5.『蜂起 <PAST>





                      ■◇■


「ぶぁぁ。緊張したあぁぁ」
 部屋の扉を開けると、文吏のジャックはそう言って固い寝台に倒れこんだ。枕に顔を埋めたまま大きく息を吐き出すジャックの背中を見ながら、アッシアは続けて暗い部屋へと入る。マッチでランプに火を灯すと、暗い部屋が少しだけ明るくなった。外はもう日が落ち、闇が辺りを包んでいた。薄曇りのために、星明りも乏しい夜だった。
 アッシアは腰の剣帯を外すと、剣と共に寝台の脇に立てかけた。そして寝台に腰を下ろし、大きく息を吐く。ナイトテーブルに置かれていた時計を確認すると、十二時を回ろうとしているところだった。
「ああもう。疲れたね。まだこれが続くっていうんだから、たまらないよね」
 ベッドに倒れこんだまま顔だけをアッシアに向けて、ジャックが言った。疲れましたね、とアッシアは相槌を打った。
「で、今からだと何時間眠れんの?」
「四時間、ってところですね。それから起きて通常業務をして、それからまた三時間の見張りをして、通常業務に戻って六時間。その後三時間の見張りで、僕らの割り当ては終わりです。そこからは通常業務に戻れますよ」
 アッシアの答えを聞いて、ぶあぁ、とジャックは声をあげる。
「死んじゃう。死んじゃうね、そんな激務じゃ」
「本当に」言いかけて、ふぁ、とアッシアは欠伸をした。「たまりませんね。まあ、皆もやっていることだから仕方無いんですけれどね」

 北王戦争時、西パンドル基地。
 アッシアたちは預かった捕虜の見張り当番を終えて、自分たちの部屋に戻ってきていた。ようやく得たわずかな自由時間だったが、こう忙しくては飯を食べて寝るくらいしかできない。一晩や二晩の徹夜くらいはアッシアにとってなんともなかったが、その後もずっと休日無しに仕事が続くとあれば別である。休めるときに休んでおかなければ、とても身体が持つものではなかった。
 まして見張りは神経を使う。捕虜との間を隔てるものが無いとすれば尚更である。アッシアは武門の生まれとして武術一般をたしなみはしたが、見張りなどは経験していない。初めての体験に疲労感を身体に湛え、ジャックに倣ってアッシアも寝台に横になった。
「ジャックさん。剣帯ぐらい外したほうが……」
 そう声をかけたが、アッシアは最後まで言葉を続けなかった。いつの間にか顔を木壁へと向けていた同室の男は、静かな寝息を立て始めていた。
 ふっと腹底から息を抜いて起き上がり、手を伸ばしてアッシアはランプを消した。その途端に粗末な部屋は闇の支配下に落ちる。暗闇の中、手探りでもぞもぞと靴を脱ぎ眼鏡を外すと、アッシアはひんやりとした寝台に潜り込んだ。
 身体に溜まった疲労が融けて流れ出していくような心地良い錯覚に、彼は大きく息を吐いた。だんだんと自分の体温でぬくもっていく布団を感じながら、アッシアは闇に隠れてしまった天井を眺める。
 間もなく眠りに落ちる。
 そんな確信を頭の片隅に置きながら、アッシアはつらつらと昔を思う。小さい頃は、いや、そこまで遡らなくてもほんの数年前まで、自分がこんな風になるなんて、少しも予想していなかった。
 まったく予想外の人生を、自分は生きている。それは幸せなことなのだろうか?
 そもそも、自分は何をしたかったのだろうか。デグラン家の一員として、為すべきこともあった。だがその運命を、自分は否定して、逃げ出してきた。殺し殺される戦場が自分の居場所だなんて認められなかった。

 あの戦場が自分の居場所だとしたら、自分の人間性を否定することになる。
 だが、そう考えることは正しいのだろうか?
 戦場でも人間性を否定しない生き方があるのではないか?
 そうでなければ、人間外の者になることを自分は求められていたのだろうか。
 それとも、あの戦場で生きることこそがむしろ人間性なのだろうか?
 とにかく、自分は自分の運命から逃げ出してきた。
 それは――正しいことだったのだろうか。
 いや、そもそも、正しい正しくないという尺度で量れるものなのか?
 そして、これから自分は、どこに向かっているのか?
 どこに向かうべきなのだろうか?
 自分はどこに、向かいたいのだろう?
 ――わからない。

 すべての問いの答えは、闇に塗りつぶされていた。墨汁を空間に流し込んだかのような深い粘性の闇は、重くまとわりついて動かない。問いの答えが存在するのかしないのか、それすらもわからないまま、アッシアは沈み込むように眠りに落ちた。



                         ■◇■



 この時間帯になって、基地内を動く人間の数が目立って減った。
 睡眠時間に入ったのだ、とキルフェット軍曹は考えた。この補給基地には、捕虜収容施設が無い。となれば、この基地の人間は捕虜を見張る仕事などはあまり経験が無いのかもしれなかった。そう思ってみれば、交代した見張りたちの動きは鈍い。いつもは寝ている時間だからか、昼間に別の仕事でもしていたのかまではわからないが、皆眠そうに欠伸を繰り返している。
 ひょっとしたら、見張りたちは本職の兵士ですら無いのかもしれない。そう思って観察すると、不自然な部分は多く見つかった。無駄の多い動作がいかにも素人臭いし、帯剣しているだけで鎧兜を身につけていないこともおかしなことだった。
 頃合いだ。
 月が雲に隠れた空を見上げ、キルフェット軍曹は呟いた。薪代をけちっているのか、基地内に置かれたかがり火も、さほど多くは無かった。闇夜という条件は、いつでも少数派の有利に働く。蜂起には絶好の機だった。
 キルフェット軍曹の呟きをとらえた十九歳のカスツールが、ひとつ頷いた。そして、じゃらりと手錠の鎖を鳴らし、見張りたちに見えるように両手を挙げた。
 そして、がちゃがちゃと手錠ごと腕を振る。
「すいませーん! 小便行きたいんスけど!」
「ちょっとくらい我慢しろ」見張りの一人が、面倒臭そうに応じた。
「できないっす!もう限界、もれちゃう、もれちゃう!漏らしたら臭くなって、アンタたちも大変だよ!」
 見張りは嘆息すると、相方を呼んだ。そして、一方が剣の柄に手をやりながら、二人揃ってカスツールへと近づいた。
「おかしな真似はするなよ。ちょっとでも変な動きを見せたら……」
「わかってますって。立ち上がってもいいっしょ?」
 ああ、と見張りが返事すると同時、跳ねるように素早くカスツールは立ち上がった。そしていきなり歩き出したカスツールを、見張りの二人は慌てたように追いかけようとした。
 おい、待て。
 その機。
 見張りたちが無防備に背中を向けたその隙をとらえ、キルフェット軍曹とスーウェンハイム一等兵が立ち上がる。一等兵はそのまま手首の鉄手錠で標的を殴り倒し、軍曹は押し倒した。地面に倒した見張りの男を素早く仰向かせると、軍曹は器用に馬乗りになって、手錠の鎖を男の喉仏に押しつけた。げほ、と下敷きになった男が苦しげな咳をする。
「いいか、時間が無い、正直に答えろ。この基地には、どれくらいの人数がいる?」
「に、人足も含めて、二百人ほどだ」震える声で、下敷きになった男。「た、助けてくれ、俺は非戦闘員なんだ」
「非戦闘員?」疑わしげに、キルフェット軍曹。「まあいい。それじゃ、この基地に戦闘員はどれくらいいるんだ」
「せ、戦闘員は、いない」
「いないィ? おい、貴様、嘘をつくと……」
「ほ、本当なんだ、助けて……!」
 軍曹は手錠の鎖を押し当てたまま、背後に立つ一等兵――ヴォン=スーウェンハイムへと視線を向けた。無口な一等兵は、無言のまま頷く。その男の言っていることは本当でしょう。軍曹はそう解釈した。
「よし。じゃあ、貴様には良い事を教えてやる」
 言って、軍曹は、下敷きにしていた男のこめかみを鉄手錠で殴りつけた。その途端、男は動きを止めた。気絶したのかもしれないし、死んだのかもしれない。そのどちらでも、軍曹には関係なかった。
「敵には背中を見せるもんじゃない。見せるときは、相手の手が届かなくなってからだ」
「そういうことは、殴りつける前に教えてやった方がいいんじゃないスかね、軍曹」
 カスツールの指摘を完全に無視して、軍曹は立ち上がった。遠目に見れば、薄闇に影が揺らめいているようにしか見えなかっただろう。
「予定を変更する」静かに、キルフェット軍曹は宣言した。「この基地には現在、兵士がいないことを確認した。よって、この基地を一度占拠し路銀を調達して、それからアーンバルに帰還することとする。皆、ぬかるなよ」
 応、という鬨の声はあがらなかった。
 その代わり、捕虜達は闇に紛れ、音も無く速やかに、動き出したのだった。



                     ■◇■



 夜半、物音を聞いたような気がして、アッシアはふと目を覚ました。
 眠い目を擦りながら起き上がると、上掛けをはがし、枕元においていた黒縁眼鏡をかけた。眠気の詰まった頭を重たく感じながら、寝台から這い出したアッシアは、立ち上がると小窓から外を覗いた。
 薄闇が漂う小窓の外には、別段いつもと違った様子は見えなかった。ただの気の所為か、とぼんやりとした頭で納得すると、そのまま眠気に引き摺られるようにアッシアは寝台へと戻ろうと身を翻した。だが、そこで、アッシアは鼻に鉄臭の混じる臭いをかすかに感じた。その臭いには、覚えがあった。
 ――血の臭い?
 アッシアは再び小窓に齧り付くように近づくと、改めて、今度は注意深く、窓の外を見遣った。けれど薄闇にいくら目を凝らしてみても、別段目立っていつもと違うところは見当たらなかった。だが、そのときの風景はどこかがいつもと違った。言ってみれば、雰囲気とでも言うべきものだろうか。
 なんとなくの胸騒ぎを感じたアッシアは、突っかけていたブーツを履きなおしそっと部屋を出ると、木造の宿舎の外へと出た。
 だが外へ出てみても、別段いつもと違うところは見当たらない。やはりただの気の所為か、とアッシアが部屋に戻ろうとした、そのときだった。
 背後にした茂みで、かすかな金属音。その音を聞きとがめていなければ、アッシアは死んでいたかもしれない。
 振り返った次の瞬間、アッシアが見たのは剣を上段に振りかぶった男の姿だった。
 なんだ――
 胸中で叫びながら、アッシアはまだ眠りから覚醒しきっていなかった足をかろうじて動かし、横に跳ぶ。
 ひう、という音がして冷たい刃が薄闇を切り裂く。それとほぼ同時、じゃらり、と鎖の音がした。着地と同時、アッシアは踵をあげ腰を落としすぐに動ける体勢を作りながら、いきなり切りかかってきた男を観察しようとしたが、その間は無かった。
 続けて襲ってきた突きを、アッシアは身をよじらせてどうにかかわすと、地面を転がって距離を取った。だが、男は鎖の音を響かせながら地を転がるアッシアを追ってきた。
 アーンバル軍の捕虜。脱走の途中か?
 身を起こしながら、アッシアは素早く観察する。男の足の鎖は切断されていたが、手錠はかけられたままだった。だがしかし、剣を扱うのに手錠はさほど邪魔にはならない。捕虜の男は剣を上段から突き出した。それをアッシアは前転することでかわすと、一撃、捕虜の足を払った。倒れはしなかったが、男は体勢を崩した。
 その隙を狙って、アッシアは皆に注意を促すために叫ぼうとした――が、背後に気配を感じ、その隙を回避のために使わざるを得なかった。新手。アッシアはそれだけを認識して、とにかく安全な場所を求めて移動する。身を動かし続けるアッシアの耳殻に、ざん、と斧が地を叩く音と風圧が届いた。
 そのとき。敵襲ーッ、と遠くから声が響いた。
「敵襲ーッ。捕虜の蜂起だっ、皆起きろ、敵……」
 声は、そこで途絶えた。アッシアの右斜め、ちっ、と剣の男が舌打ちした。
「軍曹のミスか。敵に気付かせるなと指示したのは、自分なのにな」
「私語は慎め、クルトーム。それに、ミスとも言えない。……向こうは、制圧が完了したようだ」
 斧の男が、静かな口調で言った。
 それと同時、基地の北の方角が、急に明るくなった。暖色の光が薄闇を染め返し、空の色を変えていた。それが日の出ではないことは、時刻からも方角からも明らかだった。火を放たれたのだ、とアッシアは思った。黒煙が、炎の明かりに照らされて、揺らめいているのが見えた。
「じゃあ、もう大っぴらにやっても構わないってことだな、ヴォン」
 ひゅる、と音を立てさせて、クルトームと呼ばれた男が剣を構えなおす。
「こちらの仕事が遅れているということだ、クルトーム」
 無愛想にそう言うと、ヴォンと呼ばれた斧の男が腰を落とした。
 火の手があがっている基地の北部は、武器の貯蔵庫が並ぶ部分のはずだった。それを燃やしたということは、蜂起した捕虜たちにすでに武器が行き渡っているということになる。
 二人の男から目を逸らさないようにして、アッシアは周囲の気配を探る。どうやら、捕虜たちは宿舎を囲む陣形を取っているらしかった。戦闘の気配をかぎつけて、どんどんと人が集まってくる。あっという間に、アッシアは数人に囲まれていた。
(まずい……!)
 宿舎から出てくるときに剣を部屋に置いてきたため、今のアッシアはまったくの空手だった。いくらアッシアとは言え、武器なしでこの人数を捌き切る自信は無かった。
「こいつすばしっこいから気をつけろ。誰一人として逃がすなという命令だからな」
 クルトームと呼ばれていた剣の男が指示を出した。その指示に、アッシアを囲む輪がじわりと縮む。
 そのとき、赤い炎の集団が、アッシアたちの方へと向かって来た。味方か、とアッシアは期待したが、そうではなかった。松明を掲げ先頭を走っていた少年にも思える男は、手足に捕虜の名残を留めていた。状況は、アッシアにさらに不利になったわけだった。
「ヴォンさん。向こうは終わりましたよ。こっちは……何してんスか」
「問題は無い。カスツール、お前はこのまま宿舎に火を放て」
「了解」
 松明部隊の先頭の男に、斧の男が指示を出した。その指示を受け、松明の一団が、未だ眠りから抜け出せぬ粗末な木造の宿舎へと迫る。

 熱を放つ赤い尾が、薄闇に軌跡を描く。