3.『戻らない時間』






 地面に降ろした荷物は、どすんと音を立てた。
 その荷物を引きずって馬車の乗り口まで歩き、アッシアは別れの挨拶をする。足元には、いつものように黒猫を従えていた。
「それではシアル教師、道中お気をつけて。お茶、ごちそうさまでした」
 ベルファルト王国の国境の町ザードリックで、アッシアは馬車を降りたのだった。
 辺りはもう暗くなりはじめており、街辻にぽつりぽつりとある魔術灯が光を投げかけている。青い月が空に浮かんでいた。
 アッシアは目的地についたが、シアル教師はまだ先へと進むらしい。だから、このザードリックで馬車を降りるのは、アッシアだけとなる。まさか一晩中馬車で進むわけではないが、シアル教師は、すでに次の町に宿を手配しているのだそうだ。
 と、そこでアッシアはあることに気がついた。
「あれ……? シアル教師は、確かミティア王国がご出身でしたよね? ベルファルト王国には、観光ですか?」
 問われたシアル教師は一瞬戸惑ったような表情を見せ、
「ま、まあそんなところです。知人、そう知人がベルファルト王国にいますから、その知人のところに行くんです」
「ご友人ですか?」
「ええ、そうですそうです」
 シアル教師は、素早く2回頷いた。ゆるやかに波打つ髪が揺れる。
「それではアッシア教師、ごきげんよう。お気をつけて」
 挨拶に軽く手を振ると、シアル教師は、さっと扉を閉めた。
 もう別れは済んだと判断したのだろう、仕事熱心な御者はさっと馬に一鞭入れると、すぐに馬車を出発させた。アッシアは道を行く馬車に道を譲り、その後ろ姿をしばらく見送った。
 そして。
「さて……行きますか」
 いつの間にかアッシアの荷物の上に乗っていた黒猫に、声をかける。クロさんはアッシアへ金色の瞳を向け、にゃあと鳴いてみせた。

 ザードリックには、ジュリアス=デグラン率いる騎士中隊が訪れているはずだった。七賢者のひとり、『奇術師』ピエトリーニャを捕縛するために割かれた一隊だ。アッシアたちはこの街で合流する予定になっていた。
 街の外に、軍隊が駐屯している様子はなかった。ザードリックはそれなりに大きな宿場街だ。きっと、宿を割り当てて分宿しているのだろう。
「待ち合わせの場所は、銀の噴水広場です。そこに、ジュリアスが――、いや、その配下がいるはずです」
 薄闇の中、足元を確かめるようにしながら、アッシアが歩く。その彼がふと隣を見ると、黒猫の目が光っている。
「その目、魔術で光らせているんですか? クロさん」
「暗くなれば、自然と光る。というよりも、暗くなると目が光っているのがわかるようになる、と言った方が正しいのかもしれん。まあ、どの猫の目でも、そのようなものだろう」
「魔術で、その目の光を破壊光線にできたりしないんですか?」
「できん。必要もない」
「……」
 あまりにもあっさりと返されてしまって、アッシアは少し黙った。
「どうかしたか?」と黒猫。
「いえ、ただ、クロさんは素で返してくるんだなぁと思って」
「普通に答えてはまずいのか?」
「まずくはないですけれど……」
「? 変なやつだな」
 首を傾げるような仕草をして、クロさんはとことこと歩く速度をあげた。ギャロップのような足取りで進む黒猫を追って、アッシアも荷物を引きずる速度をあげる。待ち合わせ場所の『銀の噴水広場』はもう目の前だった。

 広がる水紋を連想させるように、白い光を放つ背の高い魔術灯が広場に配置されている。その中央の一段高くなったところに、噴水があった。二階建ての建物と同じ高さまで水をふきあげる噴水は、節約のために今は動いていない。申し訳程度にちょろちょろと流れる水が、ぬたりとした夏の空気に、水音を響かせていた。
 銀の噴水広場は、このザードリックでは、どうやら有名な場所らしい。もう陽が落ちたという時刻だが、結構周囲に人がいる。男女の組み合わせが多いところを見ると、どうやら逢引きの待ち合わせ場所として使われているらしい。
 そのような中で、大荷物と黒猫を連れているアッシアは奇妙な存在となってしまっていた。アッシアが噴水前に立っていると、仲睦まじそうに腕を組む男女が、笑いあいながらちらちらとアッシアの方を見て去っていく。どうやらアッシアは、噴水広場の男女に、格好の話題を提供してしまっているようだった。確かに、旅行者のような――実際そうなのだが――大荷物を脇に置き、所在無さげにたたずむ黒縁眼鏡の男は、この噴水広場では場違いだった。
 けれど、アッシアは自分が場違いだということを特に気にしてはいなかった。待ち合わせの場所がここなのだから、広場から離れてはまずいだろう。合流できない可能性がある。どうせ移動できないならば、場違いだと気がついても手の打ちようがないし、それにそもそも、この黒縁眼鏡の男は、そういった周囲の視線というものをあまり気にする性質の人間でもなかった。
 いつものように、周囲の奇異の視線は雑音として精神から遮断して、物思いにふける。このときも、アッシアはそうしていた。考える内容は当然、これからのことだ。
 アッシアは、ピエトリーニャ捕縛のために、兄のジュリアス=デグランの率いる一隊に魔術師として加わり、同行する。だが、その同行自体が、出奔の経験を持つアッシアにとっては気まずいことだった。
 アッシアは、隣の大荷物の上にちょこんと座る黒猫を見る。
(クロさんの――いや、レイレンさんの件がなければ、きっと僕はここにいなかっただろうな)
 レイレンとエマ教師のことがなければ、きっと、アッシアは、兄ジュリアスたちの協力要請を跳ねのけて、調べ物に没頭するいつも通りの夏休みを送っていただろう。
 だが、そうはならなかった。
 レイレンの猫化を解く方法を求めるべく、ピエトリーニャの足取りを追って、このベルファルト王国まできた。そして、それだけではなく、自分の過去と決着をつけなければならなくなった。
 果たして、レイレンの猫化魔術を解くための、何かしらの手がかりが手に入るのだろうか。そして、アッシア自身は――。
(どうしたら、いいんだろうな)
 さすりと自分の右腕を撫でる。もう癖になっている動作だった。過去に思いを馳せて、考えて、どうしたら良いかわからなくなると、何かを確認するように古傷を撫でる。それによって自分が何を確認しようとしているのかも、わからないままに。
「失礼ですが、アッシア様――ですね?」
 ふいに背後から声をかけられた。
 驚きを隠しながら、アッシアは振り返った。
 視界に飛び込んできたのは、きっちりと櫛を通した黒髪を油で固めた、泣きぼくろの男。
 詰襟の軍服は、きちんと一番上まで窮屈そうに釦が留められていた。
 アッシアの口から、男の名前が零れ出る。
「ジーク……!」
 その懐かしくも見知った姿に、アッシアの薄茶の目が、零れだした驚きで見開かれた。



                            ■□■



「――で、結局エマ教師を見失ってしまったと」
「この宿屋街のどこかに入ったことは間違いないと思うんだけど……」
 パットの言葉に抗議するわけでもないのだろうが、それでもどこか諦めきれないというように、ヴァルは辺りを見回した。
 ヴァルが見かけたというエマ教師を、生徒たちは、近辺を小一時間ほど探してみたのだが、結局エマ教師は見つからなかったのだった。
「だいたいさ」パットが言う。「エマ教師を見つけて、どうしようってのさ」
 それは根本的な疑問だった。教師たちを追いかけて、いったい何をしようというのか?
 尋ねた相手は、ヴァルだけではなかっただろう。その後ろにいるポニーテイルの少女にも、少年は問いかけたようだった。
 質問されたふたりの少女は、少しの間、ふたりして顔を見合わせていたが、やがてポニーテイルの少女――リーンが、意外な答えを言った。
「世間話かな?」
「せけんばなしィ?」やや裏返った声で、パット。
「あるいは、あいさつかな。やっぱり夏は暑いですね、みたいな」
「あいさつ! わざわざ外国まで追ってきて、あいさつかよ!」
 宿屋街の真ん中で、リーンの言葉にパットが悲壮に叫ぶ。それはそうだろう。無理矢理連れてこられた上に、一日近く馬車に揺られてきたのだ。
 けれど、さすがというかなんというか、リーンは悪びれない。
「だって、そもそも興味本位で来てみたんだもん。そんなに深いことは考えてないわよ」
「考えておけよ!」
「先生たちが見つからなければ、観光して帰ろうと思っていたのよ。あえて言えば、先生同士の人間関係を追ってみたいという、ゴシップ新聞の記者みたいな気分をちょっぴり実感してみたかった、そんな美少女らしい気紛れが動機かな」
「そんな動機で、僕を気絶までさせて、無理矢理ここまで連れてきたのか!? しかも、今、こっそり美少女って自称しただろ!」
「たしかに、こーして考えてみると、あそこまでする必要はなかったかもとか思わなくもないかも、みたいな気分になることはままあるわ」
「なんかわざと文章を長くしてごまかそうとしているみたいだけど、結局悪いことをしたと思っているわけだな?」
「そうねー……」
「……」
 ほんのしばらくの間、ふたりの従兄妹の間に沈黙が落ちる。
 その沈黙を、会話からまったく置いてけぼりになっている、褐色の肌の少女が見守っている。
 しゅびり、とリーンが片手をあげた。そして胸を張って堂々と。
「ごめんっ!」
「全っ然、悪いと思ってないだろ!?」パットがまた叫ぶ。
「そんなことないわよ。ちょっとは思った」
「ちょっとってどのくらい? なあ、お前のちょっとってどのくらいなんだよ」
 反省の色が見えないからだろう――、パットはポニーテイルの従妹にくってかかる。
「うーん、コップ一杯くらい?」
「わからん! 多いのか少ないのかも!」
「なによー、せっかく答えたのに! そもそも、質問が曖昧なのがいけないんでしょ!」
「ま、まあ、ふたりとも、落ち着いて……」
 ヒートアップし始めた従兄妹たちの間に、ヴァルがなだめるために割って入る。
「とりあえず、今日はもう宿をとって、休みましょ? もう暗くなっているし。エマ先生も、これ以上探さなくてもいいよ」
 すると。
「まあ、ヴァルがそう言うなら」
 意外にあっさりと、パットは口論を止めた。
「さんせーい。もう疲れちゃった。泊まるところ、早く探そうよ」
 あくびを手で隠しながら、リーン。
 そして、従兄妹たちは宿を探し始める。
 まるで――何事も無かったかのように。
 この切り替えの早さはなんなのだろう。そして今までのやりとりは何だったのだろう。
 胸中、釈然としない思いを抱きつつも、ヴァルは手近な宿へと足を向けることにした。



                       ■□■



「お久しぶりです。アッシア様――」

 そう言う泣きぼくろの男の声は、懐かしさよりも硬さが勝っているように、アッシアには感じられた。まるで目に見えない溝があるかのように、隔意がある。
「ああ。久しぶり――」
 元気だったか、アッシアは続けてそう言おうとしたが、言葉は喉の奥にひっかかったまま、出てくることはなかった。古い知り合いに会ったときに、どう振る舞えばいいかを頭の中で考えてはいたのだが、それを実行に移すとなると、また別の話になる。
 泣きぼくろの騎士――ジークは、かつてのアッシアの護衛騎士の、ふたりのうちのひとりだった。いや、単純に護衛騎士と言い切ってしまうにはあまりにも近し過ぎる。幼年のころから一緒にいたこの護衛騎士は、アッシアにとっては、もうひとりの兄のような存在でもあった。
 だが硬い空気のまま、ジークは、事務的な口調で言った。
「ジュリアス様の指示でお迎えにあがりました。宿舎まで、ご案内いたします」
 どうぞこちらへ、と決して礼を失しない、丁寧な仕草で導くようにして、ジークは先を歩き出した。アッシアは荷物を持って、その後ろにつき従う。さらにその後ろには黒猫が。
 石畳の道を歩きながら、一行はしばらく口をきくことはなかった。
 けれど、お互い何か言わなければならない、と感じているのがわかる、気まずい沈黙はずっと続いていた。
 3度目の角を曲ったところで、それを破ったのは、アッシアだった。
「いま、ジークは、ジュリアスの隊にいるのかい?」
 3歩分ほどの空白のあと、答えは返ってきた。
「さようです。『あのとき』以降、ジュリアス様の隊にいます」
 ――あのとき。僕が、いなくなってから以降ということか……。
 そうか、と返事にならない相槌をうちながら、アッシアは頷く。
「アッシア様は……」静かな声で、ジーク。
「え?」
「アッシア様は、今、セドゥルス魔術学院で教師をされているそうですね。素晴らしいことです」
 魔術学院で教師をするには、それなりの魔術師であり、かつ高い学識を持つ必要がある。確かに、今では登用試験は難関で、誰にでも門戸が開かれている職業ではない。おそらくジークは、それを指して素晴らしい言ったのだろう。といっても、アッシアは、魔術学院の草莽期、つまり質より量の時代に、教師になったのだが。
「ジーク!」アッシアは、突然、泣きぼくろの騎士の名を呼んだ。「その……すまない」
 先導のために少し前を歩いていた騎士は、静かな目で、アッシアを見た。
「すまない……とは?」
「責任を感じているんだ。僕があのとき、戦場から逃げ出したせいで、部隊は……」
「そのことについては、アッシア様が責任を感じる必要はありません」
 ぴしゃりとジークは言った。続ける。
「あのとき確かに、部隊は奇襲を受け、全滅しました。しかしそれは、むしろ副将であった私の責任、力不足が原因です」
「しかし……」
 食い下がるように、アッシアは呟いた。荷物を持つ手に、知らず力が入る。
「アッシア様が、後悔を感じていらっしゃるのは、わかります。けれど、あの全滅の責は、むしろ私が負うべきなのです」
「けれど……それならば僕は、部隊を率いていた僕は、どうすればいい?」
「――もう、昔の話です」

 落ち着いた声。それだけは、昔と変わらない。
 空には星がある。辻々にある魔術灯は、白い光で路地を照らし、路地にある家々は、暖かい光を鎧戸の隙間から零している。どこかの酒場に吟遊詩人でもいるのか、弦楽器の音が遠くから流れてくる。
 いつもと変わらないにぎやかな街道町の夜に、ぽっかりと現れた静けさ。
 その静けさを保ったまま、泣きぼくろの騎士は続けた。
「本当のところを言えば、私も、どうしたらいいのか、わからないのです。アッシア様に、どうして欲しいのかも。どうやったら、この過去に決着がつけられるのか、わからないのです。ひょっとしたら、ケルヴィンなら、こんなことなどと笑い飛ばしてくれるのかもしれません」
 ケルヴィン。懐かしい名前に、アッシアの記憶が甦る。愛嬌のある垂れ目の、人懐っこい騎士――。世慣れていて、得意げにアッシアの手を引いてみせた男。まるで、もうひとりの兄弟のように。

「けれど、彼はもうこの世にいません」

 まるで綱を断つような、はっきりとした騎士の言葉には、断罪の響きがあった。
 アッシアは息の根でも止められたように、呼吸を忘れた。
 黒縁眼鏡の奥の薄茶の目は大きく見開かれ。
 記憶の中の面影だけが横切る。
 彼の死を、知らぬわけではなかったのに、ひどく懐かしくなる。
 切ないほどに。

 そして、次の言葉を選べぬまま、ふたりと一匹は宿に到着した。
「アッシア様の宿は、こちらになります。ジュリアス様も同じ宿です。それと、エマ=フロックハート女史が先着されています」
 事務的な事項を伝える騎士の言葉に、アッシアはただ頷いた。
 言うべきことが伝えられないまま、再会は終わる。
 時間は戻らないということだけが、はっきりと伝わる。
「それでは、お休みなさいませ。アッシア様」
「ああ。……おやすみ、ジーク」
 闇の中を去っていく騎士の背中を見送って、アッシアは、宿の扉を押した。