2. 『噂ぐらいしか娯楽がありませんから』







「よいしょ……、あれ、おかしいな、こうか?」
「手を放せアッシア。こうだ」
 馬車の荷物入れに押し込もうとしていたトランクから、アッシアが手を放し、黒猫が体当たりでもするように、四つ足でトランクを蹴りこむ。するとまるですべりこむように、トランクが荷物入れへと納まった。
「……上出来、ですね」
 アッシアは細かく頷くと、次は馬車へと乗り込むために横にまわった。クロさんはその黒縁眼鏡の教師の一歩後ろについて素早く移動する。
 学院では、生徒たちが一通り出発したあとに、教師たちも逐次出発し、学院を離れる。教師たちも実家に帰ったり、旅行をしたり、知り合いの別荘に行ったりと、思い思いにそれぞれを休暇を過ごすのが一般的だ。だから、夏期休暇の期間、ほとんど人はいなくなる。
 学院が閉鎖されるわけではないが、学院を運営する事務職員たちが皆休暇に入ってしまうため、学院に残る者は、いろいろな意味で自活をしなくてはならなくなる。例えば、日々の3食を提供してくれる食堂はやってないから、なんらかの手段で自分の食事をまかなわなければいけない――ほとんど店がないこの陸の孤島で。
 それに、公共の場所の管理――掃除とか鍵閉めとか――を残っている者たちでやらなければならないため、休暇期間中の学院は、結構暮らしにくい場所になる。そのため、生徒も教師もそのほとんどは、学院を離れるのだ。
 しかし、そんな流れに逆らって、夏期休暇を学院で過ごすものもいる。単純に行く場所や帰る場所がない人間もいるし、好んで残る変わり者もいる。我らがアッシア教師は前者と後者両方の条件に該当し、夏期休暇は、学院の一室で古代学の研究に没頭するのが通常だ。去年は休暇前に乾燥パスタを大量に買い込み、3食を塩茹でパスタで過ごしたという。
「夏は暑さで食欲をあまり感じないから、本当に空腹になったときだけ、たまに食事をするんだ。だから、食事の献立が何かは、意外と気にならないものだよ」
 ――とその黒縁眼鏡の教師は語ったことがあるらしいが、こうした意見は、本当に少数派だ。参考にはならないだろう。
 とまれ、アッシア教師は例年、夏期休暇を学院で過ごすのだが、今年は違う。
 ベルファルト王国へと行くのだ。
 何故かと言えば、招かれたからだ、と簡潔に答えることができるのだが、もっと直接的な理由が、今アッシア教師が乗り込もうとしている、馬車の中にあった。
「お待たせしてすみません、エマ教師――」
 馬車の扉を開いた先には、エマ=フロックハート教師がいるはずだった。同じくベルファルト王国大公家のジュリアス=デグランに招かれ、ともにベルファルト王国へ向かうことになっていた。
 大陸一級の魔術師、艶やかな樺色の髪を持つ美人。にもかかわらず、男女から人気が高く人格円満。絵に描いたような才色兼備で、アッシアの密かな憧れだった。
 だが――。
「ごきげんよう、アッシア教師」
 馬車の中の女性が、にっこり笑って会釈するように首を傾げる。
 座っていたのは、エマ教師ではなく、シアル=ブラウン教師だった。



「エマさんが早く出発したいというから、私と馬車の順番を代わったんですよ」
「な、なるほど、そうでしたか」
 街道を行く馬車の中、シアル教師は、にこやかに、いつもの少しおっとりとした調子で談笑する。
 対するアッシアは少し戸惑い気味だ。その黒縁眼鏡の教師の隣では、黒猫が体を横たえている。馬車は四人乗りだが、二人と一匹を乗せてがたごとと道を進んでいる。きっと、彼らの前にもたくさんの馬車が通ったのだろう。石の舗装もない土の道には、軌条のように車輪の跡がついていた。
 シアル教師は、学院の教師で、生徒教師を問わず集めてお茶会を開くのが好きなため、お茶の伝道師というあだ名がある。シアル教師に面と向かってそう呼ぶ者はいないが、本人はそれを知っていてそして特に悪いように思っている様子もない。もちろん、そんな彼女に悪意を持つ者もいない。

(いやあ、びっくりしたなぁ)
 まだどこか落ち着かない気分で、腹のあたりを撫でまわしながら、アッシアはそれとなくシアル教師を見る。ふふ、と彼女は向かいで微笑を浮かべて、わずかに首を傾げている。
 緩くウェーブのかかった髪と、いつもと同じ柑橘の匂い。馬車の窓から時折り飛び込んでくる光が、彼女の肌を白く照らし出す。微笑んだままの目元は、いかにも優しげで、彼女が魅力的かと問われれば、アッシアはおそらく迷わず首を縦に振っただろう。
(なんか最近、美人に縁があるような気がする)
 ほんの少し前まではまともに話をしたことがなかったエマ教師とも知り合いになり、今はこうしてシアル教師とふたりきり――猫は数えないことにすれば――で、馬車に乗っているのだ。
(運が変わって来ているかな……? でも、それもこれも、クロさんに会ってからだ)
 横目でアッシアは隣に座る黒猫を見た。入念に整えでもしているのか、艶やかな黒い毛皮が、馬車の振動に合わせてちらちらと光を反射している。
(まあでも、何回か死にかけているしな。運が良くなったとは、単純に言えないかも)
 それに、とアッシアは思う。
 これから、アッシアは過去との決着をつけるために、ベルファルト王国へと向かっている。過去との決着というものが、どのようなものになるのか、アッシアには全然想像がついていない。どういうものであるべきなのか、そして実際はどのようになるのか。

 あのときの――戦場を離れたときの、理由を話せばいいのか。
 許しを請えば良いのか。
 だが、一体誰に。
 そして、償いは言葉だけで足りるのか。
 ひょっとしたら、ダグラスが望むように、自分の命を差し出さなければいけないのか。
 アッシアは、長袖のシャツのしたの右腕の火傷の痕を触る。
 火傷の痕は、アッシアにとって罪深く愚かな過去の象徴で、烙印だった。
 そう、この火傷は、アッシアの『ふたつの罪』を端的に表した印なのだ。

「冷たい飲物でも、いかがですか?」
 シアル教師の声に、アッシアは、はっとして顔をあげる。
 顔をあげた途端に外の光とかち合って、黒縁眼鏡の奥の目を思わず細めた。太陽は傾き、世界が暖色に塗り替え始められていた。刺すような暑さも、気付けばだいぶ収まってきたような気がする。
「あ、ええ、すみません。いただきます」
 シアル教師の隣の席には藤のバスケットが置いてあった。その蓋を開けて、シアル教師は布包みを取り出す。
「乗り物の中ですから、あまり飲みすぎても、よくないんですけれども。でも、水分補給は大事ですからね」
 言いながらシアル教師が開いた布包みの中には、銀色の容器が入っていた。シアル教師が開くと、たぷんと音がした。水が入っている。
「氷を持ってきたんですけど、やはり溶けてしまいましたね」
「僕がやりますよ。それ、貸してください」
 シアル教師が差し出した容器を、アッシアが受け取った。そして手早く魔術文様を描き、容器を包み込む。
「氷竜の吐息よ」
 アッシアの発動した魔術が、銀色の容器を急速に放熱させ、冷却する。熱量を奪われた水は、たちまち凍りつき、氷の塊になった。これもシアル教師が準備していたアイスピックで氷を細かく砕くと、容器をシアル教師に返した。
 シアル教師は、あらかじめ詰めて来たのだろう、氷をグラスに入れると、琥珀色の瓶からお茶を注ぎ加える。そして手早くストローを差込むと、シアル教師はグラスを差し出し、
「魔術、お上手なんですね。冷却魔術は難しいのに、こんなに早くしっかりと凍って」
「それほどでもないですよ」
 いやいやと顔の前で手を振りながら、アッシアはグラスを受け取る。
 魔術は、魔力と呼ばれる純粋なエネルギーの行使となる。だからエネルギーをただの熱に変える魔術は簡単だが、冷却魔術は、正のエネルギーである魔力を、負のエネルギーに反転させる複雑な文様が必要となるため、確かに難度が高い魔術になる。
「難しいと言っても、学院では最終学年で教える水準のものですよ。シアル教師こそ、難しい魔術を研究されているじゃないですか。……ええと、空間魔術でしたっけ?」
 アッシアが水を向ける。
「理論は確かにそうですけれど、実践となるとまた別です。アッシア教師の魔術、とても滑らかでした。いつも練習されてるんですか?」
 そんなことはないですよ、と否定して、アッシアはストローに口をつける。お茶には柑橘系の果汁が混ぜられているのか、華やかな甘味があった。
 ちょうど喉も渇いていたアッシアが、もう一息、冷たいお茶を吸い込んだそのときだった。アッシアの目を覗き込むように、シアル教師が体を前に乗り出し、突然聞いた。
「アッシア教師が、エマさんとお付き合いしているって本当ですか?」
 思わず口に含んでいたお茶を、吐き出しそうになったが、アッシアはなんとかこらえた。こらえたが、甘いお茶は気管に入って、アッシアはむせて咳をする。シアル教師は、咳がかからないように、そつなく体の位置を元に戻している。
「ど、どうしてそんなことをっ……」
「あらやだ、噂になってますよ、学院の。それで、実際はどうなのか、わたくし、とても興味がありますの」
 あんなところじゃ、噂ぐらいしか娯楽がありませんから。
 どきどきわくわくといった様子で、シアル教師が胸元で手を合わせた。
「エマさんにも聞いたんですけれど、なかなか答えてくれなくて。それで、アッシア教師に、本当のところを聞かせてもらいたいと思ってるんです」
 改めて、シアル教師は体を前に乗り出した。極上の笑顔だ。
「ひょっとして、この夏休みにご結婚を決めるおつもりとか?」
「まさか、そんなことはありませんよ」
「お付き合い始めて、どれくらいです?」
「いや、というか、僕とエマ教師はそんな関係ではないですよ」
「じゃあ、おつきあいしたいと思われている?」
「それは……」
「告白はどちらがされるんです? やっぱりアッシア教師? それとも意外に、アッシア教師は告白される方になるのかしら。仲良くなった決め手はなんなんですか?」
 シアル教師の質問責めにたじたじになったアッシアは、一息つこうと、流れをずらすことを試みる。
「え、エマ教師は、なんて言っていました?」
「と、おっしゃいますと?」シアル教師は首をかしげた。
「ほら、さきほど、同じことをエマ教師に聞いたとおっしゃっていたじゃないですか。そのとき、エマ教師はなんとおっしゃっていました?」
「それは……」
 急に勢いを落とし、シアル教師は口篭もる。
「それ……は?」
 不安な気分になりながらも、今度はアッシア教師が身を乗り出す。
 なんだかんだで、気になるのだ。
 いったい、自分がエマ教師にどのように思われているのかが。
 レイレンのことがきっかけ、というか、会う理由の大半を占めるとはいえ、エマ教師とふたりで会う機会は、今までからは想像できないほど多くなっているのだ。
 はっきりとした好意をもってもらえなくとも、多少なりとも気にしてもらえれば、ひょっとしたらひょっとするのかもしれないのだ。
 弓をもくじも、引いてみなければ当たらない。それだけは真理なのだ。
 だが。
「エマさんは、『それは誤解です』とぴしゃりと答えられて、あとはその話題を持ち出せるような雰囲気じゃなくなってしまって……あ、そんなに肩を落とさないでください、アッシア教師。おふたりがどんな関係なのか、大体わかりましたから」
 すまなそうに、シアル教師が言う。
「そうですか……、わかってもらえて嬉しいですよ」
 背中と肩を丸めて、哀愁を漂わせながら、アッシアはお茶をすする。
 それでも、その甘いお茶は、どんな気分でも変わらずおいしかったのだそうだ。


                          ■□■


「はーっ。やっぱり、おいしいものを食べると幸せよねぇ」
 言いながら、リーンは店の扉を押し開ける。白い窓枠にギヤマンがはめ込まれた扉が大きく左に開き、扉についている呼び鈴が、からんからんと乾いた音を立てた。
 ちょっと早めの夕食を済ませた3人の少年少女が、街を歩く。石畳の舗装が充分でない街路は、風が吹くとうっすらと土埃を立てる。ぐにゃぐにゃと曲がりくねった細い街路の両脇には、がっしりとした石造りの建物が並んでいる。みやこびてはいないが、割と活気があるこの街の人々の表情は明るい。
 ここはベルファルト王国デグラン大公家領、国境の町ザードリック。
 その街で、リーンたち一行は馬車を降りていた。
「そろそろ、今日の宿を決めないとな」
 最後尾を歩く、赤毛の少年が、建物の隙間から空を見上げる。隙間の空は暖色に染まっていて、その端は紺色になっていた。よく見れば、一番星どころか三番星ぐらいまで見える。
「エマ先生たちが、この街に着くのはきっと夜ね。そうなると、合流は難しそう」
 ひどく残念そうにそう言ったのは、リーンの隣を歩く褐色の肌の少女――ヴァルだった。本当にがっかりしているのか、それとも旅の疲れなのか、運ぶ足は重いように見える。
「そうねー」ヴァルとは対照的に、軽い調子のリーン。「ザードリックも思ったよりも大きい街だったしね。馬車乗り場で張っていればなんとかなるかと思ったけれど、馬車乗り場自体もいくつもあるみたいだしね」
「そんな思いつきの計画のために、こんなところまで連れてこられたわけだ、僕は。ああ、なんて可哀想なんだろう。まるでどこかの殉教者みたいだ」
 まるで何かの芝居のように、最後尾の少年――パットが言った。両手を組んで、後ろ頭をもたれさせている。きっと無理に連れてこられたことに対する嫌味のつもりなのだろう。
「別にアッシア先生たちに会えなかったとしたって、観光だと思えばいいじゃない。さっきパットだって、名物の肉の腸詰の燻製、おいしいっておかわりしてたでしょ」と、リーン。
「まあ、食べ物に罪はないし」とおかわりしたパット少年。
「あの燻製に出会えたのは、あたしがパットをここまで連れてきてあげたからよね。むしろ感謝して欲しいわー」
「頼むから、誘拐は悪いことだということぐらいは覚えてくれ……」
 がっくりと肩を落とし、なかば哀願に近いパットだったが、リーンはちっとも聞く様子がない。ニワトリと犬が会話をしようとしたら、きっとこんな風だろう。
(いつも思うけど、このふたりは仲が良いなあ)
 後ろで手を組み、歩きながらヴァルは思う。いや、会話は確かにかみ合っていないのだが、そのかみ合わなさっぷりが見事というかなんと言うか。パットもリーンも幼馴染の従兄妹だというが、まるで兄妹のようだ。ヴァル自身には兄弟はいないし、幼な友達もいないので、正直に言えばこうした関係に憧れがあるし、この従兄妹たちの横を歩いていると、入り込みにくい空間があるようで、ちょっとした寂しさを感じるときもある。
 もう望んでも手に入らないものかもしれないが、これと似たものを手に入れることができるのだろうか。まったく同じとはいかなくても、絆を、そう、誰かとの絆を、自分も繋ぐことができるのだろうか。
 なんだかもやもやとした気持ちを抱え出したそのとき、ヴァルはなんだか見覚えのある姿を一瞬だけ見たような気がして、立ち止まった。
「ヴァル?」
「どうしたんだい?」
 立ち止まったヴァルを気にして、従兄妹たちも止まる。
 最早、薄闇が辺りを包み始めたこの街で、ヴァルはじっと目を凝らす。窓からこぼれ出る灯りが、その人物をわずか照らした。見間違えようもない後ろ姿。艶やかな樺色の髪。薄闇の中で、揺れた髪が確かに見えた。
「エマ先生……!」
 ヴァルが呟く。
 なんという偶然だろう。
 この幸運を、何かに強く感謝したくなって、ヴァルは胸元で両手を握った。