プロローグ
かつて、彼には兄が四人いた。
もう7年以上も前のことだ。
本当に血が繋がったふたりの兄は、仕事と習い事で忙しく、夕食どきぐらいしか顔をあわせる暇がなかったが、もうふたりの兄は、四六時中、彼の傍にいた。その兄たちは、彼の護衛騎士だった。
ひとりは、ケルヴィン=マクゴナルといった。
もうひとりは、ジーク=ギネットといった。
はっはっは、と訓練場に立つケルヴィンは、木刀を右手に持ちながら、器用に腹を抱えて笑った。栗色の髪を揺らすその若者は、笑いすぎで涙でも浮かんできたのか、人懐っこい垂れ目の端を指でこすった。
「それで、我がご主君は、喧嘩の罰として、また館の掃除をさせられたわけですか」
「だいたい、ダグラス兄さんが悪いのにさ。不当だよ」
ご主君、と呼びかけられた彼は、まだ少年だった。黒髪に薄茶の目。素直そうな印象だが、今はふてくされたように、頬をふくらませている。
「しかし、ダグラス様も同じように掃除の罰を受けたわけでしょう。喧嘩両成敗、公平ではありませんか」
丁寧な口調で、櫛目が入った黒髪の若者が言った。やはり同じように訓練場に立ち、その若者――ジークは、篭手紐を締め直している。
「おかげで家事女中たちに笑われるし、掃除の仕方が違うって怒られるしさ。さんざんだよ。知ってるかい? 階段の手摺を磨くのにも、専用のブラシがあるんだよ」
「ふむ」さほど興味もなさそうに、ジーク。「しかし、そうやってご自分の世界を広げるのは良いことです」
「ばぁか、ジーク。お前は本当に見た目通りの朴念仁だな」
腕を組みながら、振り返るようにして、ケルヴィンは後ろのジークを見た。
「どういうことだ」
少しばかりむっとした様子で、ジークが問い返す。
ちっちっちっ、とケルヴィンは指を揺らして、得意げだ。
「我がご主君は、気になっている家事女中に格好悪いところを見せてしまって、傷ついていらっしゃるんだよ。お年頃だ」
「気になっている、家事女中?」
「ほら、半年ぐらい前に新しい娘が入っただろう、あの巻き毛の……」
「ケルヴィン! ジーク!」
大声を出して、『ご主君』が会話を打ち切る。
「無駄話はそこまでだ。そろそろ始めるぞ」
「しかしご主君。顔が赤いようですが、大丈夫ですか? ひょっとしたら熱があるのかも?」
からかうように、ケルヴィン。
「大丈夫だよ。お前たちを打ち倒せば治るから」
そして、ご主君少年は、木刀を構える。
いつでも飛び出せるように、両のかかとを浮かせた。
それは、組み手を開始しようという意志表示に他ならなかった。
護衛騎士のふたりは、その意志表示を受け入れ、それぞれに構えを整える。
「今日こそは、負けませんよ。『白騎士』の再来が相手でも、たまには年上の威厳も見せておきたいですからね」
木刀をひゅんと一振りして垂れ気味の片目をつむり、ケルヴィン。
「剣で主に仕える臣が、ふたりがかりで主君に勝てないというのは、どうにも情けない話ですし」
腰を落とし、わずかな隙も逃さないというように、ジーク。
勇猛な前衛のケルヴィン、冷静な後衛のジーク。
頼りになる臣下たちだ――。
そう思いながら、ご主君少年は、訓練場の床を蹴った。
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