エピローグ
星空の下、青白く染められた森の中に、二つの足音が響いている。男女の下草を踏み分ける音はゆったりとした間隔を挟んで響き、交わされる言葉は無い。少しの重みを持った空気が、二人に添って移動する。
前を行くエマ教師の後ろ姿を眺めながら、辺りを漂っているような気がするふわふわとした暖かいものをアッシアは満喫していた。アッシアは、ヴィー・ズィーの件のあと、大事な話があるとエマ教師に夜の散歩に誘われたのだった。
先程までは吐き気と頭痛でふらふらとして足元が覚束なかったが、今は振って湧いたような幸運にふわふわとして足元が覚束ない。なにせ憧れの女性と夜二人っきりで散歩をしているのだ。森の下草がまるで雲のようにアッシアには感じられた。
「あの子――ヴィー・ズィーは、幼いころに父親を暗殺されているのです」
アッシアの前方を進むエマ教師から、声がした。女性らしい丸みを帯びた背中から言葉がアッシアに発せられる。
「それで――復讐ですか」そうアッシアは言った。
「ええ。復讐は、あの子の人生の目的なんです」
「彼女は――4号生でしたか」
「ええ。まだ、16歳です」
哀しいですね――そう言ったアッシアに、エマ教師は、ええ、哀しいですと答えた。すぐ後ろを歩くアッシアからは、彼女の表情をうかがい知ることはできなかった。
「暗殺されたのは7年前。そのときに復讐を思い立ったそうですから、9歳の頃から復讐を考えていたことになります」
まだ子供です、とエマ教師は言った。アッシアはひとり頷き、やや強い調子で口を開いた。
「彼女は、復讐よりももっと、別のことを学ぶべきです」
「そうです。彼女には、輝かしい未来があるはずなんです」
そう言うと、彼女は振り向いて、正面をアッシアへと向けた。そこでお願いがありますアッシア教師、とエマ教師は言った。
エマ教師を正面に見据えたアッシアは、黒縁眼鏡の奥の、薄茶の目をふっとほころばせた。
「わかっています。ヴィー・ズィーの件は、『上』には報告しません。生徒たちにも口止めをしておきます」
「……ありがとうございます」エマ教師は、アッシアに頭を下げた。そして頭を戻すと、ぱっと微笑った。「やっぱり、アッシア教師は善い方ですね」
アッシアは、その微笑に見惚れた。そしてそのことをはっきりと自覚すると、慌てて両の手の平で顔を擦った。きっと間抜けな顔をしているに違いなかったからだ。
「……アッシア教師は」
エマ教師の声に、アッシアは顔を擦る手を止めた。紅の魔女の異名を取る教師は、憂えげな表情で視線を落としていた。そして意を決したように、理知的な薄い唇を開いた。
「アッシア教師は、人を殺したことがありますか?」
アッシアは顔に当てていた右手をゆっくりと口元へと引き下げ、顎のところで拳を作った。そして、苦笑する。
「ヴィー・ズィーにもついさっき、同じ質問をされましたよ」
「すいません。アッシア教師は、先の北王戦争のときも輜重隊にいらっしゃったのでしたね」
アッシアは特にはぐらかすつもりはなかったのだが、エマ教師はアッシアの言葉の裏をさぐって先回りしてきた。そしてアッシアが何かを言う前に、エマ教師は言葉を続けた。
「私はあります」彼女の短い言葉は、宣言の如く力強かった。「私は北王戦争のとき、アーンバル国軍で少尉の肩書きで戦陣に加わっていました。私は司令官付きでしたから、それほど戦場には出ませんでしたけれど――」
そこで彼女は、つい、と顔を横に向けた。
「――それでも多くの人を殺しました。この手で。魔術で」
エマ教師は肩の高さに左腕をあげると、横に向けた顔の先に小さな魔術文様を空間に描画した。戯れに注いだ魔力に文様は赤く淡い光を放った。
「生きるか死ぬかの戦場では仕方の無いことだったと思います。――けれど、私が殺した兵士達の中には誰かの父親だった人も当然居たと思います。あの子のような存在を、作り出してしまったかと思うと」
元少尉の女性は、掲げていた白い手を軽く振ると、文様を消した。赤い残像が、アッシアの目に残った。
「……正直、やりきれません」
そして沈黙が降りた。夜の森に、沈黙はよく響いた。
それでも、と口を開いたのはアッシアだった。
「それでも、どれほどやりきれなくても、人は生きていかねばならないのだと思います。……うまく言えませんけど、生き残った人間はしっかりと生きなければならないと思うんです。自分が生きるために、誰かの生命を、奪ったんですから」
そこまで話すと、アッシアは頭へと手をやった。
「なんて、偉そうですよね、はは……すいません」
「いえ」
そう言って、エマ教師は微笑んだ。それは、アッシアが今まで見たことが無い種類の優しい笑みだった。
「……ありがとうございます。アッシア教師」
■□■
「エマ教師が、僕のフィールドワークを是非見学していきたい、って言ってくれたんですよ。いやあ、どうしようかなあ」
夜はすっかりふけて、もはや日付が変わっている時刻だった。気の所為か星の光も翳る夜更け、アッシア教師は頭をかきかき、嬉しそうに黒猫に向かって話し掛けていた。
そんな教師と対峙する黒猫はなにやら思案気に、そうか、とただ一言言っただけだった。
「あれ……なんか、元気ないですね。ひょっとして、さっきの戦いに巻き込まれて、怪我でもしたんですか?」
いや、と黒猫は短く否定した。そしてやはり気難しげに、地面を睨んでいる。視線はそのままで、黒猫は口を開いた。
「アッシア。お前は、レイレン=デインという男をどう思う」
「レイレン=デインを、どう思うか?」急な質問に、アッシアはオウム返しにして眉根を寄せた。
「やはり、悪人だと考えるか?」
ふう、と溜息をつくと、アッシアは首を振った。今日は難しいことばかり聞かれるとぼやきながら、彼は質問に答える。
「その方法がどうであれ、彼が一個人でありながらこの大陸に影響力を持っていたことは単純に凄いと思います。彼がやったことの結果を計るには、もう少し時間が必要だと思います。歴史が、彼のやったことの是非を判断するのだと僕は考えています」
そして、彼が悪人かと聞かれれば――そう呟いて、アッシアは少し考えるかのように縦にした拳を口に当てた。その僅かな空白に、黒猫は口を挟んだ。
「古代学教師としてではなくて、お前個人の単純な感想が聞きたいのだ」
「……正直、よくわかりません」アッシアはゆっくりと首を振る。「ただ、僕は彼を責めることはできない。その資格が無い。言えることは、それだけです」
かつて戦場で敵兵を殺した。それは仕方の無いことではあったが、その敵兵にも妻や子供などの家族が居たはずだった。誰かの家族を奪い、ヴァルヴァーラのような娘を、アッシアも生み出しているのだろう。だから、アッシアもレイレンも、そう大差はない。
アッシアは語り、小さく、だが重い溜め息とともに目を細めた。
そんな古代学教師を見上げ、黒猫が、ぽつりと呟いた。
「――――」
「え?」
小さく呟いた黒猫の言葉が聞き取れなくて、アッシアは聞き返した。
いや、黒猫が話した内容が、すぐには信じられない内容だったから、聞き返したのかもしれない。
黒猫は、再び口を開いた。
そしてゆっくりとした口調で、言った。
「私が、レイレン=デインだ。――そう言ったのだ、アッシア」
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