声がする。
「そうよっ! 手段が汚いなんて言わせない――私は、すべてを捧げるって誓ったのよ――あなたへの復讐のために!」
「復讐じゃ、君は幸せにはなれない」
「あなたがそれを言うのッ?! すべての元凶であるあなたが!」
「けれど事実だ――だから敢えて言う。そんなことを言う資格なんて無いのはわかっているけど、敢えて言う。復讐を果たしたって、君は幸せにはなれない。まして無関係の人間を巻き込んでいいわけがない!また憎しみを呼んで、今度は君が復讐されるだけだ――」
「わかっているわよそんなこと! でも、それがなんだって言うの。たとえまた復讐されるとしたって、護りたいと思うような私はもう無いのよ!まともだった昔の私は、もう無いの! とうの昔に、無くなってしまった! 今のまともじゃない私にあるのは、憎む心だけ!」
「ヴィー・ズィー、君は――」
「復讐には意味があるわ。あなたを殺せば、私はほんの少しだけ楽になれる。今よりも、マシになる。だから私に――」
殺されなさいッ、とヴィー・ズィーは叫んだ。
その声を呪文にして、彼女は魔術を放った。闇を白い光線が一閃し、藪から現れた人影へと向かう。
「金の盾よ!」
呪文とともにアッシア教師の目の前に金の盾が現れて、ヴィー・ズィーの魔術を阻んだ。轟音が響き、激突した魔術が荒れ狂うように光を垂れ流す。魔術の熱で生木が焦げて、薄い煙があたりに満ちた。
煙の薄膜を突き破って、ヴィー・ズィーは獣のようにアッシア教師に向けて突進した。だが進路に藪が散乱しているために速度が削がれ、彼女の到達が遅れた。その隙に、アッシア教師は褐色の少女の動きを封じるべく魔術文様を展開する。
「縛れ、戒めの――」
「遅いッ!」
ヴィー・ズィーは折れて落ちていた枝を投げて、アッシア教師を牽制する。魔術の発動が刹那分遅れ、その時間に褐色の肌の少女はアッシア教師までの到達に成功した。
そして、今までの勢いをたっぷりと乗せた少女の蹴撃が、教師を襲った。アッシアはその蹴りを十字篭手に受け止めると、後方へと跳んだ。その動きをヴィー・ズィーの蹴りが追う。中段、上段へと膝先だけで変化する蹴りをアッシア教師が受け止めている間に少女はさらに踏み込んで距離を縮める。
「はあっ!」
少女が腰溜めに突き出した右掌を、アッシア教師は腰を捻って皮一枚でかわした。服を擦る掌から伝わってくる威力を感じながら、アッシア教師は左手刀を上段から放つ。ヴィー・ズィーが頭を庇うべく反射的にかざした手には当てずに、アッシア教師は手刀の軌道を蝗跳びの如く変化させ、少女の首後ろへと手刀を向ける。
巻き込むように軌道を変えた教師の手刀をヴィー・ズィーは体を沈めてかわすと、後ろに飛んで距離を取った。黒縁眼鏡の教師も、褐色の少女の警戒した動きを確認して、後方へと跳んだ。
両者の距離が、大きく開いた。
が、手が届かない距離になったからといって、戦闘が間断されるわけではない。ヴィー・ズィーは咄嗟に魔術文様を頭の中に思い描いたが、発動はアッシア教師の方が速かった。少女は先手をとられたことを認めて、防御魔術に文様を組替える。
「―― く、鎖よ」
「母鳥の庇翼よ!」
ぶわりと、ヴィー・ズィーにかぶさるように魔術のシールドが出現して彼女を護る。しかし、アッシア教師の放った金の鎖は、ヴィー・ズィーには当たらなかった。代わりに近くの木に当たると、捕縛用魔術の金鎖は瞬時に巻きついて木を緊縛した。
(魔術を外した…? この距離で?)
訝ってヴィー・ズィーが目を凝らすと、星影の下、相手の教師がふらついているのがわかった。彼は、視線だけはかろうじてこちらに向けていたが、手で口を押えて、いかにも苦しそうに見えた。
勝算に胸を躍らせながら、ヴィー・ズィーは思い出した。正面に数歩離れた距離に立つ父の仇は、現在、どういうわけか戦うことができないのだ。より正確には、ほんの短い時間しか戦闘行為を行なえない。戦闘的な行動をとると、激しい頭痛と吐き気が同時にが襲ってくるのだと馬車の中で彼自身が言っていた。
どうやらアッシア教師は、頭痛と吐き気で集中が途切れ、魔術を使いこなせなくなっているようだった。先程魔術を外したのは、それが理由だろう。ヴィー・ズィーは唇を舐めて湿らせる。かさかさに乾いた唇が舌に張り付いた。
「これで終わり――すべてが終わりよ、レイレン=デイン!」
「レイレ……? ま、待つんだヴィー…君は…………ちがいを」
アッシア教師の言葉は途切れ途切れで、聞き取れないほど小さかった。もう言葉がまともに紡げないほど、頭痛と吐き気が高まっているのだ。
(勝てる…!)
勝利を確信して目を煌めかせ、ヴィー・ズィーは魔術文様を編む。そして攻撃手順を頭の隅で確認する。息を大きく吸って、魔術を発動させるべく呪文を唱える。
「獣の片爪!」
ヴィー・ズィーの声と同時、魔力で作り出された半月状の刃が空中に現れ、アッシア教師に向けて飛んでいった。黒縁眼鏡の教師は刃を迎え撃たんべく金環のカーテンを出現させるが、ヴィー・ズィーの放った刃は軌道を逸らして大きく曲がり、アッシア教師の横の木を切り抜けた。
一本足から切り離された木が、アッシア教師に向けて倒れる。重力に従った落下に、ざざざざ、と枝が鳴った。そして、鈍性の音を地面に響かせて、こんもりとした緑が地に倒れる。
アッシア教師が、狙い通りに後方に跳んで倒木を避けたのを確認すると、ヴィー・ズィーは急いで最大威力の魔術を編み上げる。今この瞬間、ヴィー・ズィーと緑の葉をつけた倒木とアッシア教師とが一直線で結ばれる位置関係にあった。
倒木でアッシア教師の態勢を崩し、かつ視界を塞いでおいて、倒木ごと魔術で吹き飛ばしてしまおうというのがヴィー・ズィーの狙いだった。今のアッシア教師の様子からして、倒木ごと吹き飛ばすほどの威力の攻撃を、彼の視界の死角から放てば防げない公算が大だ。防御魔術は恐らく間に合わないだろうし、間に合ったとしても充分な堅さを持った防御にはなりがたいはずだ。
空中に展開した魔術文様に、ヴィー・ズィーは魔力を注ぐ。巨大な文様に多大な魔力が注がれて、淡く紫色に光る文様は硝子を擦り合わせたような、ひそやかな高音を響かせた。
ヴィー・ズィーは、呪文を唱えるべく大きく息を吸った。
そして次の瞬間、緑の倒木に魔術の熱衝撃波が突き刺さり、炎上した。
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