5.『烙印 <PAST>





                      ■◇■


 反乱の一団が、松明を手にまだ眠る宿舎へと火を放とうとしている。
 赤色の群れが移動していく。あの炎が宿舎に至れば、たちまち燃え上がり、
 多くが死ぬ。

 やめろッ!
 思わず、アッシアは、叫んだ。

 それを、アッシアを囲んでいた男たちは隙ととった。
 アッシアの両脇から、二人の男が迫る。
 右手側の男は、刀を振り下ろした。
 左手側の男は、手槍を突き出した。
 アッシアは、ただ反射的に。
 片足を引いて上半身を反らせ、突き出された手槍の柄に左手を添えるように当てる。
 鈍い音がして、刃が胸板に突き刺さり、鮮血が飛び散った。
 ――え?
 その呟きは、アッシアのものではなかった。
 アッシアを左側から襲った男の手槍が、刀を持っていた男の胸板を貫いていた。アッシアが突き出された手槍の方向を変え、刀の男に当たるように仕向けたのだった。
「そんな。俺、そんなつもりじゃ……っぶ!」
 誤って味方を攻撃してしまい動揺した手槍の男の顎を、アッシアは上半身を反らした姿勢から左掌で撃ち抜いた。体が浮くほど大きく突き上げられ、手槍の男は卒倒した。
「こいつ、ちょっとやるみたいだぞ、気をつけろ!」
 反乱の捕虜の誰かが叫ぶ。そして、数人がさっとアッシアを取り囲む。そしてその間に、松明の一団は放火のために歩を進めている。

(やめろ……やめろやめろやめろっ!)
 焦れて念じながら、アッシアは魔術文様を空中に描画する。
 アッシアが描いた金色に光る文様に、捕虜たちは動揺を隠さなかった。誰かが叫ぶ。
「そんな――こいつ、魔術師だ!」
「どうして、魔術師がこんな後方基地にいるんだ!」
 捕虜たちの混乱した声を背景にして、アッシアは構わずに魔術を放つ。
「爆ぜ打て、風よ!」
 アッシアの掌から飛び出た大人の頭ほどある光球は、松明を持つ捕虜達の頭上へと移動すると、ぱぁんと音を立てて爆ぜた。同時、暴風が地面を叩きつけるように吹き荒れて、風に巻き込まれた捕虜たちは地面に転がった。
「落ち着け!」うろたえる捕虜たちに向けて、ヴォンが大喝する。「どんなに優れた魔術師でも、魔術の連発はできない――この人数で囲めば、必ず勝てる!」
 その大喝は、アッシアを取り囲む捕虜たちに勇気を取り戻させたが、落ち着きまでは与えなかった。大ぶりに振りかぶってくる捕虜の突撃を、アッシアは難なく外す。そして、足元に落ちていた刀を拾い上げる――と同時、背後に気配を感じたアッシアは、その刀を突き出した。続けて、肉を貫く嫌な感触。思わず顔を顰め、呼吸を止めた。刀は、相手の胸の中央を貫いていた。相手の顔には見覚えがあった――確か、クルトームとか呼ばれていた男だ。
 クルトームの表情には悶絶はなかった。刃はどうやら心臓を貫いて、相手は即死のようだった。ゆっくりと仰向けに倒れた男から刀を引き抜く気になれず、アッシアは刀を手離した。そして仲間の死に捕虜たちが怯んだその一瞬、殆ど反射のような素早さで、文様を描き魔力を注ぎ、魔術を放つ。
 かつて訓練された手順通り。何も考えずに、アッシアはそれができる。
「白竜よ!」
 アッシアの後方から隙をうかがっていた一団に向かって、光熱波が放たれた。何人かを巻き込んだあと、魔術は白い光を放って爆発を起こした。
 そこからは、アッシアも捕虜たちも必死だった。アッシアは次々と襲い掛かってくる捕虜たちの攻撃をかわし、武器を奪ってはそれを急所に突き立てる。ときどき魔術を放つ。体は反射のままに行動し、頭は思考を差し挟む暇もない。そして捕虜たちは、アッシアに魔術を使わせないように、間断なく襲ってくる。
 そのうちに、恐らく基地の他の場所を担当していたのだろう、新しい捕虜の一団が到着して、また新たな戦闘が繰り広げられた。多数を相手にし続けていたアッシアは疲労の極みに達し、手加減をする余裕は無くなっていた。連発される魔術に、辺りの木々は燃え尽き、焦土と化して行った。
「うあぁぁあぁぁっ!」
 若い男が、松明を大きく振りかぶって、アッシアへと振り下ろした。足が充分に動かなくなっていたアッシアは、仕方なく、激しく燃え盛る松明を右篭手に受けた。
「ぐっ!」
 激しい痛みを堪え、自分の肉が焦げる臭いを感じながら、アッシアは若い男の手首を捻って、地面に倒す。仰向けに転がった男は、随分と若く、まだ少年のようだと感想を持った。だが、その感想はアッシアの行動に何の変更ももたらさなかった。アッシアは地面に落ちていた短剣を、右手を伸ばして無造作に拾うと、そのまま男の喉笛に突きたてた。
「カスツール!」
 捕虜の誰かが叫んだ声を、アッシアは背中で聞いた。乱れて止まらない息が、肺と喉を焼くようだった。ひりひりとして、呼吸するたびに痛い。出血しているかもしれない、とアッシアは意識のどこかで思った。
「畜生、お前さえ、いなければ……俺は帰るんだ、畜生!」
 何人かが、一度にアッシアに襲い掛かってきた。その中の二人に、アッシアは見覚えがあった。冷静に指示を出していたヴォンと、軍曹と呼ばれているリーダー格の男だった。
 この二人を倒せば終わりだ。
 静かに思うと、アッシアはゆらりと自然体に構えた体を揺らした。いつものように相手の攻撃を外し、擦れ違いざまに相手の足を蹴り払う。何人かを転倒させたとき、アッシアは続けて襲ってきたヴォンと対面した。
 ヴォンは何も言わず、ただ斧を振るってきた。アッシアももう何も言わず、身を沈めてかわす。斧は破壊力に長けた武器だが、重いためにどうしても大ぶりになる。その隙目掛けて、アッシアは逆手に握っていた短剣−−さきほどの青年の喉笛を割いたものと同じものだ――を、ヴォンの右胸に突き刺した。痛みに、呻き声をあげてヴォンは得物を取り落とす。
「ヴォンっ!」突撃隊の最後尾にいた軍曹が、声をあげた。
 ヴォンは武器を失ったが、なんとか倒れず踏みとどまった。その血に染まった胸元を、アッシアは右手で掴むと、アッシアへと向かっていた軍曹の方へと投げるように押し出した。軍曹は、よろめく足で今にも倒れそうなヴォンを、抱きしめるように受け止める。
 その一瞬の間。アッシアは魔術文様を完成させていた。
「うねり狂え、火の龍よ!」
 まるで貴婦人のドレスのように膨らんだ火炎の帯が、軍曹と一等兵を取り巻き、呑み込んだ。薄闇に立ち昇った炎は、舞台の終演を告げる幕のようでもあった。無情なほどに炎は熱く、人が羽虫であるかのように命を奪う。
 だが、その炎から、黒い影が、這い出てきた。髪の毛も眉毛も髭も焼け落ちて、焼けた瞼もただれて捲くれ上がり、代わって表に顕れた、眼窩に嵌りこんだ眼球が、強い執念を宿していた。
「か……える……はずだった」炎に灼かれ、しわがれた声。「なのに……おまえ、の……せいで……」
 まさか、あの魔術を受けて生き残れるはずがない。アッシアは、急に背骨に押し込まれた恐怖に身を竦ませ、立ち尽くした。その間にも、黒い人型のものは、ゆっくりとアッシアに向けて歩を進めてくる。
「おま……え…………さえ……」
 いなければ。
 黒い人型のものが、うめきながら手を伸ばした。その手は、すでにあったアッシアの右腕の火傷に重なった。火傷がさらに焼かれる鋭い痛みにアッシアは我を取り戻し、掴まれた腕を、反射的に振り払った。
 その拍子、黒いものは倒れた。そして、焦げた地面に身を横たえるとそれきり、動かなくなった。
 そして、火柱を上げていた魔術の炎も効果が尽きて、消えた。辺りが、また薄闇に戻った。アッシアのあがりきっていた息も、なだらかに静まっていった。

 終わった――。
 ふぅ、と大きく息を吐き出したアッシアをいきなり包んだのは、歓声だった。
 驚いたアッシアが周りを見回すと、仲間の文吏たちが拳を突き上げ、勝ち鬨をあげていた。どうやらアッシアが気が付かなかっただけで、他のところでも戦闘が行なわれていたらしかった。ふと後ろを見ると、先ほどアッシアが蹴り倒した二人の捕虜を捕えなおした男たちが、親指を上に立てた拳を向けていた。
 その男たちに曖昧な笑顔を作って見せて手を軽くあげると、緊張の糸が切れたアッシアは、その場にべったりと腰を下ろした。
 ああ、と疲労にたまらず声をあげると、アッシアは空を見上げた。東の空の黒に青みが加わって、じきに夜明けが来ることを教えてくれていた。

「すごいよ、アッシア君。ありがとう、おかげで、俺たち助かったよぉ」
 そう言ってアッシアに飛びついてきたのは、ジャックだった。地べたに座り込むアッシアの肩を掴んでがくがくと揺らしながら、言葉を続ける。
「俺なんかもう怖くて怖くて、どうしようかと思ったね、ホント。でも助かって良かった。うん、良かった。君と同室だって、今度から自慢できるよ、うん。ホントにさ」
「いや君、本当によくやってくれた。君の活躍がなかったら、私もこうして無事でいられることはなかっただろう。本当に感謝している」
 まだがくがくとジャックに体を揺らされているアッシアに向けて、口髭を捻りながら、将校の一人が言った。話を受けるために立ち上がろうとしたアッシアを、いやそのままで、と将校は止めた。そして、話を続ける。
「君が魔術を使えるなんてことは聞いたことが無かったが……いや、そんなこと、今は関係無いな。今回の事件はきちんと上に報告しておこう。そのうち、君には今回の功績を称えて勲章が贈られるだろう」
「勲章……?」と訝しげに呟いたアッシアに、ジャックが口を挟む。
「何言ってんのさアッシア君。君一人でさ、蜂起を起こした捕虜たちのほとんどをやっつけちゃったんだよ。そのくらい当然だよ。なんなら、二階級の昇進くらい願い出ても全然構わないと思うよ……っ痛ッ」
 お前が調子に乗るな、とジャックが口髭の将校に怒られているすぐ横で、アッシアはジャックの言葉を反芻していた。

 ――ほとんどをやっつけた?僕が一人で?
 そしてアッシアは、自分の周囲を見渡した。
 焼け焦げた地面には、累々と死屍が転がっていた。
 魔術で四肢がばらばらに吹き飛んだ死体。
 剣で貫かれ、吹き出た血に染まっている死体。
 原型を留めぬほどに燃え尽くされた死体。
 そして、木炭と見まごうほどに黒く炭化した軍曹の死体。
 彼の持ち物なのだろう、黒く焦げた銀のロケットは、半分熔解していた。
 自分が作り出した死体が転がるその光景は、朝日が昇り空が白むほどに、
 アッシアの網膜に、強く、はっきりと焼きついた。
 ――これが。これが、運命なのか?
 かつて戦場でした自問を、アッシアは再び繰り返していた。



              ■◇■



 よう、英雄さん。
 天幕の入り口に扉としてかけられている布を捲くって顔を入れると、アッシアはそう声をかけられた。英雄なんかじゃないよ、と返しながら、アッシアは天幕の中へと進む。
「勲章の代わりに、三日間の特別休暇を願い出たんだって? 馬鹿だな、そんなの黙っていたって貰えたのにさ。みすみすあのヒゲ野郎に功績を掠め取られたようなもんさ」
「いいんだよ、別にそれくらい。それに、あの事件を上に報告されれば、前線に行かされるのは間違いないからね」
 冗談めかした声で、アッシアは答えた。帳簿保管室の担当者は、まあお前さんがそれでいいなら別に構わないけどな、と言った。
 昨日アッシアは、捕虜鎮圧事件についての上層部への報告をしないよう、上司の将校に頼み込んだ。事件が上層部へと知れて有名になることで、デグラン家に自分の存在が露見してしまうことも恐れたのだ。
 最初は驚いていた上司の将校だったが、アッシアの提案を受け入れてアッシアの功績を自分の物にしてしまえばむしろ自分の得になるので、結局、快諾した。
 アッシアは、交換条件として自ら提案した三日間の特別休暇を利用して、疲れ切った体を休めていた。彼は特に命に関わるような怪我はしていなかったが、右腕の火傷は深く、かなりはっきりとした跡になって残るだろう、というのが医者の看立てだった。アッシアは、そのときはまだ、特にその火傷の痕については気にしていなかった。五体満足であるだけ儲けものだ、ぐらいに考えていた。
「ところで」アッシアは、天幕の隅にある棚のひとつを指差した。「あそこにある帳簿、見てもいいかな?」
「どうぞ、ご自由に」帳簿のチェックをしながら、担当者は背中で答える。「ここにゃ、身内に見られて困るもんは保管してねぇよ」
「ありがとう」
 アッシアは律儀に礼を言い、棚から目的の帳簿を抜き出した。黒い厚紙の表紙の中央、「捕虜預かり控」と書かれている。
 アッシアは、堅くなった喉で唾を飲み込むと、その帳面を捲った。
 そこには、百十八人の姓名が書かれていた。その他には、年齢と所属と階級、それに所属番号、あとは未婚か既婚かが記されていた。簡単に過ぎる情報だったが、これは確かなる証拠だった。この名簿に載っている人間が、かつて確かに存在したという。
 だが、殆どの名前は、几帳面にも定規で引かれた赤インクの横線で消されていた。これは、消された人間がもうこの世に存在していないことを表していた。アッシアは、その赤い取消し線で消された名前を数えようとして、やめた。代わりに、消されていない名前を数えた。生きている人間の名前。つまり、このパンドル西基地へと送られた捕虜の名前。その名前は、二十一個。ならば、赤線で消された名前の数はすぐわかる。百十八から、二十一を引いた数。
 九七個。そしてそれは、アッシアが殺した人間の数と、ほぼ等しいはずだった。
 アッシアは、黙ってぺらぺらと帳面を捲る。その中に、いくつか聞き覚えがある名前も発見した。
 ヴォン=スーウェンハイム、二十一歳。アーンバル王国第二師団第三大隊所属。階級、一等兵。所属番号、Fの千百二番。未婚。ゴクセルム=キルフェット、二十八歳。ア国第二師団第二大隊所属。階級、三等軍曹。所属番号、Bの五百四十一。既婚。カスツール=ニッチェ、十九歳。ア国第二師団第二大隊所属。階級、三等兵。所属番号、Kの八百二十。未婚。クルトーム=ヘンツェル、二十四歳。ア国第二師団第四大隊所属。階級、二等兵。所属番号、Cの四十九。未婚……。

 ずるり。
 捲っていた帳面が、突然ぬめったような気がした。
 驚いてアッシアが見ると、帳簿を捲る親指に、血がべっとりとついていた。
 気付かないうちに紙で切ったのか、と思ったが、それは違った。
 いつの間にか、手に持つ名簿が、たっぷりと血を吸って、滴っていた。
 ひ、と短く息を吸ってアッシアは身じろぎしたが、それが上手くいかない。
 気付けば、アッシアは腰までどっぷりと池に浸かっていた。
 その池に満ちているものは、血。
 鉄っぽく生微温い臭いが、鼻をついた。
 胃の腑が突き上げられでもしたかのように、アッシアは吐き気を感じた。
 そして、激しい頭痛が彼を襲う。
 たまらず、アッシアは地に手と膝を突き、嘔吐した。

「おい、いきなりどうしたよ、大丈夫か、おい!」
 胃の中のものを吐きながら、アッシアは背中で誰かの声を聞いた。
 そして、火傷した右腕に、ちりちりとした痛みを感じる。
 ――そうか、これは、烙印なのか。
 激しい頭痛と吐き気の中でやけに納得しながら、アッシアは、真っ赤な血の池の中で、苦しげに吐き続けたのだった。