プロローグ

 薄暗い部屋の中、規則正しく呼吸の音がする。ふっ、ふっ、という音とともに床にうつ伏せになっている褐色の体が腕を折り曲げ、伸ばし、規則正しく浮き沈みする。
この部屋の時計が正しければ時刻はすでに朝陽が昇っている時間だったが、しかし、この部屋の窓の厚いカーテンは閉じられたままだ。それは、この部屋の主である彼女が、朝の光を嫌うせいだった。彼女曰く、朝日は綺麗だから嫌いなのだそうだ。
 筋肉をいじめる鍛錬が終わり、彼女は立ち上がった。しなやかな若木が部屋の中央に立ったようだった。彼女は褐色の額に張り付いた、短く切られた癖の無い黒髪を整えながら、傍にかけてあったタオルをとった。噴出す汗を拭っているうち、薄桜色の唇から、ふっと呼吸が吐き出された。何かを考えるようにしながら、彼女は柔らかなタオルで汗を拭い続けている。

 彼女は右腕に火傷の跡がある男を捜している。

 その男が、彼女の父を殺したからだ。彼女にとって父親は、最後の肉親だった。9歳のとき父親を失って以来、彼女はずっと独りで生きてきた。食事のときも眠れない夜も休日の気だるい午後も、ずっと彼女は独りだった。

 彼女は復讐のために生きている。

 9歳以降の彼女の人生は、すべて復讐という目的のために費やされた。彼女は肉体を鍛え、精神を鍛え、そして強力な武力を求めて魔術を学んでいる。すべては父を殺した仇を殺すためだ。
 父が残した少なくない遺産は、欲に眼がくらんだ遠い親戚を吸い寄せるような効果しかもっていなかったけれど、それでも残った遺産のおかげでこうして魔術を学ぶための学費が払えた。魔術は、強力な武器となってくれるだろう。

 仇の男の名は、レイレン=デインという。

 レイレン=デインとは何者か。これは彼女でなくとも、この大陸に住むものであれば多くの人間が知っている名前だった。レイレン=デインは、大陸最高の暗殺者と呼ばれるひとりだ。10余年前から暗殺を始め、それなり成果をあげ続けていたが、6年前の北王戦争の時期に、稀代の暗殺者として諸国の貴人には恐怖の代名詞ように恐れられるようになった。しかし、北王戦争以後、レイレン=デインはずっと姿を消している。既に死んでいるだとか、諸国を放浪しているのだとか、名前を変えているのだとか、世間は噂している。

 そして、彼女はヴィー・ズィーと呼ばれている。

 もちろん本当の名前ではない。ただの渾名だ。ただ教室の仲間たちはこう呼ぶ。まるでコードネームのようで、味気ない名前。だがそれが、復讐者風情の自分には相応しいと彼女――ヴィー・ズィーは思っている。

 ヴィー・ズィーは汗を拭き終わると、タオルを首にかけたまま窓に近寄る。そして厚いカーテンを開き、窓を押し開く。まだ早朝という時間だった。冷たいが清々しい空気が、彼女の部屋へ侵入する。鳥が鳴いて彼女の視界を斜めに横切った。トレーニングで火照った体を冷まそうと、彼女はしばらく窓辺に立っていた。
 ひんやりとしたものを、汗で湿る滑らかな肌に感じながら、彼女は考える。彼女が復讐を思い立ってから、もう7年が経つが、未だ仇は見つかっていない。しかし最近、このセドゥルス魔導学院の近くで彼らしき人物がいたという噂を聞いた。その真偽はわからない。真偽を確かめようにも、判断するための情報もなかった。我ながら情けないと思うが、それが彼女の現状である。
 ただその真偽定かならぬ噂が、彼女の心を焦らしているのは事実だった。
 そして彼女は今日も、胸の中にある憎しみを確認し、その憎しみを絶やさぬための作業をする。すなわち、まだ見ぬ男の姿を思い描き、再び憎む。これが彼女の日課だった。
 数分で日課を終えて、彼女は窓を閉めた。
 窓のギヤマンに映る彼女の表情は、くしゃりと歪んでいた。
 だが、彼女はそれに気づかずに窓に背を向けた。