8. 『無口な彼





 緑の中を走り抜けていく、ボンテージ姿の女。
 赤い唇から荒げた息が出ていたが、たいしたものというかなんと言うか、それなりの速度を保ち続けている。「王都を騒がす盗賊」の面目は守ったというところだろう。
「どこへ隠れたンだい……」
 森の中、女――ノワールプッシーは一度立ち止まった。そして、辺りを見回す。この森は光を通さない、というほど深い森ではないけれど、繁る木々の葉で見通しが利かないのは間違いなかった。
 ノワールプッシーは、3人の少年少女を追っていた。森に逃げ込んだ3人はたちまちに緑に紛れ、隠れてしまった。ノワールプッシーも遅れて森に入ったが、とき既に遅し、標的3人全員を見失ってしまっていた。
「このアタシを馬鹿にしたツケは、きっちりと支払わせてやる。特にあのしっぽ頭……」
 ノワールプッシーの記憶に、ポニーテイルの少女が思い出され、先刻の口論が思い出された。それだけでもう、ノワールプッシーのまぶたの下が痙攣して、ぴくぴくと動いた。
「絶対、ぜぇーったいに泣かしちゃる……」
 改めて決意を固めると、ボンテージの女は下草を踏み分けて、森の道なき道を進む。
 と――。ノワールプッシーの前方の茂みが、がさりと音を立てた。
 同時に彼女は足を止め、盗賊業で養った耳を澄ませる。狙った標的かもしれない。茂みから続いて音で彼女は判断しようとした。
 だが、続けて、右方向の茂みからまた音がした。先ほどよりも大きな音。注意して聞けば、小枝が折れた音も聞こえた。
 ――少なくとも大型の動物。人間の可能性も大。
 素早く判断すると、ノワールプッシーは落ちていた小石を素早く拾い上げた。そしてそのまま振りかぶるモーションも無しで、
「そこかいっ!?」
 と、大きな音がした茂みに向かって、鋭く石つぶてを投げた。
 もちろん手ごたえはない。
 だが、彼女が狙った通りの効果はあった。
 茂みから、黒い影が飛び出て、ノワールプッシーから離れる方向へと走っていく。影は、先ほどの標的3人のうちのひとり、眉目秀麗な少年だった。彼はノワールプッシーをちらりと振り返って確認し、森の奥へと消えていく。
「なーんだ、かわい子ちゃんかい……」
 呟いて、ノワールは、ぽりと頬を掻いた。3人の中では一番、恨みが無い対象だが。
「でも、とりあえず捕まえておけば人質になるからね!」
 踵を鳴らし、ノワールプッシーは少年を追いかけるために疾走を再開した。
 そして、するすると木々をすり抜け、あっという間に森の奥へと姿を消した。

 葉をかきわける音が遠くなり、そしてそれまでノワールプッシーが居た場所に静かになった。
 そしてしばらくして。

「ぷはっ」
「ふう。行ってくれわね」
 ほっとした様子で、がさがさと茂みから姿を現したのは、追われていた3人の中のふたり。リーンとレクシアだった。
 体中についた土汚れや葉屑などを落としながら、ふたりは顔を見合わせる。
「エキア先輩、大丈夫かなぁ」
「森で視界も利かないし、逃げ切れると思うわよ。それにあの子なら、そう簡単にやられはしないし、殺されもしないでしょ」
 リーンの心配そうな呟きに、私服についた土を念入りに払い落としながら、レクシアは言った。しかし、でも、とリーンが続ける。
「エキア先輩があの派手年増に捕まったら、貞操の危機じゃないかな」
「貞操の危機……」不意に奥歯で小石でも噛んでしまったような顔を、レクシア女史はした。「きっと大丈夫だと思うわよ。別に根拠があるわけじゃないけど」
「本当にそう思う?」
 女史の瞳を下から覗き込むようにして、リーンが言った。女史はリーンよりも背が高いので、自然とそういう姿勢になったわけだが。
「思う思う」レクシアは言って、ぽそりと小さく付け加える。「エキアの貞操なんて心配の対象じゃないのよね、悪いけど」
「あ、今なんかひどいこと言った」
「言ってない、言ってない」
「ひどいよレクシアさん。薄情だよ」
「薄情じゃないわよ。さっきだって、あなたを助けてあげたでしょう」
あ、そうか、とリーンは言った。そして、
「さっきはありがとう、レクシアさん」と頭をさげる。
 いいのよ、とレクシアは言う。
「それよりも、わたしたちの命の危機はまだ終わっていないんだから」
「うん、そうだね」
「だから、さっきの手筈通りにね」
「りょーかい」
 リーンは、真面目な顔を作ると、指を伸ばした右手を額に掲げ、敬礼の真似をした。
 レクシアも敬礼で返す。
 そして微笑しあうと、互いにくるりと背を向けて、茂みの中へと入り込んだ。



                       ■□■



 エキア=ファレンスは、森の中を逃げていた。
 その彼を、女盗賊ノワールプッシーが音もなく追い続ける。
「盗賊だからね、追っかけっこはお手のものだよ。さあ、どこまで逃げきれるかね」
 ノワールは呟くと、自分の赤い唇をぺろりと舐めた。標的を見つけると、途端に冷静になれる自分がいる。いつもそうだった。きっと、標的を見つけると普段眠っている本能が揺り動かされて起きてくるのだと彼女は思っていた。猫だって、普段は愛らしく振る舞っているのに、狩りをするときは別の顔を見せる。
 標的の少年――ノワールから見れば少年としか見えない――は、さっきから安定した走りを見せている。足場も良くないなかで、よくもまあ、あれだけ乱れずに走れるものだとノワールは感心する。
 だが、起伏がある森を、とっ、とっ、と身軽に跳躍し、ノワールはじわじわとエキアとの距離を縮めていた。こういうときは、単純な速度よりも進む経路の方が大事だとノワールは経験から直感していた。
 そして、目の前に大きな岩々が現れた。高さ5ヘート、周囲は30ヘートはありそうな岩の群れだ。それを、エキアは右方向へ迂回する経路で逃げ始めた。
「ああー、これはぼうやには、厳しい状況かもしれないねぇ」
 呟いて、ノワールは上体を沈めて加速すると、そのまま身軽に跳ね上がる。そして、右、左、右、そしてまた右の岩。いくつかの岩を足場にして、岩場の上へとあがった。
 上へとあがってしまえば、エキアの姿は丸見えだった。
 少年は、追っ手を急に見失って、動揺しているのか安心したのか、しきりに後ろを振り返りながらも、走る速度を落としている。
「こっちだよ、ぼうや。すぐに迎えにいってあげるからね」
 そして、ノワールは岩場の上を移動する。岩場を迂回するエキアから見れば、岩場の上の移動は、大幅な近道になる。
 ノワールはたちまちにエキアに追いついた。ここにきて、エキアも追っ手が岩場の上にいることに気がついたようだったが、遅かった。岩から身を躍らせるように飛び降りてきた女盗賊が、エキアの行く手に立ちふさがった。
 舌打ちしつつ、エキアは地面の下草を踏みつけて、急停止する。
 立ちふさがったノワールは、髪を振り上げる仕草をして、それから気取って腰に手を当てる。ついでに唇の片方を挑発的に吊り上げてみた。
 標的がどう動くか、見ものだった。
「つれないじゃないかい。せっかく女が追っかけてるんだ、逃げるもんじゃないよ」
 エキアは無言だった。だが、別に驚き過ぎて口がきけないというわけではない。この程度の無口さは、彼にしてみれば標準だった。よくよく見れば、驚いていることが瞳の色からわかるのかもしれないが、そこまで観察するものはそうはいない。
 何も宣言の言葉を発しなかったが、標的の眉目秀麗な少年は、逃げずにこの状況を打開することを選択したようだった。あとはただ、実行することだけが続いていく。
 彼は両腕を素早く掲げ、攻撃魔術の魔術文様を描きだす。
 文様に魔力が注がれ、青い光が灯りかけた。
 だが、そのとき。
 ノワールは大きく一歩前に出て、右腕を伸ばすと、事も無げにエキアが空中に描画した魔術文様を握り潰した。
 魔術文様は、所詮魔力という力で描かれた魔術の術式だ。だから、なんらかの力――たとえばほんのわずか魔力を帯びた人の手――などでも、実は簡単に崩すことができる。そして、一度崩されてしまった魔術は、その分の文様を補充しなければ、完全なものにはならないし、それなりに時間もかかる。実際には、壊された箇所を特定するだけでも結構な時間がかかるために、最初からやり直した方がむしろ早い。
 魔術文様がガラス細工のように脆くて繊細で、危険なものだということは、魔術師にとっては常識だった。
 だから、魔術師にとって、せっかく描き出した文様が崩されてしまう接近戦は、禁忌だと言われていた。
「こんな近距離で魔術? ぼうや、一体何を教わってきたんだい――っと?」
 だが、文様が崩されることは予測済みだったのか、それともただの反射なのかわからないが、エキアは女盗賊に向けて上段蹴りを放った。蹴りは、慌ててかがんだノワールの頭をかすめただけだった。
 だが、相手がかがんで体勢を崩した瞬間を隙と見たエキアは、体を翻し、再び逃走を始めた。
「お、お待ちっ!」
 慌ててかがんだために、よろけたノワールは、逃げるエキアに向けて呼びかけた。姿勢が崩れたままなので、ついつい大声になる。いろいろと矜持があるのか、土に手をつけることはなかった。
 だが、エキアの方は女盗賊を待つ義理も無い。むしろ先ほどよりも早く、どんどんと遠ざかっていく。
 取り残されたノワールは、片手を掲げると素早く魔術文様を描画し、魔力の光を灯す。そして逃げて遠ざかっていく少年の背中に向かって、魔術を放つ。
「来い、風の大槌!」
 魔術が発動した。
 だが、ぼふん、と音がして手近にあった木が大きく揺れただけだった。ノワールが急いで魔術文様を描いたために、発動が不完全で、しかも狙いを外してしまったのだ。
 ちくしょう、と地面を蹴り上げると、ノワールは仕方無しに追いかけっこを再開した。
 
 
 追いかけっこは、先ほどまでのの作業の繰り返しだった。単純な速度ではエキアがやや優っているようだったが、ノワールの経験値に裏打ちされた経路選びのおかげで、差は少しずつ縮まる。
 それでも、追いかけっこは半刻ほど続いた。
 けれど、両者には決定的な違いがあった。
 そのために、追うものと追われるものの差はどんどんと無くなっていき。
 ついに、エキアは女盗賊に追いつかれた。


 大木を背にし、エキアは走るのをやめた。
 さすがの彼も息を荒げ、額には玉の汗が流れている。
 限界に近いのか、木に背を預けなければ、そのまま倒れこんでしまいそうにも見えた。
「――そろそろ、終わりかい?」
 声とともに、女盗賊のノワールが茂みから現れた。さすがに息は荒げているが、体力の消耗はそれほどでもなさそうで、まだ余裕があるように見えた。そんな女盗賊を見るエキアの目はまだ死んでいなかったが、かといってこれ以上動くことも困難であるように見えた。
「そんなに怖い目で睨むんじゃないよ。まあ、ぼうやは実際、よく逃げたほうだと思うよ」
 エキアが背を預けている巨木には苔が生え、下枝も多く張り出している。周囲は茂みに囲まれて、ひとの手が入っていない。そんな緑の世界で、ノワールの声と、エキアの荒い呼吸音だけが響いている。
 ――どうしてそんなに余裕があるのか。
 同じ時間、追いかけっこをしていたはずなのに、エキアはもうほとんど体力の限界に近いのに、女盗賊には余裕がある。
 エキアが、そう女盗賊に問いかけたわけではなかったが、追い詰められた少年の表情にかすかにうつる疑問めざとく見つけ、ノワールは言った。
「追うほうは追いつくときを選べた。だが、追われるほうは選べない。ただそれだけさ。あんたは、追いつかれるべくして、追いつかれただけだよ」
 そもそも、追いかけるノワールの方が移動が速いのだから、ノワールは、つかず離れずの距離と速度を選び、余裕を持って追いかけ続けた。対してエキアは常に全力で逃げている。だから、ノワールはエキアが疲れ果てた頃を見計らって、追いつけば良かったのだ。
 付け加えるならば、ノワールが体力の消耗が少ない経路を選んでいたのに、エキアはただ逃げていた。それらが、最終的な両者の体力に結果となってあらわれた。
 明かされてみれば、単純な話だった。
 勝負は、最初から見えていた。
 エキアは大きく息を吐いた。肺が焼けるように熱く、心臓は壊れそうなほどに働いていた。次から次へと汗が滝のように流れるのも感じられる。
 一歩、ノワールプッシーは少年へ近づいた。だが、少年は一歩も動く気配がない。
「さあ、『詰み』だよ、ぼうや」
 女盗賊がそう言った、そのときだった。

「「鎖よ!」」

 ノワールの背後の茂みから、ふたつの声が響いた。
 完全に油断していた女盗賊には、振り返る暇も、それらが何を意味するのかも考える暇もなかった。
「なっ……!」
 突然に放たれた二本の魔術の鎖に、全身を捕縛され、女盗賊は為すすべもなくその場に倒れこんだ。巻きついた魔術の鎖が、金属がこすれあうような音を立てる。そして、下草の青臭い匂いが、女盗賊の鼻の奥に入った。
 エキアが、再び大きく息を吐き、背を預けたまま天を仰いだ。
 その彼に、さきほどの呪文と同じ声がかけられる。
「エキア先輩、大丈夫でしたか?」
「ご苦労さま。さすが、やるわね」
 巨木の周囲の茂みから音を立てて現れたのは、リーンとレクシア女史だった。
「お、お前たち、逃げたんじゃなかったのかい……!」
 悔しそうにうめいたのは、地面に転がるノワールだった。標的3人のうちのひとりである少年を追いかけ続けている間に、他のふたりは逃げたものだと思い込んでいたのだ。
「ひとりが陽動で囮になって、残りのふたりが待ち伏せ。基本的な戦術だわ」
 角眼鏡を押しあげて、レクシアが言った。
「くそぅ……ちくしょう!」
「森が視界を遮ることで、待ち伏せ役も簡単に隠れられるし、囮も逃げやすい。このあたりも計算済み。労力が少なくて、安全な手法をとったまでよ」
 くそう、と女盗賊が再び声をあげた。
 女盗賊のその声は、追いかけっこは終わったという宣言でもあった。
 エキアは再び息を吐き、そのままずるずると木に沿ってずり落ち、腰を降ろした。
 彼は、全身を支配する疲労感に身を委ね、言うことをきかなくなりつつある足の筋肉を揉んでほぐしはじめた。
 そして、彼は頭の中でレクシアの解説を反芻する。
 ――労力が少ない?
「……」
 エキア少年は顔をあげ、少し離れたところに立つレクシアを見上げた。
 彼は滝のように流れる汗を袖口で拭い、そして少しだけ何か言いたそうな表情をしたが、結局何も言わなかった。
 こうしたことも、無口な彼にとっては標準だった。