9. 『危機





 エマ=フロックハート教師は、地下遺構の空間、レイレンの姿をした男と向かいあっていた。ただならぬ危険な気配を放つ男が近づくごとに、エマ教師はさがる。可能な限り、間合いは大きくしておきたかった。
 先ほど、生徒ヴァルヴァーラとアッシア教師を昏倒させた、レイレンの姿をした男の一連の動き――。ほんのわずかな時間に見せたすべてが、男の力量がとんでもないものであることを示してくれていた。
 エマ教師も体術はそれほど苦手でもないが、男の体術の水準からすれば、とても勝負にならないだろう。魔術の力量という視点から見たほうが、まだエマ教師に勝機があるかもしれない。
 だが、一見したところ、男は相当に実戦慣れしているようだった。ほんの少し使った魔術が、簡潔で正確、しかも飛びぬけて発動が速い。威力や複雑な魔術の応酬ならばエマ教師の方が上である可能性が高い。しかし、魔術の威力を制限される地下空間での魔術戦であれば、そんなものは長所に数えることはできない。
 結論としては、エマ教師はレイレンの姿をした男に対して、圧倒的に不利だった。加えて、男はエマ教師たちを殺す考えであるようだった。

 ――つまりは、命の危機というわけね。
 固くなった唾を飲み込んで、エマ教師は事態を認識する。普段は猫のように丸いブラウンの双眸を険しくして、レイレンの姿をした長髪の男を見据える。
 目の前にいる男は、見れば見るほどレイレン=デインにそっくりだった。いや、『レイレンそのもの』としかエマ教師には思えなかった。だが、本人は自分がレイレンではないと言っている。違う、もっと複雑な否定の仕方をした。エマ教師は思い出す。

『レイレンであって、レイレンでない』

 それは、いったいどういう意味なのか――。
 エマ教師は思ったが、今はその意味を深く考える時間がない。
 せわしなく頭を働かせて、彼女は攻撃の手順を考える。
 まず、体術での攻撃は論外。逆に返り討ちにあう可能性が高い。だから、魔術による攻撃になるが、大型の魔術は使えない。文様描画の最中に、近づかれて魔力を篭めた蹴りなどで文様を蹴り崩されてしまえば、もうそこで終わりだからだ。そのまま、レイレンの姿をした男に、殴り倒されてしまえば、それ以上抵抗はできない。
 だから、使い慣れた生成が早い魔術を使い、攻撃する。
 エマ教師が出した結論は、それだった。
 じりじりと後ろにさがっていたエマ教師だったが、頭の中で結論に達すると同時、距離と時間を稼ぐために大きく後ろに跳んだ。と同時、魔術文様を描画する。
 男は、魔術を妨害しようとはしなかった。立ち止まり、エマ教師の様子を見ている。どうやら、魔術戦を受けてくれるようだった。
(そして、すぐに発動させる……っ)
 エマ教師が身に纏うように描画した魔術文様が赤い軌跡をえがき、残像を残す。そして膝付くようにして着地したエマ教師は、そのまま魔術を発動させた。
「曼珠沙華の焔よ!」
 一筋の火線が、男に向かって一直線に伸びていく。そして、そのまま男に到達するかと思われた火線が、途中で華が咲くように弾けた。そして、一筋の火線は数十の火線となり、まるで掌で包むようにレイレンの姿をした男を襲う。正面だけでなく、側面、上面、そして背面から。
 正面の攻撃だけを防ぐ盾型の防御魔術では防ぐことのできない、エマ教師オリジナルの攻撃魔術だったが、しかし。
(やはり、やる――)
 脳裡でエマ教師は認識する。レイレンの姿をした男は、エマ教師の魔術を見るや、魔術の内容を見破り、すぐさま防御魔術の文様を組替え、全身防御型へと切り替えた。そして発動した球状の防御魔術は、男をすっぽりと覆って守っている。
放たれた赤い火線は魔術防壁に当たって弾け、続けざまに衝撃音と赤い光を散らす。
 だが、エマ教師もそのままでは終わらない。まだ魔術が起動している時間で、続けて魔術文様を描きだす。
 威力は抑えない。だが、行使範囲は可能な限り絞る。
 続けて使う魔術も、使い慣れたものだったが、威力をそのままで、範囲だけを一点に凝縮させる魔術文様を追加する。
 そして、魔術防壁に体を包まれたままの男へと狙いを定める。
 全体防御型の魔術防壁は、防御できる範囲が広い分、もろい。強い威力の魔術で攻撃すれば、貫けないことはない。だが、そうなれば、魔術を男に直撃させることになる。それはつまり。
(彼を殺害するということ。でも、やらなければ、やられる――)
 やらなければ、やられる。それは、彼女が従軍時代に覚えた鉄則だった。そして、やられるのは、自分だけでもない。
 まだ前の魔術の余韻冷めぬままに、エマ教師は次の魔術を発動させる。
「紅華よ!」
 威力が凝縮された紅色の熱衝撃波が、男へ向かって伸びる。そしてそれはそのまま炸裂し、轟音を立てた。炎が舞うように散り、音は地下遺構に暴力的に乱れ響き、そして大地を振動させる。
 エマ教師は、自分の魔術の結果を確認しなかった。
 今の攻撃が上手く行っていればそれはそれでよいが、おそらく防がれるだろうとエマ教師は予測していた。だから、今の攻撃で稼いだ時間のうちに、この場所から逃げ出すことを考えていた。
 それに、遺構の外に出れば、また別の戦術も立てられる。とにかく、近距離戦を強いられるこの封鎖された空間は、エマ教師にとって不利だった。
だからエマ教師は、埃まみれになって床に転がる、アッシア教師とヴァルヴァーラのところへと急ぎ駆け寄った。ふたりを起こすために、揺り動かす。
「アッシア教師、起きてください――ヴァルヴァーラも、早く……」
「う……」
 まだ意識がはっきりしない、という様子でアッシア教師がうめいた。いくら逸らしたとはいえ、魔術の衝撃波を受けたのだ、すぐには回復しないだろう。だが、今はそんなことも言ってはいられない状況でもあった。
「早く!」
 たまらず叫んだとき、ぞくりとした悪寒が、エマ教師の背中を走った。異様な殺気を感じ、彼女はゆっくりと振り返る。そこには、ちらちらと炎の余韻が残る中、まるで幽鬼のようにレイレンの姿をした男が立っていた。
 ――時間切れ。
 認識はゆっくりとしていたが、行動は早かった。エマ教師は立ち上がり、再び構えを取る。一度奇襲が失敗した。こうなると、全員が助かることは大変難しい状況だと判断できた。だが、やらないわけにもいかない。
 何か言葉を交わす前に、男は魔術文様を描画した。相変わらず早く、それでいて充分な殺傷力を持った魔術。
 エマ教師もそれに合わせて、迎撃のために防御魔術の文様を広げる。
 通常であれば、このまま魔術の撃ち合いが始まるはずだった。
 しかし、男は、魔術を発動させる前に、エマ教師に向けて何かを投げつけてきた。
 エマ教師は、目ざとく見切り、体を捻ってそれをかわした。だが。
(しまった……!)
 投げつけられたのは、投具の一種で、魔力を帯びさせた掌大の小刀だった。
 体には当たらなかったが、防御魔術の文様を貫いた。
 投具が当たった部分の文様が大きく欠け、穴を開けられた網のように広がって消えた。
 これでは防御魔術が発動できない。エマ教師は一度魔術をキャンセルし、再び魔術文様を描き直す。しかし、そうは言っても。
(今から文様を編んで、防御が間に合うの?)
 心の中で切ない悲鳴をあげて、可能な限りの速さで文様を組み上げる。
 けれども当然、レイレンの姿をした男の方が、魔術の発動が早い。
 思わず、エマ教師は目を瞑った。これから来る衝撃は、彼女の命ひとつを失わせるに充分すぎるもののはずだった。

 けれど、その瞬間は訪れることがなかった。

 攻撃魔術が発動する直前、レイレンの姿をした男へ向けて、黒猫が飛び掛ったのだ。
 その黒猫はアッシア教師が連れていた黒猫で、クロさんと呼ばれていた。魔術戦を繰り広げる間にてっきりどこかへ逃げたものだと思っていたが、とにかくエマ教師の窮地を助けたのはその黒猫だった。
 黒猫はすぐさま男に払いのけられたが、体に魔力を帯びさせていたのか、男の文様を大きく損なわせた。発動寸前だった男の魔術文様は掻き消えた。
 華麗に着地した黒猫は、すぐさま適当な距離を取ると、総毛立たせて男を威嚇した。

 フゥゥゥッ――

 唸るようにひねり出された呼吸音は明らかな敵意を示す。
 大きな金色の眼はさらに大きく見開かれ、黒猫の小さな体から放たれる威圧感は、風圧に似たものすら感じさせるものだった。
 そんな猫の様子を、レイレンの姿をした男は、しばらく不思議そうに眺めていたが、突然、男は何かを爆発させたような高笑いを響かせた。
「ガルダか」言いながら、男はなおも哄笑を続ける。「こいつはおもしろい。つまらなくとも生きておくものだな。ときに思わぬものに出会う。いいぞ。実にいいぞ」
 男はなおも笑う。哄笑が、石室に響く。
「最近はろくな物が見つからないと思っていたら、こんな――」
 そこまで言って、また男は笑った。そして、そういうことか、と呟いて、エマ教師に向き直った。
「これは面白い。古人曰く、佳き日に血を流すべからずという。今はお前たちを殺さない。せいぜい、足掻いてみるがいい」
 そして、男は哄笑を響かせながら遺構の入り口の方向へと歩き出す。全身で警戒をする黒猫、そしてエマ教師の横を通りすぎる。しかしその途中、
「……ま……て……お前は……」
 アッシア教師が、男を呻くように制止した。アッシア教師は意識が定まらず立ち上がることもままならないが、床に腹をつけたまま、何かを求めるように右手を伸ばした。
 だが、男は足元に転がるアッシアをちらりと一瞥すると、一撃、アッシアの腹を蹴り上げた。硬いブーツの爪先で内臓までを叩かれて、アッシアは身悶えて海老のように体を丸めた。
 男の方は、それ以上追撃をしなかったが、威圧感は消えてはいなかった。アッシア以外の誰もが動けずにいる中、レイレンの姿をした男は間口で足を止め、振り返る。そして、皮肉げに唇を歪めると、警戒姿勢のまま動けないエマ教師に向けて言った。
「娘。レイレン=デインについて知りたければ、そこの猫にでも聞くがいい。……そいつもレイレンだ」
「え?」
 エマ教師の疑問の言葉には答えずに――男は石室を出て姿を消した。
 廊下に響く男の高笑いが、まるで遠雷のようにエマ教師の耳に響いていた。



                               ■□■



「大丈夫ですか、アッシア教師――」
 そんな心配そうな声を呪文にして、エマ教師の白く柔らかそうな指先に白い光が灯る。エマ教師の治癒魔術を心地良く感じながら、アッシアは眼を閉じた。
 治癒魔術とは一言で言えば、被治癒者本人の自己回復能力を高めるだけの魔術である。従って、治癒魔術は止血や軽傷を癒す程度にしか使えない。重傷を癒すことはできないし、失った部位や血液を復活させることもできない。加えて軽傷でも、これは術者の技量にもよるが、すぐさま癒えるということもない。そういった限られた使用範囲に加え、この魔術は治療される者の体力を奪うという欠点があり、体力の無い瀕死の者には使うことができないという使い勝手の悪い魔術だった。
 だがとにかく応急処置には使える。そんなことを実感しながら、アッシアは治癒魔術によって自己治癒能力が活発になったことで生じる、全身を巡るじんわりとした温かみを味わった。
「すいません、また……わたしのために」
 そう言ったのは、エマ教師の隣に並んで座っていたヴァルだった。瞳を伏せ、きゅっ、と膝の上のふたつの拳を握り締める。庇われたことに強い責任を感じている様子が見てとれた。彼女は先ほどまで気を失っていたのだが、さほどのダメージも無いようで、今はただアッシアを気遣っている。
 気遣われている当のアッシアはと言えば、致命傷はないものの、あちこちを衝撃波やら床やら強化ブーツやらでしこたま痛めつけられて、動くたびに体が痛んだ。特に、威力が減殺されているとはいえ、魔術衝撃波を受けた背中は酷かった。肩の骨にひびが入っているかもしれないとアッシアは思った。
「癒しの華よ」
 エマ教師が、再び治癒魔術を発動させた。癒しの光が灯るたびに、アッシアの全身の痛みが和らぐ。こうして今から治癒で体力を使えば、今夜は泥のように眠れることは間違いなかった。もちろん、治してもらえるのだから、アッシアに文句はなかったが。
 柔らかな眠気の波に負けて、アッシアは目を閉じた。そして、思考する。
 あのレイレン=デインの姿をした男は、何者なのだろうと。
 エマ教師は、あの長髪の危険そうな男を、レイレン=デインと呼んだ。しかし、男は、どうもレイレンではないようだった。だが、まんざら無関係ということもなさそうだった。
 それはどういうことなのか。
 あとでエマ教師に聞いてみよう、とアッシアは思う。気を失ってしまっていた自分よりも情報を持っているだろうとアッシアは思った。
 それにしても、遺構調査でとんでもないものを掘り当てたものだ、とアッシアは思う。
 今の姿から昔の姿が想像することはできなくても、今と昔は必ず一本の線で繋がっている。ただ、その線が見えにくいことがある。そこには破壊があり、断絶があり、そして新たな創造がある。しかし、それらは必ず何かで繋がっている。だからこそ、ひとは過去を調べる。過去を調べ、現在を真に理解し、新たなものを創り出す。それが、営みだ。
 この森の過去が都市であったことを知るように、レイレン=デインの過去も、知らなければならないのだろう。それは、アッシアを頼ってきた黒猫の謎をたどることでもあり、この遺構の地下で出会ったレイレンの姿をした男の謎をたどることでもある。
 その謎を解くことが、何故だかアッシアの使命のように感じられて仕方がなかった。
「ご加減はいかがですか、アッシア教師――」
 優しい声がして、アッシアは薄目を開く。目の前には、樺色の髪をした女性がいた。クリーム色のきめの細かい肌。心配そうな茶色の虹彩には、紅が少し混じっている。
「だいぶ良くなりました。ありがとうございます、エマ教師」
 うわの空で、アッシアは答え、エマ教師の顔を見返す。
 そして――、と彼は思う。
 この謎を追うことは、エマ=フロックハート教師の過去を辿ることでもあるのだ。