5. 始まりを告げる花火





 呪われなさい、悪魔め!

 品の良い格好をした婦人が悪罵を投げかける。
 悪罵を投げかけられたエリー姉さんは、後ろ手のまま、ただの薄笑いで応えた。
 底暗い恐怖を感じたかのように、婦人は、傍らの少年をせかしてそそくさとその場を去る。
 せかされる少年の顔、いや上半身全体に包帯が痛々しく巻きつけられていた。
 その包帯をめくれば、皮膚が焼け落ちた、生々しい火傷の痕がまだ残っているはずだった。

 きっかけは、ささいなことだった。

 課外授業で、学校の外に出る機会があった。野草を調べるという名目で、いくつかの学年がひとまとまりになって、近くの野山にいくだけのものだった。今にして思えば、教師たちの息抜きのためにだったのかもしれない。野山について自由行動になると、ひとりの男の子が、私の髪の色をからかってきた。彼にも、特に悪気があった訳でもないのだろう。なにせまだ子供の話だ。私も、からかわれて他愛も無く泣いてしまった。
 今から振り返れば、あのとき、彼は私に好意すら持っていたのかもしれない。
 どこにでもあるような話。

 だが違うのは、そのあとだった。
 私が泣いているのを聞きつけた姉さんが、私を助けに来てくれた。そこまでは良かった。
 けれど姉さんは、一言もなく、私をからかった男の子を一瞬で火だるまにしてしまったのだ。
 炎が立ち上る。
 男の子は、悲鳴もなく地面に転がった。
 ほんの一瞬のことで、止める間もなかった。
 その場にいた引率の大人たちが、すぐに男の子の火を消し止めた。
 けれど、姉さんの炎によって、男の子はひどい火傷を負っているのは明らかだった。
 一部の皮膚が焼け落ちていた。気管支も焼けたのだろう、呼吸もうまくできないようだった。

 あまりのことで呆然としていた私に、姉さんは私のほうをじっとみて、とても、とても優しい笑みで、言った。
「大丈夫よエマ。貴方は私が守ってあげる。大事なエマ」
 私は、何も言えなかった。

 男の子には一生消えない傷が残ってしまった。
 騒ぎを大きくしたくない学校の意向も働き、この一件は生徒同士の喧嘩として処理された。姉さんのやったことは魔力の暴走による発炎現象とされた。つまり、やりすぎではあったが、意図的なものではないとされたのだ。
 だが、男の子は、母親に連れられて学校を去った。


 ごめんなさい!

 去っていく母子の背中にかけた私の謝罪の言葉は、届かなかった。少年は振り返ることもなく、その学校を去った。
 私は、その背中をただただ、見送った。
「エマ」まだそのときは少女の年齢だったエリー姉さんが、エレ=ノアが、背後から私の肩を抱く。「私が貴方を守ってあげる。可愛い可愛いエマ……」
「姉さん……」
「だってあなたは、わたしのものなんだもの」
 私は振り返り、姉と慕うひとの顔を見る――。




 どうん。どうん。ぱら、ぱら。


 窓ガラスを震わす爆発音に、エマ=フロックハートは目を覚ました。
 夢に混濁した思考が正常な軌跡を取り戻すまでに、しばし。
「また……」
 つぶやいて彼女はため息をつき、額に当てた手にじっとりとした汗を感じる。
 近頃の夢見の悪さを呪いながら体を起こす。だがそれも、致し方ないことかとも思い直す。今日のこの日が何の日かを思い起こせば。
 カーテンの隙間から漏れてくる一条の白く強い光。
 まるで白線の如き光の先の机の上には、花を模様にあしらった上品な一通の封筒が、封を開けたままあった。
 どうん。
 また、窓の外で爆発音。続けて硝子が細かく震える音がする。
 その目を覚ますような大きな音が、何であるかは既に彼女は知っていた。
 ベッドから降りて窓に近づき、薄く隙間を開けていたカーテンをすっと開く。
 鮮やかな、目に痛いほどの青空が、視界に飛び込んでくる。
 空には薄い煙が漂っている。それは花火の煙のはずだった。
「エリー姉さん……」
 エマは呟いた。

 学院祭の始まりを告げる花火。今日は学院祭初日。



                    □■□



 秋の日が過ぎるのが早いためか、その日はあっという間に訪れた。
 木々の色づきが深まっているのだが、目の前のくさぐさのことに、具体的には日常の授業と学院祭の準備と噂話に忙しかった生徒達にとってはどうでもいことらしい。
 学院祭当日の朝、まだ準備が終わっていないのか、生徒達は忙しそうにそのあたりを駆け回っている。大きな紙や文房具が入った箱を抱えているもの、ようやく出来上がった出店の看板を取り付けているもの、出店に使う食材の下処理にいそしむものもいる。
 また陸の孤島と化しているセドゥルス学院も、この日は保護者を含めた外来者が数多く訪れるため、その対応に忙しい者もいる。普段はしない化粧のために熱心に鏡を覗きこんでいる女生徒や、やたらと髪をいじる男子生徒が微笑ましい。
 生徒達は教室と呼ばれるひとりの教師が受け持つ人数の単位で集まり、出し物を準備している。人数が多い教室は、ひとつの教室でいくつかの出し物を準備していたりもするが、教室を構成する生徒数が少ないアッシア教師のウィーズ教室では、ひとつの出し物を準備するだけだった。
 それが寂しいというわけじゃないんだよ、うん。
 そう言って、赤毛の少年は意味ありげに、そして大儀そうに腕組みをしながら深く頷いた。
 うん。そうだ。たくさん出し物をするのも大変だし。出し物は、ひとつで充分だとは思うんだ。
 続けて、赤毛の彼は言った。そして、鼻の下をひとつこすろうとして――それが現状では困難であることに気づき、やめる。代わりに、独白が続く。
 でもなんというか、寂しい気持ちになることはある。たとえば、街に出たとき、多くの人に僕は囲まれる。物理的にはそうだ。でも、周りに人がたくさんいるはずなのに、寂しいという感情がわき上がってくるんだ。泉の水のように。これはいったい、どういうことなんだろうね――。
「それは、注目されてないってことだね! むははは!」
 身も蓋も無い歯切れのよい言葉で、赤毛の少年――パットの独白は区切られた。いや、ぶったぎられたと言ってもいいだろう。
「いやだけどさ、ワスリー。でも、同じ苦労をしているのに、こんなにも報われないってことに、納得できる? 僕はできそうにないよ」
 ワスリーと呼びかけられた青年に向かって、パットが言った。だがしかし、ワスリーはパットの愁情を意に介することなく、これまた言い切る。
「僕らの出番は、いずれ来る! それまでは全力で待機だ! 全身全霊、一所懸命、玉と砕けよ恋せよ乙女!」
 えいえいおーとふりつきで、大きく、腕というか羽根を振ってみせるワスリー。
「うん……そうだね。理解を求める相手を間違ったということはよくわかるよ」
「そうだろう! むははは!」
 肩と言うか、羽根を落とすパットの横で、大きく胸をそらして笑うワスリー。あまりに背を反らすので、腰の辺りに丸い枕でも挟みこめそうだ。
 ふたり――というかウィーズ教室の男子生徒は、手作りの鳩の仮装をさせられていた。
 仮装した喫茶店をやると決まったウィーズ教室の面々だが、予算の都合上、それぞれが思い思い格好というわけにもいかず、女子生徒が『天使』の仮装、男子生徒がそれに従う『鳩』の衣装をすることになった。衣装の調達もうまく行き、学院祭当日の今日、生徒達は仮装を身にまとっている。パットもワスリーも、現在この鳩の仮装をしているというわけだ。全身すっぽりと包む着ぐるみのようなもので、顔だけが出るように穴が開けられている。壁際に並んでいるふたり、パットはすでに頭の着ぐるみを外しているが、全力待機のワスリーはきっちりと着ぐるみを頭までかぶり、作り物のくちばしも口につけている。
 現在準備中なので、仮装はしても客はいないはず、なのだが。

 きゃいきゃいと、女生徒たちの黄色い声がする。
「エキア君、今度はこっち向いて、こっち!」
「ねえねえ、鳴き声、聞かせてよ!」
「ぽっぽー」
 低い声。これは、ウィーズ教室に所属する男子生徒、エキアの声だ。ストイックで軍隊的な精神構造とは裏腹に、非常に女性受けが良いルックスを持っている。当然、彼のファンとも言える女子生徒も一定数いるわけで。
「うわー、すごい、本当だ! 今日はすごく、なんというか、言うこと聞いてくれる!」
「いつもつれないっていうか、クールなのにね! 今日はサービスデーだって!」
「ね、ね、もっかい!」
「ぽっぽー。今日は仕事、ぽっぽー」
「うわ、ノリノリだっ!」
「エキア君、おもしろーい!」
「着ぐるみもかわいーし! なんか、ちょーかわいーよね!」
「任務遂行中、ぽっぽー」
 鳩の仮装をしたエキアは、数人の女子生徒に囲まれている。奇妙な絵面ではあるが、人気があることには間違いない。

 そんなエキアの様子を、遠巻きに眺める先ほどの男子生徒ふたり。
 壁の花ならぬ、壁のハト。
「ぽっぽーなら僕も言えるよ。ぽっぽー。ぽっぽー。ほら。聞いてる? ワスリー」
「はっはっは。男の嫉妬は見苦しいぞ、パット君! 紳士にならなくてはね。公明正大、旗幟鮮明、東低西高だよ!」
「言うことも同じ、着ている着ぐるみも同じ、ちっ、何が違うっていうんだ」
 パットは舌打ちをする。
「中身じゃないかな! つまり、中に入っている人間だよ!」
 ぐっと握りこぶしのワスリー。
「わかっていても言われたくないことを、そんな大声で指摘されるとは思わなかった」
 赤毛のパットは、うなだれて首を振る。そんなことより、とワスリーが朗らかに言う。
「見るんだあっちの人垣を! わさわさと、なんか虫みたいで不気味なくらい人がいるぞ! 準備段階でこれならいける! 素晴らしい、我がクラスの優勢は圧倒的じゃないか!」
 ワスリーが指差したほうを、赤毛の少年は見た。確かに、そこにはやたらと人が集まっている。
 もはや黒い塊にしか見えないが、あの人垣の中央にはヴェーヌ少女がいるはずだった。ヴェーヌはウィーズ教室最年少の金髪の美少女で、もともと天使のようなと形容されて評判だった。その彼女が、天使の仮装をしているのだから、物見高い人間から興味をもたれても仕方がないことなのだろう。
「いや、本当にすごいなあ……っていうか、あれはパニックになったりしないのかな?」
「大丈夫さ! ヴェーヌ君の悲鳴が聞こえたら、魔術であの人垣をふっ飛ばせばいいだけの話だよ! 天気晴朗波高しさ!」
 そう、とパットはとりあえず頷く。ワスリーの台詞には意味不明な箇所があったがそれはいつものこと。学院内では授業以外で魔術を使ってはいけないことになっていることも、あえて触れずにおいた。
 と。
「ふふ。計算通りやわ……。アカン、高揚するとつい郷土言葉が。落ち着きなさい、レクシア。まだ始まったばかりよ……」
 パットから少し離れた教室の隅、副クラスリーダのレクシア女史のつぶやきが聞こえてきた。彼女だけはいつもの制服ローブ姿だった。ただ、眉間を押すようにしながら、銀縁眼鏡をくいくいと何度もあげているのがいつもと違っていた。なんというか、策士的な黒いオーラが女史から放たれているような気もする。あえて女史のつぶやきには反応しないパットだった。
 代わりに、浮かんだ疑問を赤毛の少年は口にする。
「なんで、女史だけ天使の仮装をしないんだろうね?」
 それはね、と言いかけたワスリーをさえぎって、また別の声がした。
「それは、監督者だからだそうよぉ。マネジメントはプレイヤーじゃないとかなんとか、よくわからないけど」
「リーン。あれ、どうした?」
 パットが声をしたほうを振り向く。
 珍しく暗い表情の、ポニーテイルの少女。リーンと呼ばれた彼女も、ウィーズ教室に所属している。パットの幼馴染の従妹でもある。彼女も女史と同じく、制服ローブを着ている。
「さっきまで、天使の格好をしていただろ? あれ、どうした? ヴェーヌちゃんほどじゃなかったけど、人気ナンバー3で調子に乗ってたじゃないか」
 パットが続けて聞くと、リーンは、そんな風に見てたのね、と言いながら、
「着替えた。とりあえず。だって、なんか、あの格好をすると、わたしを見る視線がなんか気持ち悪い」
「視線が気持ち悪い?」
「男子生徒の視線が」
「ああ……」パットは思い当たる。確かに、天使の衣装は普段より肌が露出する。「でも、ヴェーヌちゃんも同じ衣装を着ているんだろ?」
「ヴェーヌちゃんは見に来てる人は女子もいるもの。まあそれだけじゃなくて、衣装も同じように見えてちょっと違う。わたしの衣装の方が布が少ない。ヴェーヌちゃんの衣装は多い。具体的には、肩も隠れているしスカートもちょっと長めだし胸元の開きも深くない。差別じゃない? レクシアさんは、衣装の違いはたまたまだっていうけどさ……」
 まあ実際たまたまなのかもしれないので、うーん、と曖昧な返事だけをパットはした。
 リーンは、くるりときびすを返した。彼女の肩はちから無さそうに落ちたままだ。
「ん、どこに行く?」パットが従妹に声をかける。
「そのへんの教室回ってくる。他のところの出し物も、興味あるし」
「当番の時間までには帰って来いよー」
 従兄パットの呼びかけに、リーンは背を向けたまま手を振って、別の教室を目指して歩き出した。