10. 『落ちてきた雨




「ううう。もうお嫁にいけないー」
「あーもー。これくらいで済んだんだから、我慢なさい」
 女性用テントの中。ポニーテイルの少女の半泣きでうめき、角眼鏡の女生徒が叱るように言った。ふたりはテントの床に座り込んでいるが、ポニーテイルの少女――リーンが何故か顔を上を向けているのが通常と違っていた。さらに、鼻紙をこよりにして詰めて、両方の鼻の穴を塞いでいる。
「鼻の骨は折れていないから、鼻の奥の部分が傷ついただけよ。そうやって上を向いていれば、そのうち鼻血は止まるわよ」
「ねぇ、なんで魔術で癒してくれないの? レクシアさん得意でしょ、治癒魔術」
 レクシア女史は、角眼鏡の上の柳眉に皺を寄せる。
「言ったでしょ。鼻血は、下手に癒すと変なところに血が溜まったりするから、自然に治すのが一番なのよ」
「うう。レクシアさん冷たい」
「だから、冷たくない。そういうもんなんだから、聞き分けなさい」
「鼻血出た顔、エキア先輩にも見られたし」
「そりゃ、仕方がないじゃない。あの状況で鼻血が出ちゃったんだから」
「くうぅ。あの女盗賊のせいだぁ」
 そうね、とレクシア女史はリーンの意見に同意してやる。そして、あのノワールプッシーを名乗る女盗賊が逃げ出した場面を思い出す。





 とりあえず、魔術の鎖で縛り上げたノワールプッシーを、巨木の根元に座らせてやった。
 そのノワールの傍に、生徒たち3人が居る。自然、ノワールひとりを囲むようなかたちになっている。
「まずは、確認ね」
 そう言って、ノワールの前、レクシアは前かがみになる。だが、女盗賊の方は地面に座り込んでいるために、レクシアの方が、視点が高い。残りのふたり、リーンとエキアは、一歩離れたところにいる。どうやら、話す役割をレクシアに託したようだった。
「貴方が、盗賊団の頭目のノワールプッシーね?」
 女盗賊は、問い掛けられてもすぐには何も答えなかった。だが、やがて自棄になったように、ああそうさ、と認めた。
「アタシがノワールプッシー団の頭目だよ」
「それで、配下は3名いたけれど、ひとりが特別任務についてここにはいない。だから、ここにいる配下は2名。これで間違いない?」
「どうして、特別任務についてまで知っている?」驚いたように、ノワール。
「話してくれたもの。貴方の部下の2人が」
 事も無げにレクシアが言うと、ノワールは、
「あの馬鹿ども……あとでお仕置きだよ」
 と呟いた。そして、続けて聞くわよ、とレクシアが言う。
「貴方たちは、『旦那』に雇われて、ここに来ているのよね。その目的は、何?」
「旦那に言われて、珍しい物があるからってここへ来ただけだ。でも、調べたら結局何もなかったけどね。それでも、ちょうどいい具合に広い地下室があったから、ここをねぐらにしようかって検討してたら、あんたたちが来たんだよ」
「じゃあ、『旦那』は、今はその広い地下室、とやらにいるのね」
「そうさ」
「それで、『旦那』は何者なの? 目的は何?」
「……そのあたりは、あの馬鹿どもから聞いてないのかい」
「聞いているわ。確認のためよ」
「……」
 暫時、ノワールとレクシアの視線が交錯する。
「嘘だね。そんな情報をあいつらが話すわけがない」
「そう思うのなら、別にこちらは構わないわ。貴方の部下の情報通りに判断するだけ」
「ハッタリはおよしよ。あいつら風情が、『旦那』について肝心な情報をもっているわけがないんだ」
「……」
 今度はレクシアが黙る番だった。女盗賊の言う通り、レクシアは『旦那』について有効な情報を持っていなかった。だからこそ、こうしてノワールに尋ねているのだ。
「でも、忠告ならしてやらないでもない。可愛いぼうやもいることだしね」
 意外にも、ノワールの方から喋りかけてきた。そして、ちらりとエキアの方を見た。
「旦那は、良ィ男さ。頭が切れて、強くて、権力にも近い」
「それで――」詳しく聞こうとかけた女史の言葉を、ノワールが素早く遮る。
「情報じゃない。忠告だと言ったはずだよ。旦那には手を出すな。本当に死ぬよ。あたしらみたいな、チンピラ盗賊とは格が違うんだ」
「『旦那』は、なんていう名前なの?」
「そこまでは言えないね。依頼人を売るほど、おちぶれちゃいない。それに、あたしらが聞かされているのもどうせ偽名だ。聞いたって、なんの価値もないよ」
 それはそうなのだろうが――、しかし、少しでも情報を得ておきたいのがレクシアの気持ちだった。
「でも――」
「おっと」
 レクシアが紡ごうとした言葉を、ノワールが制した。覆面のした、片目を瞑る。
「お喋りはここで終わりだ。迎えが来たようだよ」

 その言葉と同時――。
 背後の茂みから、ふたつの人影が飛び出した。それは、あの出っ歯と大柄な盗賊たちだった。
「姐さんんっ!」
「いま助けるだっ!」
 そして、盗賊たちふたりは拳大の玉を、それぞれ地面に叩きつけた。そして破裂した玉から、猛烈な煙があがる。
(煙玉?)
 煙を吸わないように口を腕で覆って、レクシア女史は防御の構えを取る。ノワールが立ち上がり飛び出した気配がしたが、気配を追って攻撃するような技量は女史にはない。そして何かがぶつかった音がして、きゃっという短い悲鳴があがる。続けて、ノワールの声。
「じゃあね。お喋りするときは、お茶ぐらい出すもんさ――覚えときな!」
 言いかえそうにも、激しい煙の所為で、レクシアは何も言うことができなかった。目も痛いし、吸わないようにしていた煙も結局気管に入り、むせてしまった。
 そして、煙が薄れ、咳きが治まったころには、ノワール一味は、すっかり姿を消してしまっていた。




「あのとき、絶対、私を意図的に狙ったと思うのよね、あの女。年甲斐もなく派手なだけじゃなくて、陰険なんだわ」
 ぶんぶんと、拳を振ってリーンは力説する。だが、鼻に鼻紙を突っ込んで上を向いているという絵面のために、説得力がなかったが。
 ノワールが逃亡する際に、たまたま経路にいたリーンがノワールに顔面を跳ね飛ばされたらしい。それが偶然なのか、狙ったものなのかはわからないが、それでもリーンは鼻血を出す結果となってしまっていた。
 それで、彼女たち3人は宿泊用のテントへと戻ってきたのだ。
「ね、レクシアさんもそう思うでしょう?」
 再度の問いかけに、リーンの説を特に否定する材料を持たなかったレクシアは、そうね、と適当に返事をした。
 と、そこへ、とふとふ、とテントの幕がノックされた。
「誰? どうぞ」
 レクシアが言う。そして、テントの入り口にある幕を巻き上げて、顔を見せたのはエキアだった。
 それと同時、リーンがさっと入り口を背にするようにして体を反転させた。鼻血を止めているところを見られたくないのだろう。それに気付いているのかいないのか、エキアは淡々と用件を切り出した。
「……アッシア先生が帰ってきた。重要な話があるから、すぐに集まるようにとの伝言だ」



                            ■□■



「結局、あっという間にアッシア先生はのされちゃったわけですね?」
 鼻と口の周辺をハンカチで隠しながら、リーンが感想を述べた。それは、アッシアとエマ教師が地下ワイン工場遺構で先ほど出くわした、男について説明したすぐあとのことだった。
 色濃くなる一方の曇り空の下。
 野外、焚き火の跡を中心にして、9人と1匹が輪になって集まっていた。アッシア教師たちワイン工場見学組と、リーンたち都市慰霊碑見学組、その他の教室生徒3人。加えて猫一匹。
 遺構にひそんでいた男について語るべく、アッシア教師が、さっきまでの経緯をかいつまんで説明してみせたのだが、その話を聞いた生徒から出てきた第一声が、先ほどのリーンの言葉だった。
 もちろん男がレイレン=デインと思われることなど、その辺りの疑問点までは説明していない。男の異常性と戦闘力、つまるところ彼がどれほど危険かということに的を絞って説明を加えたのだが。説明したアッシアの意図とは違う解釈を、生徒たちはしたようだった。
 つまり――、地下室の男の危険性ではなく、アッシアの頼りなさを要点として、話を理解したのだった。

 生徒の指摘に、う、と言葉を詰まらせて、黒縁眼鏡の教師は、いかにも冴えない感じで動きを止めた。
「ここはひとつエマ先生もヴァルもばしっと救い、八面六臂の大活躍を見せて、ポイントをあげたいところでしたねー、アッシア先生?」
「うう」
 あまり悪気の無いようなリーンの口撃だったが、それはちくちくとアッシアの心を刺した。見れば、他の生徒たちもリーンの言葉に頷いている。
「リーン、違うの。アッシア先生は、わたしを庇ったために、攻撃を受けてしまったの」
 褐色の肌の少女−−ヴァルが、アッシアをフォローをしたが、場の空気はあまり変わらなかった。あえて言葉で表せば、「残念!」という空気が場に漂っていた。

 このままでは収拾がつかない、と考えたのかどうかはわからないが――。そこで、口を開いたのはエマ教師だった。
「地下室の男とは、私も魔術戦を演じました。私は従軍経験があるけれど、それでもあれほどの戦闘者と戦った経験はないわ。
 今、私は、ここにこうして無事でいるわ。けれどそれは私の実力のためじゃなくて、単にあの男の気まぐれのためだわ。自慢するわけじゃないけれど、私も、それなりに戦えるつもり。けれど、あの地下室の男にはまるで敵う気がしなかった。あの男の戦闘能力の高さは、異常だわ。多分、個人を殺傷する目的で、魔術を含めた総合的な訓練をかなり積んでいる」
 一級の魔術師という評価を受け、紅の魔女、とあだ名されるエマ=フロックハート教師の感想を聞いて、そこでようやく、生徒たちは認識を改めたような表情をした。
「たまたま見逃してもらって、私は、ここで生き延びているのが現実よ。悔しいけれど」
 そして、唇を噛むようにして口元を引き締め、エマ教師は言葉を終えた。
 それで、と言葉を引き継いだのは、アッシアだった。
「ああいう男がいる以上、フィールドワークを予定通りこなすのは難しいと思う。……だから、日程を短縮することを考えているけれども、意見はあるか?」
 そこで、ちょっといいですか、と挙手したのは、レクシア女史だった。
「こちらも、報告しなければならないことがあります。都市慰霊碑で会った、盗賊のことなんですけれども……」



 レクシア女史の説明を一通り聞いて、アッシアは黒縁眼鏡を押し上げて、なるほど、と呟いた。
「ここの遺跡を根城にしようとしていた、ノワールプッシー団という盗賊団。その雇い主が、『旦那』というわけか。そして、話から察するに、僕らが地下で出会ったのは、その『旦那』のようだな」
「そう考えて間違いないと思います。ノワールプッシー団自体は、その辺のチンピラ盗賊でしたが、雇い主である『旦那』は、格が違うとも女頭目が言っていました」
 報告は以上、というようにレクシアは角眼鏡を軽く押し上げ、手を両膝の上に戻した。
 アッシアはふむ、と頷き、考え込むように顎に手を当てる。
 あのレイレン=デインの姿をした男――『旦那』がわざわざひとを雇って何かをしようとしている。では、その目的は何なのか。得体が知れない存在が何かを企んでいるのであれば、気味が悪いと感じるのが正直なところだ。だが今は、『旦那』が何者であるかすらもつかめていない。いや、『旦那』の目的が知れれば、彼が何者であるのかも自然と知れるのかも知れないが――。

 そこまで考えて、アッシアははっと顔をあげた。
 気がつけば、この場にいる皆の視線が集まっていた。
 ばつが悪そうな顔をして、黒縁眼鏡の教師は、告げた。
「それじゃあ、明日の朝早々に、ここを引き払って学院に戻る。皆、そのつもりで」
 そこまで言って、アッシアはエマ教師を見た。その視線だけで、エマ教師は了解したようだった。
「私とヴァルヴァーラは、ミティア王都へ向かいます。それが元々の予定でしたし」
「それで、もしよければ――」
 アッシアの申し出よりも先に、それも承知しているという風に、エマ教師は微笑して頷く。
「心得ています。あの男とノワールプッシー団については、私のほうからミティアの保安官に通報しておきます」



 打ち合わせは、解散になった。皆がそれぞれのテントへと戻っていく。
 アッシアはその場に残り、大きく息を吐いた。空を見上げれば一面が雲に覆われている。ぽつり、と水がアッシアの頬にあたった。雨だろうか。これから、本格的に降り出すのかもしれなかった。そろそろ自分もテントに戻ろうかとアッシアは考えたところだった。
 ふと、黒縁眼鏡の教師は、向かいへと視線をやった。
 そこには黒猫が座っている。
 つぶらな金色の目、長い尾をふる優雅な仕草は出会ったときのままだが、どこか物憂げな空気をたたえていた。
 他にひとはいない。黒縁眼鏡の教師と黒猫だけが相対している。
 黒猫は何も言わない。何か言うつもりならば、いつもはアッシアの近くに来る。だが、それをしない。黒猫の金色の目は、何かを見ているようで、何も見ていないようにも見えた。
 アッシアは、そうして黒猫をしばらく眺めた。レイレン=デインを名乗る黒猫を。

 脳裡に関連する事柄のいくつかを浮かべ、そして消した。
 ぽつ、とまた肩に落ちてきた雨粒を払う。

 やっかいなことになったなあ。

 声には出さず呟いて、アッシアはようやく立ち上がった。