9. 『心、融ける夜に』







「今の……魔術よね? 何が起こってるのかしら……」
 そう言ってリーンは、不安そうに破壊音が響く森へと視線を向けた。人の声もするようだが、距離があって誰が何を言っているかまではわからない。
 突然の轟音に眠りを遮られ、事態の異変を知ったリーンとヴェーヌは男性陣のテントの前へとやってきたのだった。だが肝心のアッシア教師は居らず、ただ赤毛の少年が眠そうな目をしばたたかせるばかりだった。その少年が、やはり眠そうな目をして言う。
「あれが魔術じゃなかったらびっくりだけどな。こんな森で発破工事なんてのも無いだろうし」
 そんなの当たり前でしょ、とリーンが言った。「どうでもいいけど、パット、あんたのその変な体勢はどうにかなんないの? なんだか違う生き物みたいで気持ち悪いんだけど」
「うるさいな。全身筋肉痛で立っているのもつらいんだよ。特に背中は、伸ばすともの凄く痛いんだ」
 パットと呼ばれた赤毛の少年の声が、リーンの腰あたりの高さから聞えて来る。パットは四足歩行の動物のように腰を丸め、足は真っ直ぐに伸ばせずに曲がり、だらりと垂れ下げた両腕は今にも地面につきそうだった。ただ顔だけは会話のために上に向けている。ガマカエルが二足歩行を試みようとしたらこのようになるかもしれない。
「でも、どういうこと? 先生がここにいないってことは、あの騒ぎは先生が起こしているってことなの?」
「そうかもしれない。でもわかんないな」
「それって、どういうことよ」
「今の状況じゃ何にもわかんないってことだよ。先生、トイレにでも行っているだけかもしれないしな。でも、あれだけの音がすれば必ず僕らの安全を確認に来るはずだから、それが無いってことは先生がそういったことができない状況に陥っている、つまり先生が騒ぎを起こしているか、巻き込まれている可能性が高い」
「パット」リーンが言う。
「なんだよ」従妹に呼びかけられたパットが答える。
「そんな体勢で真面目な話をされても説得力が無いわ」
「だからっ、仕方ないだろーが!」
 がばっ、とパットは立ち上がろうとして ――逆に座り込んでしまった。痛た、痛たなどと情けない声をあげている。その様子を見てリーンがしっかりなさいよ、と声をかけて、再び音のした暗い森へと視線を投じる。
「……ヴァルヴァーラもいないし、一体どうなっちゃっているのかしら……」
「あのぉ、まかせておきなさいと言われたんですからー。きっとだいじょうぶなんじゃないでしょーか」
 ヴェーヌが目を擦り擦り言う。普段余程健康的な生活をしているのか、どうやら猛烈に眠いらしく、この金髪の少女は先程から目を擦ってばかりいた。
「まあ、そうだな」草の上にあぐらをかいてパットが言った。「こんな事態で未熟な生徒の俺たちにできることって言ってもたかが知れてるしな。待っているしかない」
「でも、どうしてあの人、こんなところに来たのかな……」
 細身の自分の体を抱きしめて、リーンが言った。寝ていたために総髪にされている色素の薄い髪が肩で僅かに揺れた。
「何か事情があったんだろ? まあ馬上の彼女はレアだよな。眼福だよ」
 従兄にそう言われて、リーンは視線を森から反対側、テントの傍の草原へと向ける。そこでは乗り捨てられた一頭の茶毛の馬が、もくもくと草を食んでいた。
 その尻からぼとぼとと馬糞が落ちた。
 そんな様子を眺めたままで、リーンはぽつりと言った。
「……パット、そんなところに座ると、夜露でお尻が濡れちゃって冷たいでしょう」
「どうしてそういうどうでもいいことばかり気が付くかな、おまえ」
 もはや筋肉痛で立つのもままならないらしい赤毛の少年が、細身の少女をうらめしげに見た。



                           ■□■



 純白の熱衝撃波が、倒木を貫いた。洗練された、単純で力強い魔術。
 続けて凝縮された空間に起こった爆発に、ヴィー・ズィーは思わず息を呑んだ。
 白い光が球状に膨らんだあとに、紅い火炎が倒木を包んだ。
 突然の爆発に驚き、集中が途切れたために、最大威力で放つべく準備されていたヴィー・ズィーの魔術文様が、霧散して消えた。強烈な光から目を護るべく顔を覆った彼女の両腕に、爆発に天高く舞いあがった火の粉がちらちらと降りかかった。
「ヴァルヴァーラ!これは ―― 一体どういうことなんです!」
 火の粉が漂う空間に、女性の声が鋭く響いた。その声は、ヴィー・ズィーには馴染みのある声だった。そして、炎の赤い光に照らされて、倒木を焼いた魔術が撃たれたと思われる方向から一人の女性が現れた。
 彼女の赤みがかったブラウンの髪は、火の照明で鮮やかな紅色だった。彼女の纏う黒色の細身のパンツも薄紅の裾の短いシャツも、今は木を燃やす炎に赤く染め上げられている。
「ヴァルヴァーラ=ズボォーチカ。説明なさい ―― 今の状況と、どうしてこうなったのかを。教育目的を越えた教師への攻撃が、内部反逆罪に問われることを知らないわけじゃないでしょう?」
「エ、エマ先生……」
 年は7つほどしか変わらないはずだが、圧倒的な迫力を以って近づいてくる女性教師に、ヴィー・ズィーはうろたえた。先程の倒木を焼き尽くす熱量の魔術を放ったのは、間違いなくこの紅き教師だとヴィー・ズィーは確信していた。その理由は聞くまでもない。ヴィー・ズィーがアッシア教師を攻撃していることを完全に見切って、ヴィー・ズィーを止めるためにエマ教師はあの魔術を放ったのだ。
 また一歩、エマ教師はヴィー・ズィーへと歩を進める。
「セドゥルス魔導学院において、その構成員は、各自の出身国または現在地の法によらず学院の自治法に従わなければならない。そして学院上層部の判断を得ることが難しい状況において、教師はその司法権を代行することができる ――知っているわよね? ヴァルヴァーラ ―― つまりは教師に大きな裁量が認められている、ただそれだけだけのことだけど」
 気圧されて、ヴィー・ズィーが後ずさりしようしたそのとき、エマ教師は、
「動くな!」
 と警告を発した。そしてまた歩を進めながら、静かに続ける。
「……動かないで。そして逃げないで。お願いだから。もし貴方がそんなことをすれば、私は貴方を攻撃しなくてはならなくなる」
「………」
 構えを解くべきか、ヴィー・ズィーは迷った。辺りに意識を飛ばしてアッシア教師の気配を探ったが、何も感じられなかった。構えについての判断は保留にしたまま、ヴィー・ズィーはエマ教師に説明すべくとにかく口を開いた。
「私の、仇を見つけたんです。エマ先生」
「かたき?」エマ教師は、素直な目で聞き返してくる。「貴方の仇って、あの……」
「レイレン=デインです、エマ先生!」
「そのはずよね。大陸随一の暗殺者。でも、貴方が今攻撃していたのは、アッシア=ウィーズ学院教師よ」
「ですから、彼がレイレン=デインなんです!」
「え?」
 訝しげに ―― エマ教師はヴィー・ズィーを見返した。
「彼女――ヴィー・ズィーは、人違いをしているんです」
 その声は、アッシア教師のものだった。燃える倒木の陰から胃のあたりをさすりながら、よたよたと彼は現れた。
「ひとちがい? そんな ―― 嘘よッ!」
 ヴィー・ズィーは、すぐさま反応した。
「すまない。君に誤解を与えるような言動をしてしまったみたいで」
 じゃ、じゃあ――とヴィー・ズィーは食い下がる。
「腕の傷は――右腕の傷のことは、どうなのよ!」
「それは……ただの偶然だよ。君にはなんだか申し訳ないけれど」
「偶然だなんて、そんなの言い訳になるわけないじゃないッ!」
 叫ぶヴィー・ズィーに、冷や水を浴びせ掛けたのはエマ教師だった。
「アッシア教師はレイレン=デインじゃないわよ、ヴァルヴァーラ」
「先生も、あいつを庇うんですか!」
 そういうことじゃないわ、とエマ教師は苦笑した。今まで貴方に黙っていたのは悪いとは思うけれど――と、前置きして、ヴィー・ズィーの教師は言う。
「実は私は、レイレン=デインと面識があるの。だから断言できるわ。アッシア教師は、レイレンじゃない」
「そんな――」愕然としたように、ヴィー・ズィーが口を開ける。
「実は、北王戦争のときに、敵方の使者として訪れてきたレイレンを、応接したことがあるの。私は、貌形も体格も知っている」
 だから間違いないの。
 エマ教師はそう締めくくった。
 ヴィー・ズィーは瞳の色を無くしてふらりと揺れた。
「そんな――やっと――やっと終わると、そう思ったのに――私は――」
 そう呟いて、ヴィー・ズィーは脱力して地に膝をつけた。



                      ■□■



 自己紹介は、そうね、年と名前と……なんでもいいんだけど、将来の夢なんて聞いてみたいわ。
 樺色の髪に手を入れながら、これから担任教師になる女性はそう言った。
 私たち新入生は教室の教壇の前に立っていた。目の前には同じ教室の先輩達がずらりとならんで、皆、私たち新入りに好奇の視線を投げかけていた。
 そして私の自己紹介の順番が来て、私はまず長い名前と年齢とを言った。そして、話した。私の将来の夢を。
「レイレン=デインを殺して、復讐を果たすことです」
 それまで和やかだった教室の雰囲気が、一度に気まずいものに変わったことを覚えている。
 新しい環境で、私はまた異物だった。同級生たちは私から距離をとり、私もそれを察して彼らには必要以上に近づかなかったし、自分の周りに心のシールドを張って心を閉ざした。
 フロックハート教室で、始めは、私の名前は「例のあの子」だった。それがそのうちに変わった。名前と家名の頭文字を1文字ずつ取って、こう呼ばれた。『V・Z』――ヴィー・ズィーと。誰が呼び始めたかはわからない。ただそれが親しみを持った呼び方ではないことはわかった。
 それは記号だった。私は復讐者で、教室では異質な存在であるという。
 そして、私はその記号を受け入れた。以来、私はその記号として過ごしていた。





「こんなところにいた」
 頭の後ろから声がして、ヴィー・ズィーは顔をあげた。
 声がした方に首を捻ると、夜の遺跡の木々を背景にして、細身の少女がヴィー・ズィーのにじんだ視界に入った。リーンだ、とヴィー・ズィーは頭の中で彼女の名前を思い出した。
 となり、いい?
 言いながら、返事を待たずリーンはヴィー・ズィーの隣に腰を下ろした。ヴィー・ズィーはリーンから顔を背け、両の手で乱暴に目を擦った。泣いていたのを気付かれなくなかった。
「綺麗ね、星」
 そう言って、リーンは背中の後ろの石に手をついて、反るようにして星空を見上げた。ヴィー・ズィーはそれに答えず、ただ黙って石の間から生えていた草をじっと見つめた。
 そしてしばらく続いた沈黙を、先に破ったのはヴィー・ズィーのほうだった。
「憎くないの? 私が」
「憎い? どうして?」そう言って、リーンは小首を傾げた。演技ではなく本当に、理解できないという表情だった。
「だって……聞いたでしょう。私がしたことを」
「うん、聞いたよ。アッシア先生をやっちゃおうとしたんでしょ? まあ、口止めもされたけど」
「だったら……」
「でも聞けば、アッシア先生だってヴァルを誤解させるようなこと言ったみたいじゃない。うちの先生って、そういう人なのよ。悪い人間じゃないんだろうけど、ちょっと誤解を招きやすいみたいな」
 手が焼けるのよ、うちの先生は。そう言って、リーンは手をひらひらと振って笑った。そんな軽い問題じゃないような気もしたが、とりあえず褐色の少女は意味がわからなかった単語を反復した。
「……ヴァル?」
「うん、ヴァル。ヴァルヴァーラだから」こくりと、リーンが頷いた。「ヴァルには悪いかもしれないとは思うんだけど、私、ヴィー・ズィーって呼び方あんまり好きじゃないの。それよりも、ヴァル、って呼び方のほうがいいと思わない? うん、絶対こっちのほうが可愛いよ」
「ヴァル――」
 呟いて、褐色の少女は今までには無かった新しい欠片が、自分の心の中にことんと落ちてくるのを感じていた。新しいはずなのに、何故だか懐かしい。
 記号じゃない、私自身。
「そ、ヴァル。気に入った?それでね、ヴァルさえよければ、私とお友達になって欲しいな、って思って……ってヴァル? やだ、何で泣いてるの? 名前、単純すぎた?」
 言いながら、リーンはヴァルを抱きとめた。ヴァルは、リーンの胸に吸い寄せられるように崩れ落ちた。
「……ぇっ…ふぇぇ……」
 リーンは、泣きじゃくるヴァルの背中を優しく撫で続けていた。ヴァルは、遠くに置いてきたはずの暖かさと柔らかさを感じながら、止まらない涙に身を委ねた。
 空には、星の海。深い森と闇は、独りだった少女のすすり泣きを、妨げることなく優しく深く受け止めていた。