5. 震える空気






 パットの一通りの説明を聞いたあと、ダグラス=デグランはふむと頷いただけだった。
 彼――ダグラスの大度な態度は、いっけんすると馬鹿のように見える。表面だけを見て、彼のことをそう評価するひとも確かにいる。パット少年はと言えば、説明した相手の反応の薄さに手ごたえのなさを感じながらも、素直にジャクリーヌの仕事場への道案内をしていた。
 先頭にパットが立ち、次いでダグラス、そしてリーンとヴァルが続いている。
 ダグラスが乗ってきた黒馬は、たまたま付近にいた衛兵に預けてしまっていたため、全員が徒歩だ。
 白外套の謎の女、ジャクリーヌ。
 その出会いからパットが仕事を手伝うことになった経緯は、まったくの偶然だった。
 だがしかし、これが盗賊(当時はノワールという名前を使っていたらしい。すべて偽名なのだろうが)だとすると、捨て置くわけにもいかないのだろう。

 なんだか妙なことになったなあ。
 そんなことを考えて、パットは土埃の舞う大通りを進んでいる。
 大通りには日陰が少ない。道端には街路樹が一応植わってはいるのだけれど、木が小さいのと植えてある間隔が広いので、強い日差しが照りつける部分をかなりの距離歩かなければならない。しかしそれでも人通りは割と多い。
 ダグラスは何も話さない。もともとが無口な性格であるようだし、状況も状況だからだろう。少なくとも、和やかに親睦を深めましょう、というシーンではない。パット少年もそれはわかっているが、重苦しい空気に耐えられない。赤毛のすぐ下にある耳にしばらく触ったあと、
「暑いですね」
 言ってみた。
「そうだな」
 眉ひとつ動かさずに、ダグラスは言う。会話は続かない。そこで終わる。
 池があって、そこには魚が住んでいて、その魚がちょっと動いて水面に波紋ができた。できたけれども、それで終わり。そこから何も変化しない。池は静かなまま。そんなことをパットは想像してしまった。
 いや、池なら涼しげでいいではないか。埃が舞う大通りは暑く、快適ではない。案内している相手が妙齢の女性ならともかく、大柄な男だ。これでは余計暑苦しくなるというものではないか。せめて後ろの方を歩いているリーンが何かしゃべればいいのに、何もしゃべろうとはしない。あの従妹なりに、空気を読んでいないのか、それとも読み切っているのか。
 そんな不満をつらつらと胸中で語っているうちに、一行は大通りから細い路地へと入る。路地は日陰になっている。日陰に入った途端に感じるあのひんやりとした空気をパットは心地よく感じながら、パットは先へ進む。そして何回か角を曲がったあとに、少年は足を止めた。
「ここです」
 住宅街の奥にある、廃屋としか見えない家。改めて見ると、ここで人が何かをしているとなると、明らかにかなり怪しい。
「うむ」
 とも何も言わず、案内されたダグラス当人は、パットではなく、たまたま近くにいた子供に話しかけていた。その辺で遊んでいた少年だ。会話はすぐに終わり、ダグラスは体を起こしてパットたちに向い会った。
「ご苦労だったな。だがもう少し働いてもらうぞ。中を案内してくれ」
 ダグラスの声には、威圧はないが、なんとなく逆らえないような雰囲気があった。パット少年も逆らう理由を見いだせず、頷いた。



「これが、さっきお話した魔信機です」
 パットは部屋にある機械を指し示す。4人は2階にあがり、廃屋の内部を探索していた。思った通り廃屋の中には誰もおらず、内部は静かだった。4人が動く物音だけが、木造の廃屋に響いている。
 少年はこっそりと胸をなでおろす。
 ジャクリーヌがまだこの廃屋にいて、いきなり捕り物がはじまったらどうしようかとパット少年は内心心配だったのだ。そうした結果にならなくてよかった、と彼は思っていた。たとえそれがどんな悪人であろうと、目の前で知っている人間が捕まるというのは、あまり見たくないものだ。

 ダグラス=デグランは、パットが調整したという魔信機をしばらく眺めたあと、体を起こして部屋を見回す。簡素な棚にはろくに物が置かれていない。
「他に使っている部屋はあるのか?」
 ダグラスが聞いた。もちろんパット少年に質問している。
「わかりません。他の部屋には、入っていませんから」
「……。そのようだな」
 隣の部屋の扉を開けて、ダグラスは言った。埃の積もり方でも観察したのだろう。
「ああ、あまりその辺には触らんほうがいいな。何もないだろうが、あとで一応調べる」
 これは、ついてきたヴァルとリーンへの言葉だ。ポニーテイルの少女は、伸ばしかけていた手をひっこめる。そのあたりの棚の引き出しでも開けようとしていたようだ。
「あの、私たち、ここに入って来ない方が良かったですか?」
 そう聞いたのは褐色の肌の少女――ヴァルの方だった。彼女の質問を聞いて、ダグラスは片眉を跳ね上げる。おう、そういえばそうだな。
「盗賊が何か罠でも仕掛けていたら、危ないところだった。忘れていた」
 すまんな。片手で拝むようにして、ダグラスは謝る。本人はいたって真面目なのだろうが、その姿はどこかユーモラスだった。褐色の肌の少女も怒る気もせず、はあ、とあいまいな言葉を返した。
 そのとき、階下でどたどたと物音がした。
「なっ、なに?」
 褐色の肌の少女が驚いて中途半端な声をあげ、身構える。しかしその後ろで、ダグラスは悠然としている。常人と反応の間合いがやはり違う。今まで出会ったことのない種類の人間だなとパット少年は思った。大物というか、なんというか。偉くなりそうなひとというのは、こういう人のことをいうのだろうか。
 音を立てて階段を踏み、あがってきたのは薄鎧の衛兵二人だった。屋内だからだろう、手に槍はない。間口に立ち敬礼する。
「ダグラス様、お呼びによりただいま参上いたしました」
「おう。苦労だったな」
 ダグラスは頷く。そして、世間話でもするように自然に指示を出す。
「それで早速だが、この建物を調べてくれ。盗賊が使っていたそうだ。なにか密偵活動をしていたんだろう。そのあたりに注意してやってくれ。ま、そこの魔信機を調べれば、何かわかるさ」
 続けて、ダグラスは後方を親指でさす。その方向には、パットがいる。
「それからコイツを確保。密偵活動の片棒を担がされたらしい。まだガキだし、まあ、あれだ。俺の知り合いのツレだから、一応は丁重にな」
 はっ、と衛兵ふたりは低頭すると、すたすたとパットに向かって歩いた。部屋の中なので、あっという間だ。ヴァルとリーン、そしてダグラスの脇をすり抜け、あっという間にパットの目の前に立った。
「え? え?」
 衛兵ふたりに前に立たれて、パットは眼を白黒させる。
 状況がつかめてない。なにがどうなっている?
 突然の展開に、少年は頭が混乱してしまっている。
 今までの経緯を思い起こす暇もない。
 その彼に向って、ダグラスが話しかける。
「俺はデグラン家の者として、領内で罪を犯したやつを捕まえる権限を持っている。領地の治安を守るためにな。その権限を行使するだけだ」
 衛兵のひとりがパットの肩を抑え込んだ。そして、もうひとりがパットの背後に回ると、少年の後ろ手に縄をかける。ダグラスは姿勢ひとつ、表情ひとつ変えずに、淡々と語る。
「いわゆる、逮捕というやつだ」

 え――?

 ダグラスの宣言に、ヴァルとリーンは驚きに息を飲んでいる。
 そして逮捕されたパット本人は、今年最悪の冗談でも聞いたという表情で、石のように固まっていた。



                   ■□■



 馬上の将は、懐中時計を取り出して、その文字盤を見た。
 残りの時間は3分を大きく切っている。
 ただそれだけを確認し、言葉を呟くでも溜息を吐くでもなく、まして祈りもせず。彼はたんたんと前方を見つめる。彼の揺るぎのない意志は、ほんのささいな行動からも読み取れる。揺るぎなさは、人間を率いるものにとって必須の能力だ。その能力が、指揮官の価値のほとんどだとも言える。
 意識してそれをやるのではない。ただもう体がそうすべきだと知っている。人を率いるという立場にあり続けた故に、自然と体得したあり方だ。
 夏日の下、風はない。したがって彼の銀髪は、風になぶられるということもない。たださきほどから続いている魔術の衝撃に、ときおり揺れる。この世のすべてが統御されていて、筋書き通りの展開がずっと続いているかのような、そんな錯覚を起こさせるような武者姿だ。
「……大丈夫です。10分を過ぎても、もう少し長く、保たせることができます」
 そう言ったのは、銀髪の将ではなかった。彼の隣にいる、樺色の髪の魔術師。紅の魔女。紅の枝の防御魔術を発動し続けている、エマ=フロックハートその人だった。
 銀髪の将――ジュリアス=デグランは、ちらりと目端で紅の魔女を見た。女性ともみまごう整った彼の顔立ち。その美しい表情が動くことはない。
「それは、無用のことです」
 そう彼が返事をしたとき、どぉんと大きな爆発音がした。紅の枝の防御壁の外で、攻撃魔術がはじけている。紅い枝がうごめき、損壊した部分の穴を埋める。
 ジュリアスは続ける。
「魔力を使い果たした魔術師は、激しく疲労し、衰弱する。立っていられないほどに。私にも経験がありますから、その辛さがわかります。指一本動かすことすらつらくなる。そして、魔力を使い果たした魔術師は、軍隊では役に立たない。むしろ足を引っ張る存在となる。ひとりで移動もままならないわけですから」
 エマは黙って銀髪の将の言葉を聞いている。
「実戦では急速に体力と精神力を消費する。気が張っているときには気がつきませんが、一度張りつめていた緊張が解けると、その疲労は津波のように襲ってくる。……10分間発動し続けるだけでも、貴女は限界なはずです。この魔術を」
 この魔術、という言葉が何を指しているのかは明らかだった。さきほどからデグラン家騎士隊100名をかばうように覆っている紅い枝の防御魔術。
「魔力をひとかけらも残さない、というのであれば、10分を超えて、この防御魔術を続けられるのでしょう。なんの目算もなしにできると言うようなひとではない、貴方は。しかし、魔力をすべて失ってはいけない。魔力を失った魔術師は、ただの足手まといなのです」
「……」
 エマは無言で、紅い枝へ魔力を伝える。欠けた枝がまた修復される。
「10分が限界です。予定は変えない」
 銀髪の将は静かに言った。そこには気負いも迷いもない。ただまっすぐに前を見ている。前方には、敵の隠し砦。そこからの攻撃魔術はちっともやむ様子がない。敵は勤勉なのだ。
「10分を過ぎたら、どうするのです?」
 紅の魔女の質問。それに対する銀髪の将の回答は、明確だった。
「まず魔術の被害範囲を減らすために一度散開し、そして撤退します」
「てったい」
 あまりにあっさりと言われたその言葉を、紅の魔女は繰り返した。
「しかしここまできて……、こんなにあっさりと撤退してしまって良いのですか?」
「この作戦の要は奇襲でした。そして迅速な本拠地の攻略」淡々とジュリアスは言葉を繋げる。「しかし今、敵に地の利がある。魔術師に籠城されてしまったようなものです。これを破るには準備が必要です。たとえ今、力押しでこの砦を抜けたとしても、時間がかかってしまったら意味がない。本拠地への奇襲になりませんから」
 理はジュリアスにある。紅の魔女は心中で素直に認める。
「いたずらに長陣して、被害を増やすのは好ましくない。必要な手札はすでに切っていますし、効果がなければ引くだけです」
「手札……少数精鋭の突撃隊のことですか」
 紅の魔女は確認する。たいした意味はない。
 それはいわずもがなのことだと思っていたが、しかし。
 エマ=フロックハートの言葉に、ジュリアスは意味ありげな笑みを浮かべた。
「半分は正解です。そして皆、そのように思うでしょうね」

 え?
 銀髪の将のその返答は、エマにとって意外なものだった。
 彼女が、将の返答の意味を考えようとしたそのとき、また彼は意外なことを言った。
「レイレン=デイン。あの暗殺屋を、私の采配で使ってみたいものでしたがね。結局、その機会には恵まれなかった。しかし、私はギルバートと巡り合えている」
「え?」
 エマは不覚にもまた聞き返してしまった。
 どうしてこの場面で、暗殺屋レイレン=デインの話がでてくるのだろう。少数精鋭、という言葉からイメージしただけなのか。そしてギルバート……アッシア=ウィーズ教師の偽名。このふたりを並べて比べられるところがあるということなのか。
 不思議な言葉の意味を考えるあいだに、エマに陰気な暗殺屋に初めて会った雪の日の記憶がふと思い出された。
 白い白銀の世界に現れた、黒い男。その対比が、記憶のなかでまばゆいほどに輝いている。その輝きは、時間を経るごとに色あせるどころか、最近は一層鮮やかにさえなってきているような気さえする。いったいどういうことなのか。
 そこまで考えが逸れたところで、エマはジュリアスへ返事をしていないことに気がついたが、白銀の将ももとより返答を期待していたわけではないようだ。ただ不敵な表情で、正面を見続けている。
 そこで、エマはようやく、連れてきた黒猫が、いつの間にかいなくなっていることに気がついた。いや、最初からいなかったのだが、それを気にしている余裕がこれまでなかったのだ。彼女は慌てて辺りに視線をやる。しかし、少なくとも見える範囲にはいないようだ。
「エマ女史?」
 どうしたました、と白銀の将が聞いた。辺りを見回したエマの動きが気になったのだろう。
「猫が……、いえ、なんでもありません」
 そう返事をし、エマは手に掲げるワンドに、そして魔術に意識を集中させる。
 今は、他人のことを気にしている余裕はない。敵の攻撃はやむ気配がない。衝撃と爆音はずっと続いているのだ。
 戦場のレイレンには、何の心配もいらない。それは彼女にとっての確信だった。
 信仰に近いと言っていいかもしれない。
 とにかく、今は自分のできることに集中すること。馬上、エマはそれだけを念じる。
 衝撃に震える空気に、彼女の珠の汗が、ぽとり岩の地面に落ちた。



                ■□■



 岩影からそっと顔を出して、アッシアはいつもの黒縁眼鏡越しに上を見上げた。
 それと同時、遠距離魔術が打ち出されるどぉんという音。空気を震わせて、熱波がはるか頭上を飛んで行く。だが黒縁眼鏡の魔術師は、熱波の着地点には眼を向けず、発射点へと視線を注ぐ。そこには、岩を四角くくり抜いた穴がある。
 敵が立て籠る隠し砦のすぐ真下まで、アッシアたちは到達していた。だが、彼と、同行した小隊4名のほかには、ここまでたどりつけたものはいない。デグラン家の騎馬部隊は、敵の間断ない火力に、後方へと押し戻されてしまっている。
(さて、どうするか……)
 唇を噛みながら、黒縁眼鏡の魔術師は、懐中時計を取り出した。制限時間まで、もう2分を切った。なんらかの行動を起こさなければならない。焦る気持ちだけが、アッシアの胃を締め付けるが、良い考えは浮かばない。
(ここから攻撃魔術を撃ち込むか……?)
 かすめた考えに、アッシアは再び顔をあげる。敵が攻撃するために壁に開いている狭間――魔術眼とでも呼ぶべきだろうか――は高さ20ヘートほどのところにあり、こちらから充分魔術が届く距離だ。同行している小隊員の騎士たちの魔術とて届く。
(しかし、こっちが魔術を一発撃ちこんだとたんに、猛反撃を受けるんだろうな)
 今は遠方へと飛んで行っているあの魔術が、一斉に自分たちに向けて降り注ぐのだ。熱波に炎、突風に雷……。想像するだにぞっとしない。
 やはり隠し砦の入口を探すしかないのだろうか。アッシアは迷う。しかし探すだけの時間があるのならば、最初から悩んだり迷ったりはしない。今は、こうやって迷っている時間すら惜しいのだ――。早く決断しなければならない、そう思えば思うほど、気持ちばかりが焦って時間だけが過ぎていく。口惜しさに、黒縁眼鏡の魔術師は歯がみする。
 そのとき、ひゅっと足元を横切った黒い影があった。よく見なれたつややかな毛皮。それが、アッシアの目の前でぴたりと止まった。黒縁眼鏡の魔術師は、驚きに目を丸くする。
「クロさん」
 黒縁眼鏡は、小さな驚きとともに黒猫に呼びかけた。
 黒猫の様子は落ち着いたものだった。万事わかっているというように、ぱたりと長い尾をふった。赤い首輪には複雑な模様の指輪がつけられている。
 いい考えがある――。
 黒猫の大きな金色の目が、まるでそう訴えるかのように、まっすぐに黒縁眼鏡の魔術師を見つめている。