プロローグ




 昼間だというのに、その部屋には魔術灯がともされていた。

 だが、それも仕方の無いことかもしれない。この部屋は日の光が届かない地下にあるのだから。そして、この部屋に居るものたちにも、日の光は届かない。いやむしろ、彼らが日の光を避けているという表現が正しいのか。少なくとも彼らは、表に出せるような職業の者ではなかった。

 部屋は、広大な空間だった。そこにいるのは、男がひとりと女がひとり。

 男は、ざらりとした黒髪を腰まで伸ばし、しかもそれを束ねもせずに、黙々と読書をしていた。
 椅子代わりなのだろう、男は手頃な石に腰掛け、埃臭い分厚い書物を片手で支えている。袖が無い服を着ている為に、はっきりとした腕の筋肉が見えていた。入れ墨か何かだろうか。右腕に、模様が入っている。縄を巻きつけたかのような模様だ。いや、何かの傷跡にも見える――。男は、しっかりとした眉と鼻梁を少し険しくして、文字をたどる。
 女は壁にもたれかかりながら、挑発的な赤い唇をひきしめて、そんな男を少し離れたところから黙って眺めている。
 魔術灯に音はない。まばたきの音すら聞こえそうなその空間で、時間だけが少しずつ過ぎていった。

「たいへんです、ノワールの姐さぁん」
「たいへんだ、たいへんだ」
 突然の声は、これまた突然に部屋に駆け込んできた二人の男たちのものだった。赤い唇の女――おそらくこの女がノワールなのだろう――は壁から肩を離し、なんだい、と物憂げに言った。
 二人の男たちの要領を得ない説明を聞いたあと、ノワールは、闖入者にもかかわらずまだ本から目を離そうとしない男に、たった一言呼びかけた。少し甘めの声で。

「旦那?」

 どうする、という言葉すら省略されていたが、意志は伝わったようだった。男はちらと赤い唇の女を見て、小さく頷くと、すぐに読書へと戻っていった。
 旦那と呼んだその男の反応だけで、赤い唇の女には充分だった。そして、先ほど部屋に入って来たばかりの二人の男を一瞥する。どうやら、この二人の男は部下らしい。
「お行き。ボルキ、ゴルキ。奴らの目的を、調べてくるんだ」
 旦那を呼んだ声とはうってかわった厳しさで、赤い唇の女は指示を出した。部下の二人は、アイサーと敬礼すると、どたばたと足音を響かせて部屋を出て行った。
「まったく、もっとスマートにできないもんなのかい」
 部下の背中が消えた曲がり角を見ながら、赤い唇の女が苦々しく呟いた。そして、声音を甘くして同意を求める。

「ねぇ、旦那ぁ?」

 しかし、旦那と呼ばれる男は、今度は本から目を離そうとはしなかった。返事すらする気もないようで、ただの静寂が部屋に続く。
 赤い唇の女は、何かをごまかすように鼻から息を吐くと、腕を組み、壁にもたれかかった。