1. 『どうして試験なんてものがあるのかしら』





 それは絶対にやってくる。
 逃げても逃げても、必ず追いつかれる。逃げ切ることはできない。
 そう、それはまるで、今ここにいる私たちよりも、高次な存在――例えば神様。に、あらかじめ決められているかのように。私たちは定められたそれを、ときに運命と呼び、ときに試練と呼ぶ……。

「というよりも、既にやって来ていると思うんだよね。しかも真っ只中」
 そう指摘しながら、うるさそうに顔をあげたのは、赤毛の少年だった。右手にもつペンの動きも止まる。
「そうは言ってもさあ、パット」
 答えたのは、少年の正面に座るポニーテイルの少女だった。先ほどまでの抒情詩的な演説というか、逃避的な愚痴は止めたようだ。哲学的な表情を演出するために作っていた眉間のしわを、指先で伸ばしながら言ってくる。
「一夜漬けも3日目になると、もう体力の限界だと思わない?」
「そう思うなら、自分の勉強方法を見直せばいいんじゃないか?」パットは言う。
 だってぇ、と少し大きな声で抗弁しかけてそして、自分のいる場所がどこかを思い出して、リーンは慌てて口を押さえた。
 ここは魔術学院の図書室。大量の蔵書を誇りながら、石造りで窓も小さく日当たりも悪いが、学習室がある。そのため、リーンやパットのような生徒の多くが、ここに集まっている。
 つまり、試験勉強をしたい生徒たちが。
 セドゥルス魔術学院は、中間試験の期間に入っていた。1週間ほどの期間で、生徒たちが自分で選択した教科に応じて試験が行われる。当然悪い点を取れば単位が取れず、留年の運びになってしまう一方で、良い点を取れば自分の進路にも影響してくるので、皆それぞれに努力をしている。
 少し前まで、ウィーズ教室のフィールドワークでばたばたしていたのが嘘のように、生徒たちは試験という目の前の日常に溶け込んでいった。分厚い書物を捲って注釈を読み、それらをノートに写して暗記していく。教科も暗記科目だけではない。加えて言えば、魔術教科だけでもない。一般科目と呼ばれる言語、数学、歴史、政治なども必修科目になっていて、この辺りは魔術系の学校も通常の学校も大差ない。普通の学校との大きな違いは、魔術教科とその実技が必修である点だけではないだろうか。
「ううう。どうして、試験なんかあるのかしら。いったい誰が試験なんて制度を考えたのよ。絶対に、陰険な奴に違い無いわ……」
 抒情詩的な愚痴は止めたようだが、普通の愚痴は続く。ぶちぶちと呟きながら、リーンはノートにひたすら黒い丸を書いている。
「あれこれ嘆くよりも、勉強した方がいいんじゃないか? あと2日だろ?」
 赤毛の少年――パットの方は、たいして相手にもせず、ページを捲り、勉強へと戻っていった。
「急場のときの正論って、どうしてこー腹が立つのかしら。ちょっと殴ってもいい?」
「八つ当たりはやめろよな。勉強、教えてやらなくてもいいのか?」
「そうやってか弱いわたしを脅すのね、パットは。幼馴染なんていったって、こういうときに本性がわかるのよね」
 ぶちぶちと続けるリーンに、パットはやれやれという風に溜め息をついた。
「まあ、ここまできたら、じたばたしても始まらないってのもあるから……。休憩を入れるか?」
 そうパットは提案してみたが、しかし。
「ううん。……一夜漬け戦法のわたしの場合は、直前の一日がとっても重要だから」
 そう言って休憩を拒否し、のろのろと勉強を始める幼馴染のリーンを眺めながら、パットはまた軽く溜め息をつく。結局のところ、リーンだってすべてわかっていて、ただ愚痴を言いたいだけなのだ。問題は、パット自身がその愚痴を聞く役になってしまっているというところか。
(まあ、気持ちはわからんことも無いけどさ)
 パットとて同じ学生で、試験に挑む当事者なのだ。リーンの気持ちがわからないわけでもない。しかも、幼馴染の従妹――そう、リーンは彼の従妹なのだ――なのだから。
 さすがに学年首席を取るような同じ教室のレクシア女史には及ばないが、パットの成績もそれなりに良い。学年の中では上位に入る。対してリーンの成績は、良くは無く、かといって悪くも無く、というところか。具体的には、真ん中よりもやや下ぐらいのはずだ。
 しかし、成績によって試験への気持ちが違ってくるかといえば、そうでもないとパットは思う。誰でも良い点を取りたい。皆がそう思うから、試験から感じる重圧感は、ほとんどの人間が等しく持つものだ。その重圧感への感じ方は、それぞれの個性もあるだろうが――。
(まあ結局、リーンは直前ですべてやろうとするから、大変になっちゃうんだろうな)
 そんな風に結論に到りながら、パットは眼前のリーンを見遣る。すると、彼女は先ほど愚痴を言っていた態度はどこへやら、今はもうすっかり集中して、専門書に没頭している。この瞬発力はたいしたものだ、とパットは素直に感心する。
 結局のところ、それぞれのスタイルで、試験に臨むしかないんだな。
 そうパットの胸中でどうでも良い結論が出たとき、彼は、見覚えのある姿を見つけた。
 彼女の制服姿を見るのは初めてかもしれないな、などと感想を持つ。
 その彼女は、紺色の制服ローブに身を包み、分厚い書籍やらノートやら一式を胸に抱くようにして、静かに歩いている。さほど長くない黒髪は、今は勉強をするために邪魔なのだろう、地味なヘアピンで前髪が留められていた。
 やあ、と小さな声でパットは彼女に呼びかける。
 そこで、初めて気付いたようにして、彼女――ヴァルが立ち止まった。

「久しぶり、パット君。元気だった?」
「ああ、おかげさまで、すごく元気さ。そっちは?」
「わたしは……まあ、普通かな」
 少し考えるように視線を床に走らせながら、ヴァルは微笑みを浮かべた。と、そこでヴァルが近くにいることに初めて気がついたのか、リーンが頭の尻尾とともに顔をあげ、
「あ、ヴァル」
「リーン。どう、調子は?」
 呼びかけられてもリーンはしばらく答えず、不思議そうな表情でヴァルを眺めて、
「なんだか、もの凄く久しぶりな気がする」
「2日前にあったばかりじゃない……ほら、魔術器具学の試験のときに一緒になったでしょ」苦笑いして、ヴァルが言った。
「だって、試験期間が始まってから勉強に次ぐ勉強で、1日がもの凄く長く感じるの。まるで1日が1ヶ月になったみたい。毎日ほとんど徹夜みたいなものだし。もう限界」
 ヴァルは、リーンたちとは所属教室が違い、学年もひとつ上だが、リーンの友達だった。パットは良く知らないが、知り合うきっかけになったウィーズ教室のフィールドワークから戻って来たあとも、ふたりで良くお茶を飲んだり話をしたりしているようだった。
 そこで思い出したように、がばと跳ねるように体を起こし、リーンは言った。
「あ、そういえば、ヴァルって近世魔術文様学概論をとってるって言ってたよね?」
「うん」
「もう勉強終わった? 試験に出そうなところ、教えてっ。お願い」
 祈りを捧げるような姿勢でお願いするリーンに対して、ヴァルは、
「近世魔術文様学概論なら、もう大体終わっていて、模擬解答案も作ってあるけど……使う?」
「ああもう、ヴァルったら神さま!」
 抱きつくのではないだろうか、というほどの感極まったような声で言って、リーンは空いていた自分の隣の席へとヴァルをいざなう。ヴァルも自分の予定があるだろうに、素直にその誘導に従って、リーンの隣へと腰をおろした。
 セドゥルス魔術学院の教育課程では、それぞれの学年で取る必修科目の他に、自分で選ぶ選択科目、そして自分が所属する教室の教師が指定する個別科目とがある。これらの科目を組み合わせて、7学年以内で必要単位を取得すると卒業になる。
 だから、学年が違っても、リーンとヴァルのように、同じ教科を学ぶということが結構ある。
 ついでに言えば、入学したときに自分の所属教室を選ぶということは、この個別科目の選択と、ホームルームのメンバーを決めるという意味合いがあるに過ぎない。しかし、それは元々の意味合いからの内容で、実際は、有名な教師のしたにつきたいとか、興味のある個別科目を取りたいとか、そういった生徒たちの要望が絡んでくるし、いったん教室に所属してしまえば自分の教室への帰属意識が生まれ、それは他教室への対抗意識に繋がってくる。
 リーンやパットの所属するアッシア教師のウィーズ教室であれば、少人数なだけに帰属意識が高いと言えるし、ヴァルが所属するエマ教師のフロックハート教室であれば、入室試験があるほどの人気の高い教室なだけに、それなりのエリート意識もある。
 といっても、ヴァルについていえば、そういう意識とはあまり関係が無い、どちらかと言えば例外的な存在のようだったが。
「そういえばさ」
ヴァルがリーンに教えている最中に、そう口を挟んだのはパットだった。声をより潜めて、続ける。
「あの件は大丈夫だったの? ほら、ヴァルとアッシア先生の件」
 それだけで、ヴァルには通じたようだった。表情を固くして一度頷くと、その紫がかった黒い瞳を伏せた。
(ヴァルは睫毛が長いなぁ)
 場違いな感想を頭の隅に思い浮かべながらも、一方でパットは別のことも考える。
 ヴァルが、復讐の仇であるレイレン=デインと間違って、アッシア教師を魔術で攻撃してしまったことがあった。旅先での出来事ということもあって、事件を大きくしないように内々で処理しようということで、教師間で決着し、パットたちも口止めをされていた。しかし、その後の処置が実際にはどうなったのか、パットはずっと気になっていた。
 けれど、対ヴァル情報の窓口であるリーン(勝手にパットがそう考えているだけだが)はそういったことには関心が無いようで、情報がまったく入ってこないので、こうして本人に聞いてみたのだった。
 生徒が魔術で教師を攻撃したとなれば、退学になってもおかしくない。だから、今ヴァルがまだ魔術学院に所属している時点で、「内々の処理」がうまく行っているということなのだろうが。
「うん。反省文を書いてエマ先生に提出したけれど、それくらいよ。査問会に呼ばれたりとか、そういうことは無かったわ」
 そうか、それは良かった、とパットは言った。そして、ヴァルも深く頷く。
「アッシア先生は、とても優しいひとね。地下遺構でも、かばってくれたし……」
 そう言って、ヴァルは固い表情を崩し、何かを思い出すような目をした。
 その柔らかな表情は、まったく普通の少女のものだった。この少女が復讐を人生の目的として生きているなど、いったい誰が考えるだろうとパットは思う。
 ヴァルことヴァルヴァーラ=ズボォーチカは、フロックハート教室の変わり種として、学院ではちょっとした有名人だった。稀代の暗殺者であるレイレン=デインを殺害することを人生の目的とすることを公言していたヴァルは、ヴィー・ズィーとコードネームのようなあだ名がつけられ、皆に遠巻きに眺められる存在だった。ちょうど、動物園の珍獣のように。
 パットも、今まで噂を聞いただけで、ヴァルとは直接話をしたことはなかったが、こうして本人を目の前にしてみると、普通の女生徒と取り立てて変わらない。案外、人間とはそういうものかもしれない。
 そんなパットの感想をさえぎるように、今度ね、とヴァルが言った。
「試験が終わったあとにでも、また改めて、エマ先生とアッシア先生にお礼を言いに行こうと思っているの」
 それを聞いて、いいんじゃない、と言ったのはリーンだった。
「アッシア先生、いつも暇そうにしているし。控室にだいたいいるみたいだし、そこに居なきゃ中庭でクロさんと一緒に日向ぼっこでもしているから。見つけやすいと思うよ」
 リーンの言葉に、そうみたいねとヴァルが頷く。どうやら知っている情報だったらしい。そして、ヴァルが続けた言葉は、幼馴染の従兄妹たちを驚かすのに充分なものだった。
「たまに、エマ先生とも一緒にいるよね」
「「えっ?」」
 幼馴染の従兄妹たち――彼らを双子と呼ぶものもいる――のハモった声が、図書室に響く。じろり、という音でもしそうな周囲の視線が、従兄妹たちに集まる。パットとリーンは思わず出てしまった声に自ら驚き、それぞれ口を両手で押さえた。
 しかしそれでも驚きは続いているようで、従兄妹たちは目を丸くして、「それ本当?」とヴァルに視線で訴える。
「ほ、本当だけど……何か変かな」
 少し引き気味に、ヴァルが言う。
従兄妹たちは、これ以上ないというくらい、大きく頷いた。
 パットが持っていた専門書を机に立てて壁を作り、密談するための空間を作る。
「だって、あの冴えないアッシア先生と、アイドル教師のエマ先生だろ? それが一緒にいるだなんて、どう考えたっておかしいじゃないか。フィールドワークのときは、本当に偶然たまたま、一緒になったけれどさ」
 小声だが鋭く早口で、指まで立ててパットが言う。
 うんうん、とポニーテイルを揺らして頷くリーンを横目に、ヴァルは反論を試みてみる。
「そ、そうかな……」
 すごく弱々しい反論だった。
 それを押し切る勢いで、双子はぐっと拳をにぎって力説する。
「変さ。アッシア先生は、エマ教師のファンクラブに入っているんだよ? つまり、いちファンに過ぎない存在とアイドル、それほど遠い存在がひとつの場所に居るってことだよ。虚構と現実が同時に存在してしまっているようなもんさ」
「お月さまと亀が並んでいるようなものなの」腕組みをして頷いて、リーン。
「ふぁ、ふぁんくらぶ? エマ先生の?」
 どうやら、そういうものが存在することも知らないようで、ヴァルが独り言のように呟く。もはや彼女は、話についていけなくなりつつあるようだった。
「これは――事件ね」リーンが言う。
「事件、そう、事件だが……。いやむしろ、怪奇現象」パットが難しい顔をする。
「それじゃあまだ弱いわ。規模としては、天変地異じゃないかしら」
「それだ」パットが発案した従妹を指差す。
 目と目を合わせて、双子は深く頷きあう。
「それだ……って、いったいどれなの……?」
 その頃にはすっかり会話についていけなくなったヴァルが、脳内に疑問符を浮かべて、ただ苦い愛想笑いを浮かべていた。